第24話 横槍


 頭の中は一瞬にして沸騰していた。

 自分の中の感情を司る部分の許容値はとっくに振り切りており、却って冷静になってくる。

 ただし、その声はどこまでも低い。


 ――平折を買う。


 その言葉に生理的な嫌悪感を覚えた。

 到底受け入れることが出来なかった。


 まるで平折をモノのように扱っている……そんな事は断じて許されない。

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、有瀬陽乃は淡々と言葉を紡いでいく。


「およそ1000万円」

「それがどうした?」

「子供1人に対してかかる養育費の相場よ」

「だからっ……いや、そうか」


 有瀬陽乃の顔は、先程のはしゃいでいた時とは違って、無機質な能面の様な顔になっていた。

 その表情は読み取れないが、それだけに有瀬陽乃の心情も伝わってくる。


 ――養育費。


 その単語で、少しだけ熱くなっていた頭に理性が灯る。

 これは平折に関する相談であると共に、その父親に関する相談でもあった。

 つい先日南條凛にその事について聞いていた事で、色々と向き合う覚悟が出来ていたのが幸いした。


「平折の父の示談金の話に関わることか」

「養育費って意味もあったから、毎月支払われて……って知ってたんだ、驚いた」

「あぁ、凜に……南條凛、アカツキグループのお嬢様に聞いた」

「はっ?! ちょっと待って?!」


 ガタリ、と有瀬陽乃が立ち上がる。

 自分で大声を出したことに気付いたのか、恥ずかしそうに周囲を見渡し、そして誰も見ていなかったことを確認して席に座った。


「……どういうこと?」


 今度は有瀬陽乃が尋ねる番だった。


「どうもこうも……さっきも平折に隣に髪の明るい子が居ただろう? アカツキグループ会長の孫娘だそうだ。彼女に聞いた」

「彼女はおねえちゃんの……」

「親友だ」

「……そう」


 と呟き、有瀬陽乃は思案顔になった。反応から見るに、どうやら南條凛の事は知らなかったようだ。

 俺とも偶然出会ったという感じだった。きっと有瀬陽乃は思った以上に最近の平折を知らないと見える。


 それは俺も同じだった。


 俺も有瀬陽乃やその父親に関することは、目の前で見聞きしたことと南條凛に教えてもらったことしか知らない。知らないことが多すぎる。

 だが、想像することは出来た。


 弥詠子さんは40目前とはいえ30代だ。同世代の母としてはかなり若い。

 大卒してすぐに平折を抱え、金銭的に苦労したのは想像に難くない。

 きっと平折が小さい時は、示談金という名の養育費が生命線だったのかもしれない。


 ――そういえば、両親からその辺りの話を聞いたことが無いな。


 聞くのも野暮な事だったし、また仲も良好だったので、気にしたこともなかった。

 色々話を繋ぎ合わせてくると、その出会いも気になって来ていた。


 しかし今は平折の事だ。


「おねえちゃんを買う……つまり示談金で何かあるというのか?」

「それなんだけど、ちゃんと支払われてないみたいなのよね」

「……何故?」

「こないだ、神社で崖から落ちた話はしたよね?」

「それが今どういう――」

「あれね、おねえちゃんが私を連れ出して危ない目に合わせたって話になってる」

「――は?」


 自嘲気味に言葉を零す有瀬陽乃の顔は、悔恨の念に彩られていた。

 先日神社で聞いた話とは随分違う。そちらが真実だとすれば、つまり――


「平折のせいにして、示談金の支払いを打ち切ったというわけか」

「我が父ながら最低よね」


 ……南條凛は平折と有瀬陽乃の父が、スキャンダルを恐れているのではと言っていた。

 つまり、それだけ平折という存在が邪魔だという事だ。

 話を聞いていると、当時から経済的に圧迫して余裕を奪い、コントロールしようとしたんじゃないかと思えてくる。


 そして現在、俺、いや俺達は不自由ない暮らしをしている。

 彼にとって出世の手駒でもある有瀬陽乃には、平折というスキャンダルの火種を抱えている。


