第16話 もし、あたしだとしても


「さ、上がって」

「……お邪魔します」


 南條凛の家に訪れるのは5回目だった。

 何度訪れてもその威容を誇る高さに圧倒され、エントランスの豪華さには気後れしてしまう。

 彼女が一人で住むには広すぎる4LDKはしかし、手入れが行き届いており――そして何故か今までと違った違和感を感じてしまった。


「あれ……?」

「何さ?」


 上手く言葉に出来なかったが、今までとは違った印象を受けてしまった。それが何だかわからなくて首を傾げてしまう。


「っ! ちょ、ちょっと待ってなさい!」

「あぁ」


 だがそれも、いつものようにリビングに通されたとき、何となくわかってしまった。


 ソファーに投げ出された服に、ローテーブルに載っている美容用品。

 あまり見られて気持ちの良いものじゃないだろうと後ろに目をやれば、玄関には以前は無かった姿見にいくつかの散乱したブーツ。


 つまるところ、南條凛の生活した後が生々しく残されていたのだ。


 彼女の今までの事を考えると、まるで機械や人形の様に生活をしていると印象があった。

 しかしこの痕跡は、ちゃんと南條凛が生きているという、息遣いが聞こえてくるようだった。


 それと同時に、急激に南條凛という女の子の事を強く意識させられ、ひどく落ち着かない気分にさせられてしまう。


「わ、悪かったわね、散らかってるのを見せて」

「いや、凜もこんな油断を見せるんだな」

「……あんたと平折ちゃんに調子を狂わせられてるのよ」

「え……?」

「もっと可愛い自分を見せ……あぁ、もう! それより平折ちゃんの父親の事だったわよね!」

「あぁそうだ」


 強引に話を打ち切った南條凛は、ソファー前のローテーブルに、バサバサと資料を広げていく。

 その量はちょっとした論文程のボリュームがあり、度肝を抜かれる。

 よく調べたなというより、どうやって調べたんだ? という疑問の方が先に立ってしまう。


 ドヤ顔でもしてそうだなと南條凛の顔を見れば、何故か険しい表情をしていた。


「ねぇ倉井、あんたはこの事を何のために調べてるの?」

「それは……」


 即座に答えることは出来なかった。


 色々自分の中で言い訳を重ねたところで、結局は自分の為だという事に他ならない。

 傍から見れば平折と有瀬陽乃の関係を、好奇心から暴こうとしていると思われても否定できない。


 だけど結局のところそれは――


「何かあった時、平折の力になりたくてかな」

「そっか、なるほどね……まぁいいわ、これを見て」


 そう言って南條凛が差し出したのは、どこかの雑誌の記事の切り抜きだった。

 目立つ見出しの所には、知的そうな、だけどどこか冷たい様な印象を受ける、父と同じくらいの年代に見える男性が映っている。


「これが平折の……? 営業と広告、自社ブランドの投資と育成……これは……?」

「有瀬直樹、アカツキコーポレート企画広報の本部責任者のインタビュー記事ね」

「アカツキ……って、あのアカツキグループか?!」

「そのアカツキよ。あんたが普段通学に使ってる電車やこのマンションもそうね」


 アカツキグループと言えば、戦前からこの地方で私鉄を核として発展した一大グループだ。

 主要な都市にはその名を冠するデパートがあり、物流だけじゃなく生鮮食品からアパレル、レジャー、不動産までも扱い、その名を知らぬ人を探す方が難しい。


「かなり商品、そして自分を売り込むのが上手い男ね。アカツキグループ内外に太いパイプを持ち、数年のうちに執行役員に上り詰めるのは確実でしょうね。さて、そんな彼が力を入れて多大な利益を上げた商品・・というのが――」

「有瀬陽乃、なのか?」

「正解。有瀬陽乃を広告に起用した商品はバカ売れ、さらには彼女の為に作った芸能部門も堅調で、新しい業界に手を出す足掛かりにもなっているわ」

「……そうか」


 記事の経歴を見てみれば慶王大という一流大学を出ており、絵に描いたようなエリートコースを歩んでいる。

 なんだか現実味が無くて、他の世界の話を聞いているかのようだった。

 だからこそ、平折がこの人物を恐れているという事に、ひどく違和感を感じてしまう。


「ちなみに彼の旧姓は、高柳直樹よ」

「……は?」

「有瀬家というのは資産家でね、アカツキグループでもそれなりの発言力がある家だわ。つまり彼は婿養子ってわけ。……そして社外秘だけど、結婚と同時期にとある女性への示談金ということで、相当額のお金を払おうとしたのがわかっているわ」

