第25話 握手
昼休み、
「うふ、うふふふふ……」
「…………」
その少女は恍惚とした表情で、まるで神に捧げる祭器のごとくスマホを掲げていた。
肩甲骨にかかる長さの明るい髪をなびかせて、スラリとした足を覗かせたスカートをくるくる舞わせている。
言うなればトランス状態になった巫女の舞いだ。
しかしその整った相貌は、だらしなく緩み切っていた。
端的に行って、美少女が台無しだった。
一体何がここまで彼女をそうさせているのだろうか?
「南條……?」
「倉井……あたし、吉田さんと
どうやら週末に行く買い物へ行くために、連絡先を交換したことがよほど嬉しかったらしい。
正直意外だった。
普段あれだけ様々な人に囲まれているのを見てきただけに、色んな人の連絡先や平折の連絡先もとっくに知っているものだと思っていた。
「不思議そうな顔ね?」
「まぁな」
「あたし、極力連絡先は交換しない様にしてるのよ。これでも自分のそれの価値は理解しているし、それに休日にまでアイツらと関わりたくないもの」
「……なるほどな」
不可解そうな顔をしていた俺に、わざわざご丁寧に説明してくれた。
もし男子で南條凛のアドレスを知っていれば、一種のステータスになるだろう。
きっと誰かが知ってしまえば、そこから広まってしまうに違いない。
迷惑メールのごとく四六時中アプローチを掛けられるというのが、容易に想像できてしまった。
顔が見えないだけに、相手の都合など考えず気軽に送って来る奴も多そうだ。
普段猫を被っているだけに、家に居る時くらいは羽を伸ばしたいという気持ちはわかる。
「あたしの番号を知ってるのなんて、
「へぇへぇ、ありがたいことで」
「……まぁいいわ。それよりもお礼を言っておくわ。ありがとう」
「お礼?」
こちらこそ色々世話になっていることだし、お礼をすれこそ、されるいわれが思いつかず、首を傾げてしまう。
それを見て、南條凛はくすくすと笑う。むぅ。
「さっきの教室での事よ。あたしも最近周りが見えてなかったかも……おかげで色々手を打てそうだわ」
「そうかい、ならよかった。話はそれだけなのか?」
「いいえ、ちょっと気になる事があってね」
「気になる事、ね」
やはりそれは平折関係――坂口に関する事だろう。
俺は坂口に関して知っていることはほとんどない。
特別親しいわけでもないし、話したこともない。
噂以上の情報は持っていない。
よくよく南條凛を見てみれば、口ごもってどこか言いづらそうにしていた。
それほど悪い事でも耳にしたのだろうか?
「あんたと吉田さんって、付き合ってんの?」
「……は?」
意を決して開かれた口からは、思いもよらない台詞が飛び出した。
言われた言葉の意味が理解できず、立ち惚けてしまう。
――何故いきなり俺と平折のことが……?
きっと間抜けな顔をしていたのだろう。
平折と仲良くなりたいと思う。
だけど今しがた言われるまで、付き合うとかそんな事は考えたことも無かった。
そんな俺の顔を見て、南條凛は顔を真っ赤にしたり慌てたり、色々忙しく表情を変えていた。
「ほ、ほら駅とか同じみたいだし、それにやたらあたし達に気に掛けているというかなんていうか……てっきりそんな感じなのかって……どうもその顔をみるにそうじゃないみたいね。そっかぁ、てことはやっぱり彼女とか全く以て縁が無くて、女の子にモテない童貞野郎なんだ」
「ちょ、うるせーよ厚化粧!」
「なっ! 今は違うわよ!」
「じゃあ元厚化粧!」
早口で、まるで何かの言い訳をするかのようにまくし立ててきた南條凛に、軽口で叩き返す。
……何故かズキリと胸が痛んだ。
色々図星だったからだろうか?
