第5話 油断


 ――有瀬陽乃はひぃちゃん……なのか?


 その事実に俺は、完全に動揺してしまっていた。


 それだけでなく、『見つけてくれた』と書かれたサインの意味もわからない。


 確かに俺は、幼い頃ひぃちゃんという子供とよく遊んだ憶えがある。あの頃のひぃちゃんはガキ大将のような存在で、皆の中心で誰彼構わず周囲を振り回しているかのような女の子だった。

 きっとそんな彼女から見れば、特に目立った所も無かった俺なんて、よく遊ぶ一人だったという印象のハズだ。


 だというのに、そんな焦がれた様な視線を向けられる意味が分からなかった。


 ひぃちゃん――有瀬陽乃に目をやれば、どこか悪戯が成功したかのような顔で、チロリと舌先を見せて片目を瞑る。


「わたしの事、応援してくれてるんだね」

「いや、これは……」

「ふぅん……その制服、隣の県のとこだよね? いいなぁ、そこの女子の制服って可愛いから一度着てみたいなぁ」

「俺はその……」


 しどろもどろになっている俺に、他の客とは違って、有瀬陽乃の方から質問を浴びせてくる。

 必然、特別扱いされているような様相になり、周囲からのやっかみの視線が痛い。だが有瀬陽乃はそんな状況に陥っている俺を楽しんで見ている様だった。


「有瀬さん、そろそろ……」

「あ……こほん。これからも応援よろしくね、すぅくん・・・・?」

「あ、あぁ……」


 1人当たりの交流時間が決められているのか、スタッフから注意が入ったようだった。

 俺はそれに救われる形となり、思わず安堵のため息を吐いてしまう。


「かくれんぼの鬼、今度はわたしね」

「……え?」


 去り際、有瀬陽乃は俺にだけ聞こえる様にそんな事を囁いた。

 どういうことかと振り返ると、既に次の客とのサインと談笑に移ってしまっている。


 ――かくれんぼ


 何かがそれに引っかかった。


 かくれんぼだというのに、俺は誰かの手を引く姿が思い浮かぶ。

 まるで重要な記憶が、俺の記憶の中で隠れているかの様だった。


 必死になって記憶の糸を手繰り寄せれば――


『すぅくん!』


 必死に俺に手を引かれる――


「昴ー、こっちこっち!」

「っ! 康寅」


 思考の沼へと引きずり込まれそうになった時、俺を掬い上げてくれたのは康寅の能天気な声だった。


 出入り口の近くで写真集に頬ずりしながら俺を呼ぶ姿は、見ていて他人の振りをしたくなる。頬をだらしなく緩ませ恍惚な表情を浮かべているので尚更だった。


「おぅ、サインはどうだった? ほれ、早く早く!」

「あ、いやそれは……」


 康寅に催促されて、本来どういうつもりでサイン会に来たかを思い出した。

 しかし写真集に書かれた文字の事を考えると、康寅に渡すどころか、見せるわけにもいかない。

 どうしたものかと煩悶する俺を怪訝な顔で見ていた康寅だったが、急にポンッと手を打ったかと思えば、どこか納得したドヤ顔で俺の肩を組んできた。


「わかる、わかるぞ昴。お前も有瀬陽乃のファンになってしまったから、写真集を渡すのが惜しくなってしまったんだろう?」

「康寅……? あぁ、まぁ、うん。そんなところだ」

「だよなー! 初めて生で間近で見てしまったけどさ、顔とかすっげぇ小さいしあり得ない位可愛いし、ドキドキしっぱなしだったわ。あ、昴が緊張でガチガチになってるのもばっちり見てたからな、ふひひ」

「……ははっ、そういうことだから」


 康寅は変に勘違いしているようだった。だが都合がいいのでそれに乗っかる事にした。


 帰りの電車でも康寅は有瀬陽乃の話題ばかりだった。その話題はほとんどが妄想だったのだが、中には『陽乃ちゃんが妹だったら毎日登下校するのに』『家でだらしない姿を見て自分だけにしか見せないものだと思って独占するのに』といった、何となく笑えないようなものも多かった。

