夜にお邪魔します

 時刻は午後八時三十八分、普通この時間帯に家を訪れるなど非常識にも程がある。

 大体どのご家庭も晩御飯か風呂のどちらかを済ませ、リラックスしている頃だ。

 そこへ突然の来客……一般家庭なら『お帰りください』の一言に限る。

 しかし現実は非情、その迷惑行為を今から俺たちがするのだから。


「ふぃ~……寒いぃ……」

「当たり前だ、下旬でもまだ四月だぞ……」


 意図的でないにしろ、無意識に口調が荒くなってしまう。

 とっくに春季を迎えたというのに気温は冬季を意識するように寒く、身震いが起きる。

 わざわざ冬用のウインド・ブレーカーを羽織ってきたというのに、意味を成してない。

 入浴後でなかったタイミングに、つくづく感謝の言葉を送る。

 え、誰にかって。タイミングの神様。


「つうか、何で組手なんて思い付いたんだ……?」

「マジック観てたらアクションシーン再現したくなったのぉ」


 だとしても急過ぎる。

 いくら向かう先が幼馴染の家だからって、夜遅く訪れるのは人としてどうなんだ。

 絶対こいつの事だから自分がされたらキレるな。

 けど、そんな無茶な要求を呑んでしまう谷矢家も谷矢家だ。

 父親は出張で不在にしろ、娘だけじゃなく母親まで夜分の訪問をまさか受け入れてくれるだなんて。


 うちの母親なら露骨に嫌そうな顔付きでまず出迎えて、無言で相手の顔面に熱々のお茶漬けをクリーンヒットさせてから蹴り追い出すと、嫌でも絵が浮かぶ。

 やっべ、人間としての器に差があり過ぎて悲しくなってきた……。

 気品差では到底敵わない。マドカの母親と石森家の母親をつい比較してしまった自分自身に嫌気がさしてきた。


「見えてきたよぉ」

「お、そうだな……」


 悔し涙で視界が多少ぼやけるも、近付いてきているのはハッキリと理解した。

 隣家より一際目立った外観をしているからだ。


「いつ見ても凄い豪邸だよな……」

「うん、兄貴の臓器売りまくっても買えなさそぉ」

「俺たまにお前のお兄ちゃん卒業したくなっちゃう……」


 でも俺一人でこの豪邸に住まわせられるのならいつだって闇医者に飛び込むぞ。

 今も母親は汗水流して働いてくれているのだから、満足させられるならお安い御用さ。

 これが最大の親孝行ってヤツよ。

 などと冗談は置き、立派な造りの家を前に足をすくませながらもインターホンを鳴らす。

 寒空の下で待つこと大体十秒前後、ピッと電子音が返ってきた。


『はぁい、どちら様でしょうか?』


 落ち着いた喋りと妙に色気のある声質から、マドカ母だと判断する。さすが女優さんの声は違うな……。


「あ、えっと……石森爽真です」


 慌てつつも尋ねられた内容に対し、名前を答える。

 何故こうも知り合いの親だったとしても身を引き締めてしまうのだろうか、不思議だ。


『あ、ソウマくん? こんばんはぁ!』

「えっと、あの、こんばんは……。えっとその、谷矢さんに、じゃなくてえっと、お嬢様に会いに来ました!」


 マズい、焦りで自分でも何を言っているのか分からなくなった……。

 リアも後ろから『落ち着け』と背中を擦ってくる。それほどあたふたが激しいと悟った。


『あ~、マドカならトレーニングルームにいるから、そのまま入っちゃって大丈夫よ』

「その、え~、分かりました。ありがとうございます。お邪魔します!」

『はぁい、ゆっくりしていってねぇ』


 やけに機嫌がよろしい事……ハリウッドからオファーでも来ましたか?

 と、口にして見当違いであれば居たたまれない空気になると感付き、言葉を飲み込む。

 言われた通り、門扉を開けて裏に回って行く。

 谷矢家には、娘専用のトレーニングルームが設けられている。

 広さは大体十畳、器具もランニングマシンにバイクと多種多様整った環境だ。

 単に勢いだけの購入かと思いがちだが、彼女はスタイル維持の為、定期的に利用している。


 今更だが、マドカは一般家庭出身の俺たちと違い、裕福な暮らしの中で育ってきた。

 元モデルで現女優の母と、敏腕弁護士の父を持ち、衣食住に苦しまない贅沢な生活を幼少期から目にしてきたのは言うまでもない。

 とどの詰まり、小学六年生になる頃にはマドカは肥満体に仕上がってしまった。太りやすい体質というのも要因だったが、毎日カロリー高めな物を摂取すれば脂肪が蓄積されるのは至極当然の事である。


