第26話 姉妹


 歩くとやたらと沈み込むカーペットに、素人目にも高価と分かる調度品。そこはホテルというより、豪邸のリビングと言ったほうが相応しい内装だった。

 俺は生まれて初めて足を踏み入れるスイートルームに、すっかり困惑してしまっていた。


 ――一体、一泊いくらするんだろうか?


 どこか現実味もない空間で、そんな益体もない事を考える。

 諸外国の要人や著名人もこぞって利用するようなこの場所で、誰が高校生が休憩するためだけに使用すると思うのだろうか?

 何だか自分の価値観が崩れていくのを感じてしまう。


「ごめんなさい、平折ちゃんっ!!」

「あ、あの、凛さん、顔を上げて……」


 平折はと言えば、混乱の極致にあった。

 座ればまるで包み込まれるように沈み込むソファーの縁にちょこんと腰掛けて、小さく固まってしまっている。


 彼女の目の前には、この状況を作り出した張本人南條凛が、深々と頭を下げていた。


 平折は明らかに理解が追いついていない顔だった。あぅあぅと鳴きながらこちらをチラリと見てくるが、この豪華過ぎる部屋に圧倒されている俺も似たような状況だ。力なく首を横に振ることしか出来ない。


 それにこの場は、南條凛が平折に謝る場面でもあった。

 だから俺が口を出すのは、なんだか憚はばかられた。


「あたし、あの男をやり込めることしか考えてなかった……平折ちゃんがどう思ってるかなんて、全然頭に無くて……」

「あぅ……私もう、気にして……」


 平折の言葉は、おそらく事実だろう。

 驚愕とか混乱といった感情に上書きされて、すっかりいつもの平折に戻っているようだった。


「それにしても、おねえちゃんがアカツキグループのお嬢様と友達だなんてビックリだよ」


 俺や平折と違って、慣れているのか有瀬陽乃は堂々としたものだ。

 くつろいだ表情で少し離れたソファーから、平折と南條凛を眺めている。

 その表情は、呆れ半分嘆息半分といった所か。


「有瀬陽乃、さん……あなたに対しても酷いことをしたかも……その、お父さんの事をあたし……」

「あはは、いいっていいって。あの人、我が父親ながらちょっとアレだし……でもちょっと家には帰りづらくなったかな?」

「それなら部屋を貸しましょうか? グループ系列のところなら便宜図るわよ」

「んー、もしもの時はお願いするかも。保証人とかネックだし」


 南條凛と有瀬陽乃の会話は、まるで異次元の内容だった。

 高額なお金が動くさまを目の前で見せられ、どう考えても高校生がするような内容で無い。

 同じ事を思ったのか、目の合った平折と苦笑し合う。


 それよりも俺は気になっていることがあった。


「平折、大丈夫……なのか?」

「はぃ……今は平気、です」


 少し困ったような笑顔を見せる。


「だけど、凛さんがこんなにもお嬢様だなんて知りませんでした」

「そうだな。実際目の当たりにしたら、想像以上で驚い……平折?」

「……知ってたの、ですか?」

「あ、いや、その……」


 平折はどうして黙っていたの? と言いたげな表情で、ぷくりと頬を膨らませた。


 何と言って宥めようと考えて――なんだ、いつもの平折だ――そう思うと、笑いがこぼれてしまった。

 笑った俺が気に入らないのか、今度は口を尖らせさせる。


 先程、有瀬直樹を前にしたときの平折の様子は、尋常ではなかった。

 顔は病人の様に青褪めて、肩や足は小刻みに震わせ、立っているのが不思議なくらいの状態だった。

 南條凛に責められている有瀬直樹の方が、よっぽど堂々としているとさえ思えた。


 きっと平折には、俺には想像できないほどのトラウマがあるのだろう。


 思い当たる節もいくつかある。

 かつてナンパされた時や、坂口健太に呼び出しを受けた時――男性と2人で対面すると、先程の様にトラウマが刺激され、身体が震えてしまっていた。


 ――あれ、じゃあ何で俺は平気なんだ?