 そんな事を聞かされた時に限って『昴も分かってるな』とドヤ顔をされるので、正直ちょっとウザかった。




◇◇◇




 康寅と別れ電車を降り、すっかり暗くなった家までの道を一人で歩く。

 最近はずっと平折と一緒だったので、なんだか新鮮なような、それでいて寂しい様な気分になってしまう。


 歩きながら考えるのは、平折の事と有瀬陽乃の事だった。


 平折の反応を見るに、有瀬陽乃の事は知っていたと思う。少なくともひぃちゃんだと気付いていた筈だ。

 しかし疑問も残る。

 昔、交遊があったというだけではああはならない。


 一体何があったかと思い出そうとするが、既に遠い過去の事過ぎて記憶も朧気だ。


 それでもサイン会へ出かける前の平折の顔を思い出すと、一刻も早く帰らなければという使命感にも似た思いに突き動かされて、自然と早足になってしまっていた。


「ただいま」


 家に帰って声を上げるも、何も反応は無かった。

 それだけでなく、陽が沈んで結構な時間が経っているにも拘らず、玄関は真っ暗だった。

 真っ暗なのは玄関だけでなく、廊下もキッチンもリビングも、目に飛び込む範囲にはおおよそ灯りと言ったものは確認できなかった。 


 弥詠子さんはまだ親父の所だ。一瞬、平折が出掛けたのかと思ったが、玄関は不用心にも鍵が開いていた。


 手探りで玄関の灯りを点け、キッチンやリビングを見渡していくが、どこにも平折の姿は無かった。

 どこか不安が芽生えてくる心を押さえつけ、二階へと上がり自分の部屋へと足を踏み入れる。


「……ぁ」

「平折……?」


 そこには暗闇の中、俺のベッドの上で膝を抱える平折の姿があった。

 帰って来てそのままなのか、制服姿のままだった。制服のままだが、ブレザーの前のボタンは外されいつもはタイツやソックスで覆われていた足は剥き出しで、短いスカートからは普段見えない白い太ももまで露になっていた。


 中途半端に脱ぎ掛けの制服で膝を抱える姿は、健全な思春期の男子にとって、煽情を煽る姿と言えた。

 しかし平折の目尻に光るものを見つけてしまい、とてもじゃないがそんな気持ちを抱くことは出来なかった。


 ――前も似たような事があった。あの時は俺のベッドで寝てたんだっけ……


「あのその、私っ……」

「……」


 平折は今の自分の置かれている状況が分かったのか、急に慌て出し、取り繕うかのような視線を向けてきた。

 だが俺は敢えて視線をずらして隣に座る。

 肩が触れ合う程至近距離で密着し、触れた手をどうしたものかと逡巡し、宙に舞わせてしまった。だけど――


「んっ」

「……ぁ」


 まるで抱き寄せるかのような恰好で、頭を撫でて引き寄せた。指の間をくすぐる絹の様な肌触りの髪は、触っているだけでも気持ちいい。

 戸惑いつつも、平折にまたも潤ませた瞳で見上げられると、今度は違った意味で見ていられなくなって目を逸らした。

 きっと俺の顔は真っ赤だったと思う。


 平折は気が抜けたのか安心したのか、全身の力を抜いて俺に寄りかかってきた。頭はコテンと俺の肩を枕にしている。


「……」

「……」


 俺達は無言だった。会話は無くとも、いつもの穏やかな空気が広がり、共有していた。

 いい加減腕が疲れてきたので撫でる手をずらそうとすると、『ぁ……』と切なそうな声を上げるので、ひたすら頭を撫でるしかなかった。


 それだけじゃなく、平折は甘えるかのように俺の身体に額を擦り付けてきた。それはまるでマーキングだな、なんて思ってしまう。他にも俺の事を確かめるかのように、ペタペタと身体を触ってくる。


 いかに相手が義妹平折とはいえ、年頃の少女特有の柔らかい身体を押し付けられ、甘い匂いを振りまきながらスキンシップされると言うのは、酷く理性を動員することを強要された。

 だがそれ以上に、昔これに似たような事があったんじゃ……という既視感めいた想いが、胸の奥からこんこんと沸き続けていた。


「……どこか、行っちゃうんじゃと思いました」

「平折を置いてどこにも行くわけないだろ?」

「そう……ですか?」

「あぁ」


 ふと、平折がそんな胸の中を吐き出した。

 そんなこと、と一蹴するには、あまりにも情念が籠り過ぎていた。


 ……


 これは、出会った時の怯えにも似た表情と何か関係があるのだろうか?

 だけど、それを追求する気にはなれない。

 今はただ、俺はここにいるぞという想いを込めて、平折の髪を撫でるだけだった。


「……すぅ……すぅ」

「平折……?」



 それまで張りつめていた緊張の糸が緩んだのだろうか? 緊張の糸を緩め俺に身を委ね、安心しきった平折は、いつしか規則正しい寝息を立て始めてしまった。

 これほど気を許しているという事を嬉しく思う反面、いつしか平折が『私も女子ですよ?』と言ったことに対して、『俺も男なんだぞ』と言いたい気分になってしまっていた。


 でも、この笑顔を見られるなら――


『~~~~♪』

「……っ?!」


 突如スマホがメッセージの到着を知らせた。平折を起こしてはいけないと慌てて画面操作すれば、それは南條凛からのメッセージだった。


『おーい、今日はログインしないの? フィーリアさんもいないし寂しいんだけど!』

「悪ぃ、俺はイン出来るけど、平折はちょっと厳しいかもしれん」

『……どうして、フィーリアさんのログインと平折ちゃんが関係してるの?』

「……あ」


 それは、俺の油断が招いた事態だった。

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