第23話 *かつての思い出、揺さぶられる言葉
今でも平折は、何度も夢に見る思い出がある。
『ん……よろしく』
『~~っ!』
それは母の再婚の、顔合わせのときの事だった。
目の前には義兄になるという少年。
ぶっきらぼうに差し出された手に驚き、思わず母の後ろに隠れてしまう。
手を差し伸べる――それは平折にとって、特別な意味のあることだった。
――畏怖を抱かせる行為でもあった。
『お前さえいなければ』
平折の前に差し出された手は、いつだって怨嗟に満ちた瞳と共に、幾度となく彼女に苦痛を与えてきた。
それは常に母の目を離れ、誰の助けもない場所で行われた。
平折の存在のせいであまりよくない立場に甘んじることになった父は、狡猾に、そして執拗にその苛立ちを彼女にぶつけられる。
心は蝕まれ、男性と2人きりになるとその時の事が蘇り、立ちすくむようになってしまったのは当然の結果と言えよう。
もし平折の母が再婚前にその事に気付いていれば、きっと取りやめたに違いない。
しかし平折はずっと、自分のせいで苦労する母を見て来ていた。
だから、幸せを掴もうと母の邪魔なぞ、出来るはずも無かった。
差し出された手を見て、喉の奥までせり上がってきた悲鳴にも近い言葉を飲み込む。隠れた母の背中にしわが作られる。
その時の平折はきっと、凄い顔をしていたに違いない。
初顔合わせとしては最悪の部類であったという、自覚はあった。
悪感情を持たれても仕方がない……だが、その後の昴の反応は平折の予想とは違っていた。
『ん、これはお前の分』
『……今から出かけるけど、お前も来るか?』
『テレビ、お前の好きな番組でいい』
同居してからの昴は、平折を放ってはおかなかった。
積極的というほどではないが、度々平折を気に掛けては声を掛けてくる。手を差し伸べてくる。ぶっきらぼうに、眉間にしわを作りながら。
この時の昴は、見る人が見れば、新しい家族に慣れないながらも接しようと試みている、微笑ましくも思える姿だっただろう。
だが平折がその事に気付くには、彼女はまだあまりにも幼過ぎた。
平折が不服と思っていたのはそれだけじゃない。
『お前』
名前でない、自分を差す言葉。
実父がおのれを呼ぶときの呼称。
自分は平折でなく、
それが何より、平折に昴に対する反骨心を植え付けさせた。
――でも、今ならわかる。
脳裏に浮かんできたのは、先日電車の中で昴が独白した言葉。
『俺は……寂しかったんだ……』
夢の中の昴はたちまち今と変わらない姿をとり、そして平折は目を覚ます。
「――ぁ」
時計を見れば、いつもより少しだけ遅い時刻を差していた。
久しぶりに見た夢に、激しく波打つ心臓。パジャマは汗で張り付いている。
あの時の自分は、確かに余裕が無かった。疎ましくも思っていた。
(昴さんも、同じだったんですよね……)
平折は頼れるものが居ない孤独が、どれだけ辛いか身に沁みてわかっていた。
だからこれは、罪悪感に似た何かだった。
(髪、どうにかしないと……)
このままではいけないと、平折は気持ちを切り替えるように頭を振り、卓上鏡に映る自分の姿をみる。
癖っ毛の平折は、爆発と言った形容が似合う状態の髪にため息を吐く。
手入れをしないと、自分が人前に出られない姿だという認識はあった。
今までは無理矢理髪をひっ詰めて、どうにかという体裁は整えていた。
だから、早くいつものように見られる姿にしないとと、眠気眼を擦りながら洗面所に向かう平折を責められるものは居ない。
「平折?」
「……ぇっ?!」
だけど、洗面所の前で昴と出会ってしまった。
もし平折が自分に言い訳するとすれば、寝起き、または夢のせいだと言うだろう。
この数か月、ジョギングをしている事は知っていた。
汗を流す為シャワーを浴びた昴は、荒く整えた濡れた髪と、火照った身体が艶めかしい。思わずドキリとしてしまう。
ここのところ髪など身の回りを整えてからは、義兄が妙に色気を放つ時があることに、困ることもあった。
(ちゃんとすれば、見た目もカッコイイですよね。それに、あんな行動を取られたら凜さんも……)
思い出すのは先日の出来事。
クラスメイトを本社ビルに連れ込み、怒られた凜さんに対する昴さんの行動。
あれにドキリとするなというほうが難しい。
そんな彼を前にして、今の自分はぼさぼさの爆発した頭に寝起きのブスな顔。
あまりにもな自分の恰好に、これ以上ないとばかりに顔を赤くした平折は、見せられないとばかりに洗面所に逃げ込んだ。
「ぉ、ぉはようございますっ!」
「あ、うん……おはよ」
扉越しに、そんな挨拶を交わす。
夢とは違う、いつもの挨拶。
それに少し安堵して、平折はよし、とばかりに寝癖との格闘に突入した。
◇◇◇
あれから数日が経っていた。
陽乃の突然の転校は、当日の朝、彼女のクラスで多少騒がれた程度だった。
驚いたり騒いだりするのは文化祭でやりつくしたという空気が醸成されており、当初の目論見通り、特にこれと言った問題は起きていない。
だから有瀬陽乃という存在は、驚くほど学園の日常へと受け入れられていった。
その陽乃本人といえば、昼休みとかになれば頻繁に、平折のクラスによく顔を出す様になっていた。
毎回何人か1年の女子も連れ立っているので、既に仲の良い友人も出来ているのだと思われる。
「今度の撮影は外なんだよね。何かいい場所とかないかなー?」
「おすすめスポットとして思いつくのは……人目はやっぱ少ないほうがいいよね?」
