第18話 過去とおかえりと味噌


「その日はね、皆と遊んで、初めておねえちゃんが楽しそうにしている顔を見たんだ」


 過去を懐かしむような、それでいて後悔を孕んだ複雑な笑顔だった。


 きっとその日は、俺にとってはありふれた日だったのだろう。

 当時の俺は寂しさを紛らわすためにここに来ていた。

 それに子供の頃なんて、相手の名前さえ知らなくても仲良くなれた。


「帰ったら怒られるだろうな、もっとこの時間を引き延ばしたいな、だとかそんな気持ちでさ、子供にしては遅い時間……丁度今みたいに暗くなり始めた時に――私たちはここから落ちた」


 有瀬陽乃が映している視線に倣い、俺も崖の下を覗き込んでみる。

 それは大体2階の窓から落ちるくらいの高さだ。

 人の手は完全に入っておらず、草木が生い茂っており、地面はそこまで硬くはないのだろう。


 しかし子供にとって、この高さから落ちてしまうというのは大事件だ。

 自分の力で這い上がることが叶わぬそこは、まるで奈落の底に落ちるに等しい。


 だというのに俺は、ここに落ちたという記憶はどこを探しても見つからなかった。


「不思議そうな顔ね」

「ここから落ちた記憶が無くてな」

「そりゃあ、すぅくんは意識が無かったもの」

「……は?」


 言われた意味が良く分からなかった。

 だけど有瀬陽乃は、『やっぱりね』といった顔を見せながら、コツンとつま先で軽く地面を蹴る。


「子供心に、この下がどうなってるのか気になったのよ。で、覗き込んだ瞬間足元がずるりと崩落。すうくんは咄嗟に、落ちそうになった私たち抱えて背中からドシーン! てわけ」

「……そうだったのか」


 言われても、ピンと来るものはなかった。

 もし言ってる事が本当だとしたら、幼いながらにも随分無茶な事したと思う。


 ――すぅくんはいつも無茶をします。


 先日、謹慎処分を受けた際に、平折に言われた台詞を思い出す。


 きっと、もしこの場所から落ちたとしたら、強烈に死の予感を感じた事だろう。

 あの時の俺は母親を亡くして、そう言った事に敏感だったと思う。

 だからそれは、無意識にした行動だったのかもしれない。


「下敷きになった男の子はさ、私たちを安心させようと、朦朧とした意識でも『大丈夫、大丈夫だから』と必死に頭を撫でてくれてたんだ。けどね、途中で意識を失っちゃってさ」

「随分とサマにならない奴だな、そいつは」

「ホントだよ。その時は、男の子が死んじゃったー! て泣き叫んでたんだからね。更には雨も降ってくるし、もうパニック状態!」

「けど今は御覧の通り、ピンピンしてるよ」


 そう言っておどけると、有瀬陽乃もくすくすと笑う。そしてひとしきり笑った後、急に真剣な顔に変わる。

 身にまとう空気も一変し、圧倒されつつも引き込まれるものがあった。


 これが現役モデルが持つオーラの様なものなのだろうか?


「おねえちゃん共々身を挺して守ってくれて、更には力尽きて気を失うまで励ましてくれる男の子。その子がただの良く遊ぶ男の子から、特別な憧れを抱く男の子に変わるには十分な出来事だったよ」

「でもそれは、俺の知らない男の子だな。俺はそれを覚えていない」

「そうかもね。でもだからこそ、私は今のすぅくん知りたいし、今の私も知って欲しい……おねえちゃんの事を抜きにしてもね」


 有瀬陽乃はそう言って、蕩ける様な良い笑顔を魅せて、右手を差し出す。

 俺も同じ気持ちだという思いを込めて、その手を握る。

 一度強めにぐっと握りしめると、有瀬陽乃もギュッと握り返してきてくれた。


 なんだか儀式めいた挨拶だが、胸にこそばゆいものがある。

 どこか南條凛と同志のごとく交わした握手を連想させられた。


 悪い気はしなかった。思わず笑みも零れてしまう。


 そして有瀬陽乃も同じ気持ちなのか、不敵な笑みを浮かべていた。と同時に、どんどん顔を真っ赤に染め上げていき、瞳は泳ぎ動揺を隠せなくなっていく。


「……有瀬陽乃?」

「あ、あはは……いやぁ、あまりに青春っぽいって言いますか、我に返ると何やってんだーて感じになりまして、はい……それに男の子とこんな風に手を繋いだりして冷静になると凄くアレでいっぱいいっぱいでその……」

「……出会いがしらに抱き付いてきた奴が何言ってんだ?」

「き、昨日は感情が高ぶっていたし、さっきのは演技だったから平気だったというか……その、私もですね、年頃の乙女なわけでして……」


 ――私だって、女子なんですよ?


 ふいに、かつてフィーリアさんゲームの平折に言われた事を思い出した。


 目の前の有瀬陽乃の言動といい、いきなり顔を赤くして慌てだしてしまうところといい、妙な所で異母姉妹という血の繋がりを実感しまう。

 なんだか可笑しくなって、笑いを堪えることができなくなってしまった。


「もぅ、笑うなよー!」

「はは、すまん」




◇◇◇




 その後、有瀬陽乃には駅まで送ると言ったのだが、バスで駅前まで行ってタクシーを拾うと固辞された。顔は赤いままだった。


 平折との血の繋がりを感じさせられることに、どこかほっこりしつつ家に着いた時には、既に陽は完全に暮れてしまっていた。


 ……以前、遅く帰ってきた時の平折の様子を思い出し、もう少し早く帰るべきだったかと独りごちる。

 また不安に襲われていないかと心配したが、玄関だけじゃなくキッチンやリビングにも灯かりが点いており、杞憂だったかと安堵した。


「ただいま、っと」

「ぉ、ぉかえりなさい」

「……平折?」


 ドアを開けるなり、キッチンの方からとてとてと平折が出迎えてくれた。

 まるで尻尾があったら、千切れる程振っていそうな笑顔だ。


 その恰好はブレザーだけ脱いだ制服にエプロン姿。髪は一つに束ねて、手には菜箸。


 どうやら夕食を作ってくれている最中の様だ。


 俺と目があった平折は、悪戯がバレたかのような顔でえへへとはにかみ、手に持つ菜箸を背中に隠す。


「なんだか珍しいな」

「こ、こう胃袋を掴めば帰ってくるのも早くなるかなーなんて……そ、その、いつも作って貰ってばかりだし、私だって女子というのをアピールしないと……」


 そんな事を、顔を真っ赤にしながら早口で言い立てる。


 何だか先程の有瀬陽乃と同じ反応過ぎて、くつくつと笑いが起こるのを堪えることが出来なくなった。


「むぅ……」

「違うよ」


 馬鹿にされたのかと思った平折が頬を膨らませて抗議するが、そうじゃないぞと気持ちを込めて頭を撫でる。

 髪をくしゃくしゃにされた平折からは「ズルい」と唇を尖らせられた。


 だけど――


「俺も手伝うよ」

「はぃっ」


 返す言葉は笑顔だった。


 過去にどういう事があるかはわからない。

 しかし、今この笑顔があることが一番重要だ。そこだけは間違えてはいけない。


「……平折は十分女の子だよ」

「ふぇっ?!」


 驚いた拍子に、溶いてる最中の味噌が俺に跳ねた。

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