 このまま無関係で――と願うが、彼が許してくれるかどうかはわからない。


「私はね、すぅくん。おねえちゃんの自由を買いたい」

「……そうか」


 ひぃちゃんの、有瀬陽乃の願いはそれなのだろう。

 彼女の言葉とその瞳には、後悔の光と共に強い意志を感じられた。

 そして鞄をまさぐり、取り出したものを見せてくる。


「通帳……は?! 何だこの額?!」

「一般的な生涯年収分はあるかな? あれからずっと、お仕事頑張ってたからね」


 そこには俺から見て、いや一般人から見ても信じられないような額が記載されていた。

 これだけあれば、誰かの人生を左右するには十分すぎるほどの額だ。贅沢しなければ、一生働かなくても暮らしていける。

 平折の為に貯めたとしたら、それだけ有瀬陽乃の本気度合いが伺えてしまう。


 だけれども……自分でも理由はわからないが、それではないと心が訴えているのが分かった。

 果たして平折がこれを手にして喜ぶのかと。


「……こんなの、平折が渡されても困るだけだろ」


 それが願望混じりの自分勝手な言葉だった。


「だよね、だって私がそうだもの」


 しかし有瀬陽乃はそれに同調する言葉を返した。

 お金だけあってもしょうがないと、有瀬陽乃の顔は告げている。

 まるで迷子の様に途方に暮れた顔をしていた。


 そしてそれは、出会った頃の平折の表情に酷似し過ぎていた。


 ――そこで平折と同じ顔をするのかよ……っ!


 正直に言えば、有瀬陽乃とはあまり深く関わる気は無かった。

 過去に色々あったとは言え、今やその関係は希薄だ。

 だがその顔を見せられると、どうしても心が揺らいでしまっていた。


「……ひぃちゃん、俺は――」

「ここに居たか、陽乃」

「……お父さん?!」


 その時、俺達の目の前に一人の壮年の男性が現れた。

 彼は強引に有瀬陽乃の手を掴んで立たせたかと思うと、俺と彼女の意思を無視して強引に外へと連れ出そうとする。


「撮影はとっくに終わってるはずなのに何をしているんだ……手間を掛けさせる」

「やっ、痛い……やめっ……」


 有瀬直樹――平折と有瀬陽乃の父親だった。

 彼の顔は、南條凛に見せてもらった資料で目に焼き付けていたので、すぐにわかった。


 その彼はまるで、有瀬陽乃を道具の様に扱い、所定の場所に収めようと強引に引っ張っていく。


 どことなく平折と有瀬陽乃の顔立ちと似ている部分があったが、その威圧的で冷たい瞳や他者を寄せ付けない空気は、オロオロあわあわしている平折とは似ても似つかなかった。


「ちょっと待ってください」


 その平折と似た雰囲気を持ちながらも、彼女とかけ離れた横暴な態度が許せなくて、思わず声を掛ける。

 だが有瀬直樹はこちらを一瞥し、さも下らないと言った様子で言葉を吐き出す。


「君は……有瀬陽乃の今後の為にも彼女の事は忘れなさい。君とこの子が買い物している写真もSNSに上げられているのをみて飛んできたんだ。娘の価値が貶められた慰謝料を求めたいところだが、手切れ金合わせて相殺してやる」

「な……っ?!」


 あまりの言い草に頭が真っ白になってしまった。

 これが自分の娘に対する考え方なのだろうか?

 異次元過ぎる考えに理解が追い付かない。


 彼はここにもう用はない、そして手間を掛けさせるなと言いたげな表情で有瀬陽乃を引っ張っていく。


 しかし怯える様な有瀬陽乃の顔をみて――気付けば2人に回り込むような形で、彼らの前に躍り出た。


「彼女との話が終わってないのですが」

「こちらから話すことはもうない、邪魔をしないでもら――」


「そうね、あたしの友人を紹介する邪魔をされると困るわ……どういうつもりかしら、有瀬さん?」


「っ?! 貴女は……」


 俺と共に2人の行く手を阻むように現れたのは、アカツキグループの令嬢、南條凛だった。

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