第41話 悪意への行動


 その日は体育の授業があった。

 俺のクラスは坂口健太のクラスと合同で、クラス別にいくつかチームを作り、複数の球技を試合形式で行うというものだ。


 坂口健太が選んだものは、当然ながらサッカーだった。

 ただボールを追い掛け回すのが、まるで水を得た魚のように生き生きとした笑顔で、縦横無尽にグラウンドを駆け回っている。


 俺はと言えば、どこぞの適当なチームに入って補欠の地位を積極的に獲得しにいき、その様子をボーっと眺めていた。


 ――そういえば、いつだか教室から南條凛と平折の姿を眺めていたっけ。


 ふとその事を思い出し校舎の方に目をやれば、こちらを覗いていた平折と目が合い――パッと逸らされた。

 何を見てたんだ? ちゃんと授業受けてるのか? 


 そんな怪訝な表情で少しだけ視線を移せば、今度は南條凛と目が合った。

 呆れた様な顔で『バーカ』と口が動いたような気がした。


 事実バカみたいに暇だったので、何とも言えない顔になってしまった。


 同じ様にやる気なさげに見学している奴も居れば、自分のクラスのチームを応援している奴もいる。


「頑張れー!」

「坂口君、さすがーっ!」

「ねぇ、今の見た?!」


 隣からは、坂口健太のチームを応援している声が聞こえて来ていた。どうやら彼を積極的に応援しているみたいだ。もしかしたらその雄姿を見たいが為の見学なのかもしれない。


 ――まるでアイドルに対する応援みたいだな。


 そんな事を思った。南條凛も同じような立場なのだが、どちらかというと今は高嶺の花に対するものに近い。

 俺は飽きれ気味にため息を吐き、坂口健太の様子を見るが――なるほど、確かにあんな無邪気な顔でボールを追いかけまわしているのを見ると、どこか微笑ましいという感情が湧いてくる。少しだけ、彼女達の気持ちが分からなくもなかった。


 きっと、坂口健太はそれだけサッカーが好きなのだろう。


『僕に才能というものはなかった。何度も周囲に『辞めてしまえ』『時間の無駄だ』と随分と罵られたよ』


 先日、彼に独白されたことを思い出す。それでもサッカーを続けたほどの思いを。

 そして俺はまた一つ、自分でもどういう意味か分からないため息を吐いた。


 坂口健太は悪い奴ではないのだろう。


 ただ、これと自分で決めた物事に熱中すると、周りが見えなくなってしまうところがある。

 それは彼の美徳でもあるところなのだろうが……俺は良い奴といえない要素だと思っている。


 そしてそれは、時に悪いものを引き寄せる事になる。


「ぐっ、あぁあああぁあぁあぁっ!!」


「坂口っ?!」

「おい、大丈夫か?!」


「悪ぃ、足が滑っちまった」


 それはチャージというには、あまりにも悪質な体当たりだった。周囲に故意と悟らせぬような、巧みな足払いもあった。

 明確な悪意を持って為されたそれは、確実に坂口健太の態勢を崩し、グラウンドへと叩きつけた。

 坂口健太は辛うじて頭をガードしたものの、左足を挫いたのか、両手で寝転びながらそこを押さえている。


「おい、立てるか?!」

「いやぁああぁぁっ!」

「誰か、保健室へっ!」

「オレのせいだからよ、肩を貸すぜ」


 周囲の反応は様々だった。ちょっとしたパニックになる応援していた女子、その身を案じるチームメイト、そして坂口健太に危害を加えたにも関わらず近付こうとする犯人。


「……っ! だ、大丈夫だ……っ!」

「おぃおぃ、遠慮するなよ」


 坂口健太はそいつに手を向け問題ない! とも取れる仕草をする。

 俺から見れば、来るな! としか思えないのだが、周囲はそれを見て大した怪我じゃないなという空気が広がっていく。


 ――正直な思いを述べれば、坂口健太は気に入らない。


 平折の事もそうだし、そんな彼に劣等感じみた思いを抱く自分も気に入らない。

 だけど、坂口健太に事故に見せかけ危害を加える奴は、もっと気に入らなかった。


 気付けば、俺はその場へ駆けだしていた。


「行くぞ、坂口」

「倉井……君……?」

「やせ我慢してんじゃねぇよ」

「……っ! あ、あぁ……世話になるよ……」


 俺は強引に坂口健太の肩を取り、保健室へと向かった。

 チラリと後ろを振り返れば、ニヤニヤとするそいつの顔に、反吐が出そうになった。




◇◇◇




 生憎と保健室には養護教諭の先生はおらず、無人だった。

 坂口健太はというと、慣れた様子でテキパキと自分を治療していく。


「くぅ……っ、筋がやられてるね。骨に異常は無いと思う。テスト前で部活が無いのが幸いだったかな」

「あぁ、そうかい」


 何でもない様に言うが、楽観視できるような怪我じゃない。傷害事件と言っても良い位のものだ。

 明らかに、悪意を持って為された事だった。坂口健太もその事に気が付いていたからこそ、手を貸そうとする彼を近づけなかったのだろう。


「助かったよ」

「何もしてねぇよ」

「吉田さんの件といい、君にはフォローしてもらってばかりだ」

「……自分の為に自分の理屈で勝手にやってる事だ。坂口、お前だって吉田平折に対してやってるそれと一緒の事だろう?」

「そ、それは……っ」


 俺が坂口健太を助けたことは、偽善ですらない。ただの自己満足のエゴだ。

 そしてそれは、坂口健太の平折に対する自分勝手な正義感と一緒のものだ。


 だからそう思うと余計に、俺の眉間に皺が寄ってしまう。


 その坂口健太はと言えば、驚いた表情をしていた。

 俺に言われた事が、今初めて知ったとばかりに目を見開き口も開けっぱなしだ。


 ――今まで自覚が無かったのか?