 そんな自分の姿を醜いと感じ、中学校入学から卒業まで専用のトレーニングルームでダイエットに励み、入学する頃には高校生とは思えないグラマラスなスタイルに仕上がった。

 どれくらいグラマラスかというと、一日二、三回は目線が吸い寄せられる大きさだ……。

 苦労の末に手に入れたスタイルとルックスから、去年は同学年だけじゃなく上級生からもひっきりなしに告白を受けていた。

 けど、全て丁重にお断りしたそうだ。理由を尋ねても何故か内緒にされる。

 マドカ並みの仰天チェンジを果たした子なら、イケメン彼氏でも作って華やかな学校生活を今頃は送れていたはずだ。


 それが俺のせいでスクールカースト上位に悪い方向で名前を覚えられ、挙句の果てには毎日俺を守ってくれる為とはいえ、怖い顔を作らせてしまっている。

 彼女に対しての申し訳なさと、今後の関係性を思うと、俺から離したほうが良いのかと考えが過ってしまう。

 今回の件も、謝りの電話なんて入れず保留状態のままにしておけば、地獄の日常から解放されたかもしれないのに。

 数時間前に悩んでいた『仲の修復』が消滅しかけるほど、俺の心は安定していなかった。


 ▲▲▲


「あ、いらっしゃい……」


 裏庭に回り、谷矢家ご自慢のトレーニングルームの窓をノックし、合図から数秒後にマドカが出迎えてくれた。

 白の半袖トップス、そして黒いレギンスにハーフパンツと、トレーニングするには似つかわしいスポーツウェアを着込んでいる。おまけに長く美しい黒髪は、運動しやすいようにと後ろでポニーテール状に束ねられてあった。

