第2話
「失礼してもよろしいでしょうか?」
アブソリュート邸の部屋の中でも一等絢爛な扉の前でエリーゼは背筋を伸ばしてそう声をかけた。マギに連行され身だしなみを整えられ、植物図鑑を没収された後、観念して腹をくくり母親の呼び出しに応じたのだ。「入りなさい」と、落ち着いた母親の声がし、エリーゼは笑顔を作った。
「失礼いたします。遅くなり申し訳ございません」
扉を開けるとそこにいたのは、「こちらにいらっしゃい」と自分の隣の席を指す母親と、その向かいに座る男性二人。母親の隣まで進み着席する前にスカートを摘み会釈した。
「お初にお目にかかります、エリーゼ・ロウム・アブソリュートにございます」
「どうぞ、おかけください」
男性の片割れにそう言われ、エリーゼは隣の母親を横目で見たが変化はない。相手の意思に従う、それが正解、という事だ。「失礼いたします」と母親の隣に座れば、二対の視線に射抜かれた。一対は眼鏡の奥から、もう一対は綺麗なスカイブルーの瞳を細めてエリーゼを見てきたのだ。
「始めまして。私はメイヤーと申します。プロチウム第一王子殿下付きを賜っております」
眼鏡の奥で弧を描いた優しい顔つき。年のころは二十半ばといったところだろうか。落ち着いた佇まいの青年は笑みを崩さない。そしてその笑みをさらに大きくして隣を見た。
「よかったですね、殿下」
(殿下?)
視線を横にずらせば自分を見てくるスカイブルーの瞳とかち合う。明るいブラウンの髪に意志の強い瞳。その意志の強さをより引き立たせる動かない表情。好奇、好意、敵意、嫌悪、いずれも感じさせない男性。では、やたらと釘付けになって逸らせないその瞳がエリーゼを見て抱く感想は、一体何だと言うのだろうか。
その真意が分からないエリーゼが思わず首を捻ると、それに慌てたのは母親だ。
「エリーゼ、そう不躾に見るのはおやめなさい」
そう言われハッとしたエリーゼは「申し訳ありません」と机の上に視線を落とした。そこに広がるのは四枚の紙、幾つものサインが書かれているものだ。そのうち一対の表題は『誓約書』となっている。そしてもう一つは――
「婚約、宣言書?」
「空いているサイン欄があるでしょう、そこにサインをなさい」
「……お母様? 訊いてもよろしいですか? こちらの宣言書は誰と誰のものですか?」
「決まっています。プロチウム第一王子殿下とエリーゼのです」
エリーゼは固まった。一つ一つの単語の意味はもちろん分かる。にもかかわらず、言っていることが理解できない。こんなことがあるとは思いもしなかった。
「何を、仰っているのでしょうか?」
「エリーゼ、あなたとプロチウム殿下の婚約はすでに決定事項です。貴女がサインしないなら私が代筆します」
「待ってくださいお母様!」
思わず叫び、口を手で押さえつぐんだ。そのまま視線だけ横にずらしてみると、エリーゼをじっと見つめるスカイブルーの瞳がある。その瞳に言葉を失ったエリーゼの代わりに母親がとりなした。
「申し訳ありません。娘にはまだ説明していないもので……」
「いいのですよ。私たちから説明するので伏せておいてほしいとお願いしたのはこちらです。エリーゼ様、驚かせて申し訳ありません。こうなった理由は、本人が説明すると言ってきかないのです。私たちは失礼いたしますので、どうぞお二人でしっかりお話しください。そのうえでその書類にサインを下さいね。後は一人でできますね、殿下」
「……馬鹿にしているのか?」
初めて口を開いたスカイブルーの瞳の仏頂面。メイヤーをひと睨みするも、睨まれた相手は面白そうに目を細めた。
「心配しているのです。それでは、アブソリュート伯爵夫人、我々は失礼いたしましょう」
そう言って出て行った母親とメイヤー。メイドも執事も誰もおらず、エリーゼは二人を見送るために立ち上がり扉を向いたその格好のまま動けなかった。
(本人……。本人、って、殿下って、まさか、本当に……!?)
「エリーゼ嬢」
エリーゼの至近距離で声がする。勢いよく振り返れば、スカイブルーの瞳はすぐそこにあり、エリーゼは最速で跪いた。膝を曲げて脚をクロスし頭もできうる限り下げる。完璧なカーテシーをし、頭も最敬礼張りに膝にこすりつけるまで下げた。
「申し訳ございません! プロチウム殿下とは気付かずに大変な無礼を――」
視界一面には自分の膝と服。しかし、その視界に何かが割って入った。それが床に片膝をつけたプロチウムと彼が差し出す手だと気付いたときには、その手に自分の手が取られていた。
「なぜあなたが謝る必要がある? 頭を膝につける必要もない。立って」
そう言われ、取られた手を引かれ立ち上がると、急に立ち上がったことと、理解が追い付かない状況にエリーゼの足元がふらついた。
「きゃ……」
「エリーゼ嬢?」
声と共に背中を支えられエリーゼが思わず顔をあげると、プロチウムの顔はすぐそこ。比喩ではなく目と鼻の先。その距離で「大丈夫か?」と問われれば、「だだだだ、大丈夫です!」とエリーゼの声が上ずった。
(顔なんて見られない!)