 俺の眉間にますます皺が寄っていく。


「そうか……」


 坂口健太は考え込むように俯いた。

 だがその逡巡も一瞬、顔を上げた時にはどこか吹っ切れた様な顔で俺を見据える。


「それでもやっぱり、僕は君にお礼を言うよ。ありがとう」

「……そうかい」

「きっと倉井君は、そうやって吉田さんを守ってきたんだろうね」

「は? なんだよ、それ」

「僕も、負けていられないなってことさ」

「……勝負じゃないだろうよ」


 どこか晴れやかな笑顔を向ける坂口健太は、あまりに天真爛漫とも言える笑顔を浮かべ――眩しさと気恥ずかしさから少し目をそらしてしまった。


 ――コイツ、やっぱり苦手だ。




◇◇◇




「一人で歩けるか? 俺は野郎と密着する趣味はない」

「痛みは引いたし、歩くだけならね」


 トントン、と怪我した方の足のつま先で床を叩き、大丈夫だよとおどけてみせる。

 とはいうものの、歩きづらそうにする坂口健太を見ていると、表情が険しくなってしまう。


 坂口健太を狙ったのは、南條凛に振られた奴の仕業だろう。


 それに、平折を恨んでいる女子とは無関係じゃない――そんな気がした。

 保健室を出る頃には、既に体育の授業は終わって休み時間に突入していた。


 廊下に出れば、彼の身を案じるクラスメイトの姿があった。


「おぃ健太、大丈夫なのか?」

「坂口君、怪我はいいの?」

「はは、大丈夫だよ。おかげで部活の事を考えずテスト勉強に集中できそうだ」


 クラスメイトだけでなく、先程の授業は他のクラスからも良く見えていたのか、彼を心配する人は多い。

 康寅しか親しい友人が思い浮かばない俺は、自嘲気味な笑いが零れてしまった。


 だが坂口健太に向けられる言葉や視線は、何もその身を案じるものばかりではなかった。


「硬派を気取ってたくせに、女にかまけてるからそうなるんだよ」

「どうせ南條や吉田の事を考えてたからじゃねーの?」

「その女の事を考えるために見学してたやつもいたけどよ、ぎゃはは」

「急に色気づいてキモイっつーの、はっ!」


 それは彼にだけではなく、俺にも向けられていた。

 あいつらから見てみれば、俺も同じように見えて当然か。

 言ってる事はバカらしくて、今日何度目かのため息を吐いてしまう。


「君たちは……っ!」

「やめとけ、坂口」


 こういう悪意に対して慣れていないのか、坂口健太の煽り耐性は低かった。

 今にも掴みかからんとするのを、関わるんじゃないと手で制止する。

 坂口健太を案じる人たちも、どこかそいつらを疎まし気に見ていた。


「しかし、倉井君!」

「言わせておけ、どうせああいう姑息な事しか出来ない奴らだ。相手をするのも馬鹿らしいし、そういう鳴き声の生き物だと思えばいい」

「なっ……っ!」

「調子にのんじゃ……っ!」


 俺の安い挑発に乗ったそいつらは、すぐさま顔を真っ赤にした。

 わかりやすい奴らだったが、ここで手を出してくるほどバカでもなかった。


 今は休み時間で人通りも多い廊下だ。

 それに先程のやり取りを見ていた多くの人の目もある。


 そんな状態で殴りかかれば、言われたことが図星だと認めるのと同じようなものだった。

 かといって、俺に返すような言葉も持ち合わせていない。

 彼らに出来るのは、せいぜい先程と同じ様に俺達を罵ることくらいだ。


「はっ! せいぜい頭と股の緩そうな女に世話を焼かれるといいさ」

「どっちも男を誑かすのはお手の物だし、さぞかしサービスしてくれるだろうよ」

「南條とかいやらしく上で腰を振ってくれるんじゃねーの? 媚びるのが上手そうな吉田は舐めるのとか得意そうだよな、ぎゃははっ」


 ――頭がどこまでも冷えていくのが分かった。


 自分の事はいくら言われてもいい。事実、俺もそんな大した奴でないという自覚はある。


「――おいっ!」


「ぐぺっ?!」


「く、倉井君っ?!」


 気が付いたらそいつの鼻っ面に拳を叩きこんでいた。


 だけど平折と南條凛を――いつも真剣で努力を怠らない彼女達が貶められることは、到底許すことができなかった。

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