 形から既に気合いが入っているところは彼女のしっかりした性格さが滲み出ている。


「ああ……。悪いな、こんな時間に……」

「ううん、良いのよ……」


 しかし、どうも声に活気が感じられない。目線は一瞬合ったが、直ぐに逸らされてしまう。

 そりゃそうか。互いに謝って一段落したとはいえ、、拗れたのも怒鳴られたのもほんの数時間前に過ぎないのだから。気まずくなるのも致し方ない。


「やっほぉ、マドちゃぁん」

「あ、リアちゃん。いらっしゃい」


 そんな息の詰まった空間を一切気にも留めない、マイペースマイスターズな妹が見事に打破してくれた。母と俺が地味に誇りに感じてる部分、ナイス。


「夜遅くにごめんねぇ。マスクド戦士観てたら動き方再現したくなっちゃってさぁ」

「あ~、そういう事だったの。でもありがとう。ひとりで寂しかったところだから」


 リアと会話している分には特に抵抗とかは無さそうだ。

 という事は、いざ声を掛け難い場合はリアを通して会話するしか方法はないかもしれない。

 代償はコンビニでアイスだろうから、それ程度ならお安い御用さ。


「さ、二人とも上がって。風邪ひいちゃうよ」

「はぁい、お邪魔しまぁす」

「お邪魔します……」


 お言葉に甘えて上がらせて貰うと、相変わらずの設備の整い具合に目を奪われてしまう。

 想像したランニングマシンやバイクは最新モデルに交換されているし、背中の筋肉を鍛えるバーの付いたマシンなどの新機種まで導入されている。

 これ以上どこを磨くというのか、マドカの最終的終着地点が不明だ。


「ほわぁ……また新しいの増えたねぇ……」

「うん、お母さんが御仕事先で教えて貰って、買っちゃったの」


 さすが芸能人、まるでお得サービス商品でも購入するかの如く金銭感覚。

 うちの母親が聞いたら血涙流しながらヤケ酒するだろうな……。


「それで、今日は組手だけ? 道具とかは必要そう?」

「一応おねがぁい。もしかしたら兄貴ぃ、武器の練習もしたいとか言い出しそうだからぁ」

「そりゃお前だろ……」


 基本俺は肉弾戦だけだし。


「分かったわ。じゃ、何かあったら声掛けてね」

「うぇい、ありがとねぇ」

「あ、ありがとな……」

「え、う、うん……」


 また目を逸らされた。やっぱお互い謝ったら翌日まで余裕を設けるべきだよな。

 それをこいつは……。


「ほぉら兄貴ぃ、やるよぉ」

「はいはい……」


 暢気に先導するリアに、俺は嘆息を漏らしながらついていく。

 目先には、ジョイント式ジムマットが敷き詰められた一角の空間が映った。

 不定期ではあるが、俺たち兄妹はトレーニングルームのストレッチコーナーを独占的に利用させてもらっている。

 借りている理由は、アクションシーン再現の為だ。


 一種の〝なりきり〟という部類で、劇中惹き付けられた場面を自分自身でも体感したい、所謂いわゆるオタク衝動の一環、良く言い換えて自己研鑽である。

 元々は自宅で兄妹仲良く行っていたのだが、俺がつい周囲に気を配らず激しい運動をしてしまい、母親の大事なコップを割った失態から外でする羽目に。

 しかし自由度が高い分、服が汚れるおかげで洗濯担当のリアが大憤怒。中止に終わる。


 悩んでいた末、マドカからトレーニングルームの旨を聞かされ、貸し切らせて貰うところに行き着いた。本来なら利用料金を徴収されても違和感の無い好条件だが、向こうの両親含め無料で提供していただいている温かみには感謝しかない。更に、ヨガやエクササイズを目的とした液晶テレビも配置されてある。

 本来はくびれの良きお姉さんが画面に登場して、健康に効果的な運動を教えてくれるのだが、それも今から特撮ヒーローの映像に早変わりしてしまう。


 荷物とウインド・ブレーカー上下を隅に置き、スポーツウェア姿の石森兄妹を虚空に披露する。因みにマドカは、早速ランニングマシンで自身のトレーニングを始めた。

 こちらも負けじと石森家秘伝のアイコンタクトを取り、準備体操を開始する。

 体育の授業以上の入念なウォーミングアップは久し振りで、筋肉が痛いと思えば気持ち良くなったりと不思議な点がいくつも出てくる。

 五分弱で体操を済ませると、リアが慣れた操作で持ってきたマジックのDVDをプレイヤーに挿入。

 特定のシーンまで飛ばし、流れを一通り確認後に巻き戻して一時停止を押した。


「はぁい、では今からマジック第一話【戦士】の戦闘シーンを再現しまぁす」

「はいよ」


 淡々と指揮する姿は体育の先生そのものだ。立派な姿勢に抗う必要性もなく、返答する。


「それじゃあ、主人公が敵を数発殴打して姿を変えるところからねぇ。ウチが適役担うから、兄貴がマジックやっていいよぉ」

「え、最初はお前がやりたいんじゃなかったのか……?」

「気が変わったぁ」

「なんじゃそりゃ……」


 妹の気紛れは今に始まった訳ではないが、こうも急過ぎると呆れてしまう。

 まあ、適役ばかり任されて、容赦のない物理技を喰らわなくて済んだ事実には安心したけど。


「いいからぁ。ほら、早くぅ」

「分かったよ」


 指示に渋々従いながら、テレビ画面に映る主人公と同等の姿勢を取るため寝転ぶ。

 動きの流れとしては、まず右に寝返ってからの左腕を相手の顔面に炸裂、そこから右殴打、左足で脇腹を蹴り、また左殴打だが当てる箇所は肩、からの右で振り被り、続けて左腕で鳩尾に一発、そこからは右、左で腹部、最後は右手で顔面にクリーンヒットさせる……と。