――俺と平折は義兄妹だ。
その事を南條凛に話せば、色々納得してくれると思う。
ここまで世話になっているのだから、言うべきだとは思う。
不義理な事をしている自覚はある。
しかし今は……この状況で告げれば余計に話が拗れそうな気がした。
だから、この件が終わったら告げよう。
「よし、潤いの無い倉井の青春を憐れんで、このあたしがサービスしてやろう。うりうり~」
「おぃ、やめろ! 近ぇよ!」
「ちょ、ここで逃げる~? 初々しいを通り越してヘタレだわ、こいつ」
「勘弁してくれ。
南條凛は疑うことなく美少女だ。
そんな彼女にスキンシップなんて取られてしまうと、健全な男子としては色々良からぬ反応をしてしまいそうになる。それは困る。
――同じ美少女でも平折なら別に大丈夫なんだが……やはり
当の南條凛はと言えば「へぇ」とか「ほぉ」とか言いながら、嬉しそうにニヤニヤしていた。
何だか弱みを知られたみたいで、ちょっと悔しかった。
「そ、それよりもだ! 坂口の事に関して耳に挟んでいるか?」
「坂口って……あの一部女子が騒いでる、あの? 噂は――」
「――っ?!」
「しっ!」
ガチャリ、と重い扉が開く音がした。
幸いにして、俺達が居る場所とは違って下の階からだった。
息を潜めていれば、互いに姿が見つかることはない。
「あーったく、やってらんねー。吉田のやつマジむかつくんですけどー」
「急に色気づいちゃってさ。どーせ男だろ、男」
「てかもう坂口君に股開いたんじゃね? ああいう奴に限って結構遊んでそうじゃん」
「それマジだったら最悪なんですけどー。私たちの坂口君があんな根暗に汚されたとか考えたくないんですけどー」
数人の女子のグループだった。中には聞き覚えのある声もあった。
何かのグループなのだろうか?
いや、それよりも彼女達の正体が誰かというよりも、平折に対する明け透けな悪意を直接聞かされ、脳が沸騰するくらい頭に血が上ってしまっていた。
何とか飛び出さない程度の冷静さを保っていられたのは、南條凛のお陰だった。
その白魚の様な手が青白くなる程の力を入れて、俺の手を握りしめてきたからだ。
南條凛の顔を見てみれば、修羅を彷彿とさせる表情で必死に唇を噛んでいた。
美人なだけあって迫力があり、かつてここで呟いた言葉が思い出される。
『おかげで影じゃビッチ呼ばわり。まぁ珍しいことじゃないけどね』
ああ、そうだ。
これはきっと、ずっと南條凛へと向けられ続けていた悪意と同種のものだ。
その悪意が今、明確に平折へと向けられていた。
自分が言われるのならまだ良い。
平折の努力を、勇気を知らず、ただ無責任にその結果を妬み悪しざまに罵る。
反吐が出そうだった。
南條凛も
「で、吉田のヤツに坂口君に関する
「髪とか気取ったままなのがちょっとね~」
「ん~みんなでじっくりお話してあげたから、
「きゃはは、あの時の顔録画しておけばよかったわ~、身の程を知ったんじゃない?」
「もしわかってない様だったら、もう一回お話すればいいしね~♪」
「それでさ――」
…………
せいぜい、彼女達が居たのは10分ほどだろうか?
聞くに堪えないものを聞かされるというのは、拷問に等しいのだと、初めて知った。
飛び出したかった。
正直飛び出そうと思ったのは一度や二度じゃなかった。
だけどその度に、南條凛に強く押しとどめられてしまった。
……きっと、飛び出したとしても、はぐらかされるのが関の山だ。
それに、彼女達に何かを言う言葉を持たなかったし、根本的な解決にはならなかっただろう。
今はただ、相手の事を知るために息を潜めるしかなかった。
それが悔しくて仕方が無かった。
「……」
「……」
俺と南條凛の間に沈黙が流れる。
胸の中では、処理しきれない感情が暴れ狂っているというのが分かる。
そして南條凛も――
「……南條?」
「ふふっ」
南條凛は冷ややかな笑みを浮かべ、スマホを弄っていた。
一体何を……?
「ねぇ、倉井」
「……」
「あたしはね、こんなだから大なり小なり陰で叩かれてきたわ……でも、吉田さんは決して誰かを悪しざまに言った事は無かった。」
「……あぁ」
一緒に住んでいるんだ。そんな誰かをどうこう言うような事をするより、自分の為にエネルギーを使う奴だという事を知っている。
「徹底的に潰すわ。まずは倉井……あんたを見違えさせてやる」
「頼む」
そう言って、俺達は固い握手を交わす。
南條凛の顔には、頼もしさすら感じる獰猛な笑みを浮かべていた。
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