「まさか、それって……」


 詳しい事はわからない。だけど、有瀬家への縁談の為に平折が邪魔になっていたというのだけはわかった。


「有瀬陽乃だけでなく、父の有瀬直樹もその筋では有名だわ。そして父娘揃って吉田平折という異母姉は、スキャンダルの種以外の何物でもない」

「なっ……!」


 南條凛の瞳は、もし平折が邪魔になれば全力で潰しにかかって来るけどどうする? と問いかける様なものだった。


 ……おもえば、引っ込み思案で目立たない様にしてきていた平折だ。


 その背景にはこのような事があったと知れば、どこか納得だ。

 南條凛も同じ考えなのか、神妙な顔をしている。


 想像も出来ない事だった。それでも俺は、平折がまた、自分に我慢を強いる顔をするのが嫌だった。

 そうだ、俺の腹はとっくに決まっている。


「もし……もし向こうから何かされたとき、俺に何が出来るかって考えないとな」

「……倉井は」

「ん?」

「倉井はそんな凄い人相手でも、怖気無いんだ……どうして?」

「どうしてって……相手がどれだけ凄いか、よくわかってないだけかもしれないな」

「あはは、そっか、倉井らしいね」


 そう言って南條凛はカラカラと笑ったかと思ったら、急にずずいと真剣な眼差しで俺に迫ってきた。


「ね、倉井」

「な、なんだよ」

「もし今回の事がさ、平折ちゃんじゃなくてあたしだとしても、そこまで何かしようとしてくれた?」


 その顔はどこまでも真剣だった。


 俺は彼女が家族の事で問題を抱えていることを知っている。

 目の前の少女が、本当は口が悪い癖に、どうしようもなくお節介で面倒見がいい事も知っている。

 そして平折と同様、家族の愛情に飢えているという事を知っている。


 だから迷うことなく、言葉をすぐさま返すことが出来た。


「当たり前だろう、凛の為ならそれくらいするさ」

「ふぇっ?!」


 だというのに俺の言葉が予想外だったのか、南條凛は平折みたいな素っ頓狂な声を上げた。

 それだけでなくあわあわと目を泳がせて、全身で動揺しているという事を表現している。


 意外だと思われる事なのだろうか?


 俺は散々南條凛の世話になっている。気の良い奴だし、かけがえのない存在だ。特に平折の事に関しては絶対の信頼のおける同志とさえ思ってる。

 だから答えなんて最初から決まっているというのに……


 ――そんなに俺が薄情だと思われてるのだろうか?


 心外な事で、思わず眉をひそめてしまった。


「あ、あんた迷いもなくそれって……ひ、卑怯よ!」

「な、え、ちょっ?!」


 いきなり正面に回り込まれたかと思えば、いきなり俺の膝の上に対面で座りこんできた。

 その距離はどこまでも近く、身体を弄る腕に潤んだ瞳、そして濡れた唇に、一瞬にして身体を沸騰させられてしまった。


「狙ってか天然かは知らないけど、あんたって相当女ったらしね……将来が怖いわ」

「そんな事……っ! 揶揄うのは止めてくれ、こういうのは慣れてないって言っているだろう?」

「あたしだって慣れていないわ。ていうか、あたしが誰にでもこんな事する女だと思う?」

「それは……思わないけど……」

「くすっ……よろしい」

「り、ん……」


 俺は今、理性が溶かされるという事態に直面していた。


 南條凛は魅力的な女の子だ。

 普段はあまり意識しないようにしているが、こうして強く意識させられると嫌でも心を奪われて行ってしまう。

 俺の理性は劣情に支配されていき、正常な判断が出来なくなっていた。


 蠱惑的な瞳やぷっくりとした唇に柔らかさを感じる身体、それらに今すぐ貪り獣の様な衝動に身を任せたくなる。


 だというのに――


「ね、倉井はあたしに頼まれても襲わないって言ってたよね?」

「あ、あぁ。当たり前だ」

「でも倉井が望むなら話は別、って言ったらどうする?」

「……っ?!」


 それはまるで悪魔のささやきだった。


 目の前の美少女に欲望の限りをぶつけて良いという許可だった。

 まるで、散々餌を目の前に『待て』をさせられた飢えた犬に、『良し』と言うような所業だ。

 それだけでなく、南條凛は自ら食べられることを望むかのように、その身を寄せてくる。


 崩れそうになる意識の中、脳裏に浮かんだのは――


「やめてくれ、凛っ!」

「倉井……?」

「今の俺は欲情している……そんな気持ちに惑わされて、そんな事をしたくない……っ!」

「あ……」


 それはまるで懇願だった。

 いつの間にか自分の中で、南條凛という存在が凄く大きくなっていた事にも気付いてしまった。

 だからこそ、こんな流れに身を任せたくなかった。


「ごめん、悪ふざけが過ぎたわ」

「そうか……今度から気をつけてくれ」


 色々思う所はあるが、その提案に載る事にした。


 正直惜しかったと思う気持ちがあるのは否定しない。

 だけど、今はこれでいい筈だ、そう自分に言い聞かせる。


「お詫びってわけじゃないけど……もし有瀬陽乃がアカツキグループの力を使おうとしたら、一度だけなら何とかしてあげられるわ」

「本当か?! あ、いやでもどうやって」

「アカツキグループ最高責任者CEO、南條博信……あたしの祖父よ」

「んなっ……?!」

「もし同じようにあたしが困ったら、助けてくれるんだよね?」

「あ、あぁ……それはもちろん」


 そう言えばさっき社外秘がどうこうって言っていたっけ……


 してやられた、そんな感じだった。




◇◇◇




 だからと言う訳ではないが、帰りの電車の中では放心状態だった。

 あまりに衝撃的な話が続いたので、無理は無いと思う。


 しかしこの日は、色々と衝撃を与える事がやたらと続くものだった。


『ここ、昔とあまり変わってないね』


 スマホには、かつての子供の頃に遊んだ神社が映されていた。


 差出人は有瀬陽乃、着信時刻はほんの2分前だった。

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