 先ほど記憶した動きのひとつひとつをゆっくりと脳内でスロー再生し、脳に叩き込む。


「じゃあ、開始ぃ」

「はいよ~」


 練習開始の合図が始まるや、適役担当のリアが徐々に距離を詰めてくる。そのタイミングで寝返り、左腕を動かす。勿論、寸止めだ。

 そこから先ほど目にした〝自身の手が鎧に包まれた変化に驚愕する〟主人公の感情部分は省き、立ち上がって右、次は左足、左、右……と、慌てず順番に動かしていく。

 ある程度思い出し、繰り返したら今度はテレビでシーンを再生しつつ、同じ速さで進める。

 少々余裕をかますも、いざ本家と合わせると無駄に焦ってしまい、思った通りの動かし方が困難になった。


 頭では冷静にしているつもりが、開始と同時に真っ白に染まるのは悔しくも健在だ。

 ようやく、遅過ぎず早過ぎず赤点よりもだいぶ上の成果を出せたのはその二十分後、テレビの再生からテイク数は実に十八回、元来の運動不足がここで祟りやがった。


「兄貴ぃ、運動神経ワル過ぎぃ」

「悪かっ……たな……」


 呼吸が重い、言葉を発するのが辛い、喉が渇き持参してきたスポーツ飲料で補給する。

 運動皆無であれば苦い飲み物も、実施直後はどうしてか美味い。

 ペットボトル容器に並々注いであった液体も、半分以下に減ってしまった。


「わぁ……これぐらいでその減りようって、普通有り得ないよ……」


 実の妹の本気のドン引きが心を貫く。お兄ちゃんだってな、一生懸命なんだよ……。


「ま、再現したいところは再現出来たからぁ、次はウチの番ねぇ」

「はいよ……で、どのシーンやるんだ?」

「これぇ」


 そう言うと、自分の鞄からもう一枚のDVDケースを取り出した。

 側面に注目すると【マスクド戦士マジック VOLUME 3】と表記されてある。

 一体何枚持ってきたんだ……。


 俺の不安な念は残念ながら届かず、ディスクの交換が行われる。

 しばらく観察していると、十二話【先生】が再生された。

 早くに両親を亡くした主人公に対し、小学校時代の恩師が自分に向けてくれた励ましの言葉、この回は涙無しでは見れない名作としても上位に君臨している。

 だがその分、悪寒もした。十二話は、通常のキック技が通用しないサイの能力を肉体に宿した『ライノスジーペット』に対抗しようと、マジックが助走を付けて空中で一回転したのちにキックを放つシーンが最大の見所なのだ。

 それ以外に特に目立つ戦闘描写が無いとすると……。


「お前……やるのか……?」

「もっちろぉん!」


 兄である俺も『可愛い』と賞賛する満面の笑みを向けてきた。

 敵がキックを受けた箇所は顔面中央、しかも飛び蹴り再現ともなると寸止めは不可、重い一撃をその身で受け止めなければならない。


 それから数分間、運動神経抜群なリアの空中一回転は一発で成功。

 だが直撃箇所が肩だったり腹部だったりと、挑戦者ご本人様が納得するまでキックを受け続けるという悪夢を味わった。

 お兄ちゃんを何度も蹴るなんて……この妹……怖い……。


 ▲▲▲


「オリャアアアァァァっ!」


 気合の雄叫びを合計九回は聞いた。テイク数も無論九回。

 最後の一発が見事顔面に炸裂し、のたうち回ったのは誰が見ても明らかだ。

 さすがのマドカも、トレーニングを中断してまで駆け付けてくれた。


「ソウちゃん大丈夫!?」

「な、なんとかな……」


 気絶はしなかったにしろ、心配をさせてしまったのは申し訳ない。

 ただでさえ借りているのだから、迷惑は出来るだけ避けたかった。


「痛くない……?」

「あ……」


 気付くと、マドカの手が鼻に当てられていた。

 撫でられる感触は、とろんとしてしまう程に優しい。いかん、直視不可だ。

 取り敢えず後方のリアに視線を送ると、不気味に薄笑いを浮かべている。

 小生意気というかなんと表現すべきか、今は『悪魔』とだけ命名しておこう。


「あ、ご、ごめんね……!」


 マドカも自身の行動を改めて感じ取り、動揺を隠せず手を離した。


「い、いや、ありがとな……」


 咄嗟にお礼を言うが、俯いてしまったおかげで届いたかどうかは定かではない。

 気まずい空気を何度生み出したか……双方黙り込む中、有り難い事にリアが御開きを宣言してくれた。

 弛緩しかんした気分がぱっと緩み、詰まってた息が吐き出される。

 静まり返った場には能天気が一番、これ大事。

 終了とするなら、最後は決まって利用させてもらった箇所、それ以外にも機具などを掃除してから退散する。これが俺なりの感謝の印だからだ。

 だがその間も、言葉を交わすが目は合わせてくれなかった。

 仲良くなったのかが疑わしいところ、それは翌日も会ってみないと明白にはならない。


 疑心暗鬼に陥りながら谷矢家を去り、帰宅した時間は大体午後九時五十六分。

 その結果、『仕事で疲労困憊なのに、部屋は真っ暗、出迎えてもくれない、ご飯は冷めてる、お風呂も沸かさず遊びに行った息子娘をお仕置きする母親』が襲い掛かってきたのは、当たり前と言えば当たり前であった。

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