「ならいっそ、廃墟とか?」
「廃墟×美少女……あ、組み合わせとしていいかも!」
「てなると、衣装は――」
彼女達がお弁当を広げながら話題になる事と言えば、撮影に関することが主だった。
凜が彼女達を大々的に巻き込んだおかげで、色々な事に協力してくれ、時に提案もしてくれる。そのアイディアはカメラや衣装の方も唸り、参考にすることがあるくらいだ。
目まぐるしく意見が飛び交う中、平折は少し離れた立ち位置で、その様子を眺めていた。
「平折先輩! 陽乃ちゃんと一緒に写真お願いしていいですか?」
「あ…………おねぇちゃん、お願い」
「あ、はぃ」
どういう流れでそうなったのか、突然に話題を振られた平折はビックリしつつもその要望に応える。
一瞬目が合った陽乃はバツの悪そうな顔をするが、すぐさま人好きのする笑顔に切り替える。
そして、いかにも姉妹でお昼を一緒にしている日常を演出し、「これでいいかな?」と陽乃が言うや否やスマホのシャッター音が鳴り響く。
撮っているのは言い出した彼女だけでなく、話の輪の外に居た人でさえスマホを向けている。
今までレンズを向けられるという経験があまり無かった平折は、自分の顔がぎこちないという自覚はあった。
「SNSとかネットに上げるのはいいんだけど、暫くは待っててね。そうね、12月半ばくらいからバシバシお願いしたい感じかしら?」
「「「は~い」」」
撮影してきゃいきゃい騒ぐ彼女達に、凜が注意を促す。
今は11月末で、発売日は1月上旬。12月半ばからのアップというのは、それを見越して盛り上げるための布石だ。
(凜さん、やっぱ凄いです……)
平折はそんな事を考え机にへばりながら、そのやり取りを見ていた。
一通り騒いだ彼女達の興味は、その時になればどういう風に上げていこうかという事に移っている。
解放された平折に、昴が近付いてきた。
「……大丈夫か?」
「少し疲れました。撮られるのって、まだ慣れ――」
しかし昴は答える平折を遮るかのように、耳元に顔を近付け周囲に聞こえない様に支える。
「それじゃない、ひぃちゃんとのことだよ」
「どっ! どうして……っ!」
思わず大きな声を出してしまった。
確かにここの所、平折と陽乃の間にはしこりのようなものがあった。
どうやら先日、平折が陽乃に言った言葉が起因しているらしい。
だがそれは、あまりに些細なもので、誰も気にも留めていない程度の変化といえる。
しかし昴はそんな些細な変化に気付いた。
思えば、皆が平折と変装した陽乃を間違えるところを、昴だけは気付いてたのだ。
それだけ自分を見てくれているのだろう。
驚き動揺した平折は昴に向きなおろうとして――そこで周囲の注目を集めていることに気付いてしまった。
「あぅぅ……」
先ほどの大声を恥じた平折は、その場に小さくなってしまう。
だがそれをどう解釈したのか、1年の女子が2人に興味津々とばかりに話しかけてくる。
「やっぱり平折先輩と倉井先輩って、そういう仲なんですか?!」
「ふぇっ?! ど、どぅって……っ?!」
「別に、どうもしないが……」
平折は予想外の質問に慌てふためいてしまうが、一方で昴はやれやれといった様子で受け流す。
しかし彼女をはじめ1年の女子たちは、昴の言葉を信じる気配は無く、「え~」「そういう設定?」とニヤニヤするだけである。
これは平折と昴も知らない事なのだが、急に綺麗になった平折と、その後を追う様に彼女の前に現れた顔立ちの良い昴の2人は、1年の間でもよく噂になっていた。停学騒ぎ等も起こしているが、学年の違う彼女達には情報があまり伝わっていない。
そんな2人が目の前で仲睦まじそうに顔を寄せていたのだ。彼女達の反応は当然の事と言えた。
「でもさ、すぅくんはフリーなんだよね~。ていうか誰かと付き合ったこともないみたいだし?」
「……そうだよ、悪いか」
すると、くすくすと人好きのする笑みを浮かべた陽乃がやってきて、まるで2人をことを茶化すかのようにフォローする。
第三者である陽乃が言うと説得力があるのか、周囲はあからさまな顔で「つまんない~」などと声を上げる。
平折も、事態が収拾していくことにホッと胸を撫でおろそうとした時だった。
(……ぇ?)
獰猛な笑みを浮かべる陽乃と目が合う。
その目はどこまでも挑発的で――しかしどこまでも、真剣だった。
平折はそれがどういう意図なのかわからず困惑してしまう。
だけど、どうしてか嫌な胸騒ぎがしてしまった。
「じゃあさ、私がすぅくんの彼女になってもいいわけだ?」
「んなっ?!」
そう言って、陽乃は昴の腕を取って胸に掻き抱いた。
この話題の流れで、この発言に行動。
あまりの衝撃的な出来事に皆は息を飲み、水を打ったかのように静まり返る。
粛然とした周囲とは裏腹に、平折の心臓は今朝とは比較にならないほどドクドクと波打つ。
言いようのない感情と共に渦巻く胸は、その言葉を早く吐き出せとばかりとせり上がり――
「――ダメ」
しかしこの静寂を切り裂いたのは、凜だった。
その声は冷え冷えとしていながらも、どこまでも熱い感情が込められている。
自分でも意外だったのか、凛は誰よりも驚いた顔をしており――そして周囲の空気がピリピリとしたものに変化していくのを、誰もが肌で感じ取っていた。
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