第10話 時節


 タワーマンションから出ると、西の空はすっかり茜色になっていた。


「はぁ……」


 大きなため息が、夕焼け空に溶けていく。

 隣には行きと違い、有瀬陽乃の姿は無い。

 どこか瞭然としない気持ちで、帰路に着く。


 足を忙しなく動かして思い出すのは、有瀬陽乃に投げかけられた言葉だった。


『……どうして、追いかけるの?』

『どうしてって、そんなの理由とか――』


 南條凛を追いかけようとした時のことだ。

 強引に手を掴んで呼び止められ、苛立ち混じりに振り返れば――有瀬陽乃の顔を見て、足が縫いとめられてしまう。


 とっさの事に、彼女の目には自分でも戸惑いと疑問の色があった。

 だけど焦燥も色濃く映っており、それがやたらと先日平折の――どうしてだか家族の事を相談された時と同じ、迷子のような顔に酷似していた。


 それが、どうしても気にかかってしまう。


『……』

『……』


 有瀬陽乃に腕をつかまれたまま、どこか逼迫した沈黙が流れる。

 俺は彼女の真意がわからず、また、どうしてそんな顔をされるのかわからない。


 だから俺からは何もいう事が出来ず、もどかしくもあるが、有瀬陽乃が話しかけるのを待つしかなかった。


『……すぅくんにとって、凛さんは何?』

『何って……友達だろう?』

『嘘』

『嘘じゃねぇよ』


 沈黙を破った有瀬陽乃の質問は、要領を得ないものだった。

 どういう意味だと有瀬陽乃の顔を伺えば、疑問を投げかけるというよりかは、何らかの意志を確認するかのような表情をしている。


 それは俺を、ますます混乱させるものになる。


『南條凛は、あなた・・・を友人だなんて思っていない』

『そんなっ――』

『すぅくん!』

『――……っ』


 確信に満ちた断言だった。

 しかし俺と南條凛には、今までに築き上げてきたモノがある。

 平折との距離感、イジメに対するもの、そして両親との軋轢、そのどれもを共有して乗り越えて――同志とも戦友とも言える絆じみたものを感じているのは俺だけではないはずだ。


 堪らず『違う』と声を上げようとするが――不思議とこちらが口をつぐんでしまうほどの凄みが、有瀬陽乃にはあった。


 思えば、有瀬陽乃と南條凛の境遇はよく似ている。

 親から離れようとしているところまでそっくりだ。

 そこに、何かしら通ずるところがあったのだろうか?


 確かに先程の南條凛は、いつもと違い情緒不安定になっていた。

 時折彼女が見せてきた弱い一面だ。


 もしかしたら、彼女達にしかわからないものがあるのかもしれない。


 それでも――


『今の凛は放っておけない』


 俺の偽らざる気持ちだった。

 己の意志を込めて、有瀬陽乃に見つめ返す。

 これだけは譲れない、と。


『そっか、なら行ってあげて。こっちはこっちで、他の部屋も見て回るから』

『……あぁ!』


 有瀬陽乃は、フッと表情を緩めると、今度は早く行けとばかりに背中を押す。

 どこか拍子抜けしてしまったのも事実だ。


『…………は大変だぁ』


 去り際に呟いた言葉は良く聞こえなかった。


 それよりも俺は、南條凛の事が気に掛かっていた。

 彼女は時折、情緒不安定になるときがある。

 それはどれも、家族や平折の事が絡んだ時だ。


 今回も、何か彼女の弱い部分に触れたものがあったのかもしれない。


 ……南條凛は凄いやつだ。


 何でも出来て大企業のお嬢様で、そして繊細な部分を持つ1人の女の子だ。

 俺は今まで散々世話になり彼女の色んな側面を見て、その事を良く知っている。


 例え自己満足だとしても、今の彼女の力になりたいと強く思う。


『……凛?』

『っ?!』


 部屋にたどり着き、言葉を交わした南條凛は、いつもと同じ様子に戻っていた。

 いつもと同じ、どこか心地よい軽口の応酬だ。


 もしかしたら、時間が経って落ち着いたのかもしれない。

 俺はあぁ良かったと、ひとまずそれに胸を撫で下ろす。


『ほら、こないだのお礼!』


 顔を見せてくれた南條凛は、押し付けるかのようキーケースを俺にくれた。


 皮製のしっかりした物だった。

 肌触りもよく落ち着いた色合いで、高校生の自分が持つには少し背伸びをしているんじゃ、などと思ってしまう。

 バレッタのお礼だという事だが、正直お礼をもらえるとは思っていなかっただけに、望外の嬉しさが顔に出るのは仕方ない事だろう。 


 そんな俺を見て微笑むを見て――



 ――有瀬陽乃の言いたい事がわかってしまった。



 すぐさま扉を閉められたのは、俺にとっても都合が良かった。



『――初瀬谷駅、初瀬谷駅』



 電車のアナウンスで我に返る。


 自分の中で生まれたものを確かめるかのように、手のひらでキーケースを弄ぶ。

 まさかという思いもあり、自分でもにわかに信じられるものではない。有瀬陽乃の勘違いかもしれない。


 だけれども、もしそれが的中すればと思えば、一笑に付すことができるものではない。


 ……それに今はまだ予想外というか、困惑の気持ちが強い。


「……ぁ」

「……平折?」


 そんな事を考えていると、改札の近くで平折に声を掛けられた。

 同じ電車の違う車両だったのか、俺を見つけた平折はとてとてとこちらに駆け寄ってくる。


 手には大きな紙袋。良い物が買えたのか、いつにも増して機嫌がいい。


 何故かキーケースを見られてはいけないと思ってしまい、素早く鞄にしまいこみ、そのまま定期を取り出した。

 自分でも誤魔化したという自覚はあり、後ろめたい気持ちになる。


「待っていてくれたんですか? もぅ、お母さんの言う事を真に受けなくてもいいんですからね」

「あぁ、まぁ、その、な……」


 更にはそういえばと今朝の事を思い出し、おかげで曖昧な返事をしてしまった。少し良心が痛む。

 愛想笑いを返すが、ぎこちなくないか心配だ。


 だけど平折は上機嫌だった。


 弥詠子さんにブツクサと文句を言うものの、嬉しさは隠しきれていない。

 ぴたりと俺の隣に陣取り、紙袋を揺らす。

 普段は大人しい平折にとって、それだけ良い事があったようだ。


「っ!」


 そして何故か――キーケースを貰った時の、凛の笑顔と重なった。


 ……


 胸がざわつく。

 鼓動が荒海の様に波打つ。


 それを誤魔化す為に、これ以上心が荒れるなとばかりに言葉を紡ぐ。 


「良いものを買えたのか?」

「わかりますか?」

「ご機嫌だからな」

「ふふっ、出来上がりを楽しみにしておいてくださいね!」

「……あぁ」


 返事をする平折は華やかな笑顔を咲かしていて――眩し過ぎて目を逸らしてしまった。

 そんな自分が嫌になる。


 自惚れでなければ、平折にとって俺は特別な存在だ。


 そしておそらく凛も――


 平折に気付かれぬよう、ため息を吐く。


 色々と向き合うべきものが、確実に近付いていた。

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