「あの、おねえちゃん……ごめんなさいっ!!」

「は、はぃ……ふぇっ?!」


 だがその思考は、いきなり平折に頭を下げた有瀬陽乃によって遮られた。

 突然の有瀬陽乃の謝罪に、平折はどういう状況か飲み込めないでおり、今度はふぇぇと鳴いている。


「私がおねえちゃんを不幸にしたの! あの時私が強引に連れ出したせいで、おねえちゃんが悪者になって……何か言いたくても、あの後すぐに引越しちゃったし、それで……っ!」

「陽乃、さん……」


 何に対しての謝罪なのかと理解した平折は、次第に目を細めて有瀬陽乃を見つめていく。


「私、知ってたのに! あの男がおねえちゃんを邪魔に思っていたの、知ってたのに! なのにっ――」

「いいんですよ」

「――ふぇ?!」


 突如、有瀬陽乃は平折みたいな驚いた声を上げた。


 それは意外な行動だった。

 有瀬陽乃に――腹違いの妹に近寄った平折は、彼女の頭を自分の胸に抱き寄せる。

 俺と南條凛も驚き目を見張り、この姉妹の様子を見守る。


「陽乃さんは勘違いしてますよ。私は今、全然不幸じゃありません」

「え、でも……」

「だって素敵な人が傍にいますから」

「ぁ……」


 そう言って、平折はこちらに向かってにこりと微笑む。


 それは初めて見る顔だった。

 有瀬陽乃を宥める平折は、慈愛に満ちた姉の顔だった。


 ――そんな顔も出来るんだ。


 平折は義妹だ。誕生日が3ヶ月だけ違う、少し年下の女の子だ。

 だけど――同い年で同じ学年の女の子だ。


 どうしてか、俺はその事を強く意識させられてしまった。


「私は今、幸せですよ。だから陽乃さん、自分を責めちゃメッ、です」

「おねえ、ちゃん……おねえ゛ぢゃん゛んんーっ!!」

「ふぇっ?!」


 感極まったのか、有瀬陽乃は平折にしがみつくように腕を回し、泣き出した。


 先程見せられた、9桁の通帳を思い出す。

 あれだけの額を稼ぐのに、一体どれだけの苦労を重ねてきたのか想像することさえ出来ない。


 しかし今、外聞を気にせず背負った物を置いて泣きじゃくる様は、姉に甘える妹そのものだった。


 だというのに平折は、有瀬陽乃の行動が想定外だったのか、おろおろしながら「あぅ」「その」と情けない声を漏らす。

 なんだかそこが平折らしくて、俺と南條凛は笑ってしまう。


 平折と有瀬陽乃は、腹違いとはいえ確かに姉妹だった。

 やっとわだかまりの解けたこの姉妹の邪魔をするのは、野暮に思えた。


「行くぞ、凛」

「え、ちょっ……そこ寝室?! あ、あのっ、あたし……っ」


 だから強引に南條凛の手を掴んで、隣の部屋に入って扉を閉める。

 今はそっと、2人だけにしてあげた方がいい。


「なぁ、凛」

「な、何よ」

「良かったな、2人とも」

「……そうね。それとあんた、その顔……」

「ん?」

「何でもないわ」


 ――平折は凄いな。


 隣の部屋で思うのは、その事だった。

 結局俺は、その場に居ただけでしかない。


 有瀬直樹の件は南條凛が、有瀬陽乃の悩みは平折本人が解決している。


 彼女達と比べて俺は――


「昴、えいっ」

「……凛っ?!」


 今度は俺が、南條凛に鼻を摘まれた。

 突然の事にびっくりする俺に、悪戯っぽいいつもの顔を近寄せてくる。


「変なこと考えないの。あんたも十分凄いやつよ、少なくともあたしにとっては、ね」

「り、ん……」


 きっと変な顔をしていたのだろう。

 だから励ましてくれたに違いない。

 これだから、南條凛には敵わない。


「……ありがとな、凛」

「ふふっ、どう致しまして」


 背後からは、未だに有瀬陽乃のむせび泣く声が聞こえてくる。


 ……


 有瀬陽乃の事だけじゃない。俺はまだ、平折の知らないことが多い。

 何故今まで、それだけ無関心だったのだろうか?


 先程の、慈愛に満ちた平折の顔が、鮮烈に脳裏にこびり付いている。


 あんな顔、俺は知らない。誰かを包み込む強さを併せ持つ、あんな顔を――


 気付けば俺は、父親にメッセージを送っていた。


『親父と弥詠子さんの出会いを知りたい』


 もはやそれは、有瀬直樹と平折の件と無関係とは思えない。


 俺は、平折の全てを知りたいと思う様になってしまっていた。

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