先ほどは母親に窘められるほどに見ることができたのに、近すぎて尊顔が拝めない。さらに、背中に添えられたプロチウムの手を探ろうと全神経が背中に集中しているのが分かる。
エリーゼのおぼつかない足元を心配したのか、プロチウムが手を添えソファに座らせた。
「申し訳ございませ――」
「だからあなたが謝る必要はない。さっきもそう言っただろう?」
プロチウムはそう言うと、隣に腰を下ろし、握ったままだった手をやっと放した。エリーゼはその手を思わず握りしめ、それから自分の頬を触ってみた。ついでに耳も。
(絶対に赤いわ、これ!)
「大丈夫か?」
「へ、平気です。ご心配ありがとうございます……。それで、えと、確か説明していただけるとか……」
話を先に進めて一刻も早くこの状況から抜け出さないと男性に免疫のないエリーゼには辛い。社交の場のダンスとは違うこのシチュエーションは、恋愛経験値ゼロのエリーゼにとって生きて帰る自身が到底持てないものだった。
「ああ、その話……。貴女にはすごく失礼なことを言うのだけれども……」
あれだけ視線を自分からは逸らさないプロチウムの目が泳ぎ言い淀んだ。感情の少ない顔に現れた『後ろめたい』という負の感情。それを感じ取ったエリーゼは少しだけ落ち着いた。
そして、婚約宣言書と共にある『誓約書』。その内容に少し目を通すと、『アブソリュート伯爵に領地の植物の採取権を与える』という文言が見える。
(お父様が喜びそうな一文ね。確かに婚約の時に取り決めはあるでしょうけど、こんな私を売って利益を得るようなこと……)
そこまで考え、エリーゼは(ふふ)と、心の中で笑った。
(お父様ならやりそうだわ!! だって私のお父様だもの!!)
悲しいながら、植物の権利のために娘を差し出す可能性を否定できないのが自分の父親だ。
そう考えたエリーゼは、さらに落ち着きを取り戻せてきた。次第にはっきりしていく自分の思考回路。つまり、自分は父に売られて何か面倒ごとに巻き込まれる、それがこの婚約だと。そこまで理解したエリーゼは、自分の精神を保つためにあと一押しすべく、一番楽しいことを考えた。
(これが終わったら、本の続きを読みましょう! さっき読んでいたのはグルハランスだったわね。ニアニラと似ているから間違って葉を食べてしまい、たまに中毒がおきるのよね)
部屋で帰りを待っているであろう『有毒植物大辞典。発見されている有毒植物を全網羅』を思い浮かべて笑みを湛えたエリーゼは、そのままプロチウムに優しく諭すように言った。
「プロチウム殿下、大丈夫です。私いったい何をすればよろしいのですか? お父様と何をお約束なさったんですか? 驚きませんからどうぞお話しください」
「……あなたはすごい人だな。先ほどまでが嘘みたいだ」
まさか裏で有毒植物の事を考えているとは夢にも思うまい。エリーゼに感嘆の声を漏らしたプロチウムは、膝の上できつく手を握り姿勢を正してエリーゼを見た。
「しばらくの間、私と婚約してほしい。勿論、解消する時にはあなたに不利にならないように取り計らう。申し訳ないが、頼めないだろうか」
「形だけの婚約者が欲しいのですね?」
「そう言われると身もふたもないが、その通りだ。それにしても落ち着いているな、予想でもついていたのか?」
無表情を少し崩し、眉をひそめたプロチウム。そんなプロチウムにエリーゼは誓約書の一文を指示した。
「この誓約書。我がアブソリュート伯爵家、というかお父様に有利な内容ですもの。とくに、この『ノアレ領の植物の採取権を与える』だなんてお父様が狂喜乱舞しそうです。プロチウム殿下が成年皇族として賜っているレノア領は、希少な魔導植物が自生することで有名で、お父様の憧れの土地ですから。お父様が私をプロチウム殿下にレンタルに出して手に入るのなら万々歳でしょうね」
エリーゼの言葉を聞いたプロチウムはここで初めて肩の力を抜いたように見えた。少しだけ緊張感がほぐれたのか顔つきも柔らかくなった気がする。でも、感情がなかなか読みづらい。まあ、今は『ホッとしている』で間違いないだろう。
「エリーゼ嬢、あなたの言う通りだ」
「でも、肝心なところが内緒はおやめください。何故、仮の婚約者が必要なのですか?」
「フルーエルト公爵令嬢との婚姻話が持ち上がっているのだが、それを先延ばしにしたい」
「リチェルーレ様との婚約ですわね。まあ、家柄からして不思議じゃございませんわね。ですから何故先延ばしにしたいのですか?」
「探している人がいて……」
プロチウムはそう口ごもった。
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