王子の仮婚約者のお嬢様、魔導師とお出かけして甘やかされる
佐藤アキ
第1話
エリーゼ・ロウム・アブソリュートは膝の上でそっと本を閉じた。
昼過ぎのゆったりとしたこの時間、自邸の庭の端にある季節の花々に囲まれた席での読書がエリーゼの日課だ。穏やかに吹く風がエリーゼの金色の髪をなびかせ、腰まである長い金糸が舞う。それを耳にかけ直し、エメラルドグリーンの瞳をそっと閉じた。
(集中できない!)
膝の上には一か月かけて取り寄せた本。昨日受け取った時は天にも昇るほどに狂喜乱舞しメイド頭に窘められた。それほど楽しみだった本の中身が入ってこない。
その原因は、満腹感や陽の光の暖かさからくる眠気、ではない。むしろ、「起きろ」と言わんばかりに外から聞こえてくる賑やかな声にある。
エリーゼは背後にある人の背の遥か上まで成長した蔦の薄い部分を指でかき分け、出来た隙間にそっと片目を添えた。
「あら、こちらアブソリュート伯爵の邸宅じゃない。エリーゼ様はいらっしゃるのかしら?」
自分の名前が呼ばれて、無意識にエリーゼのこめかみがピクリと動いた。
「リチェルーレ様、エリーゼ様は引きこもりですもの、今頃中で本の虫ですわ」
「お好きなのが植物だから、本当に虫かも知れませんわよ」
「まあ、本当ね!」
そして起こる笑い声。
(好き勝手言ってくれるわね……)
思わずかき分けた植物を握りつぶしてしまいそうになるエリーゼは、葉をもぎ取る前に慌てて手から力を抜き、改めて声の主を確認した。
(あれはフルーエルト公爵家のリチェルーレ様。仲のよろしい皆様もご一緒ね。お忍びのお出かけかしら)
こちらに向かってくるエリーゼと同年代の女子たち。一市民の服装に華美ではないヘアスタイル。街に紛れ込む格好をする彼女たちだが顔を見れば誰だか分かる。彼女たちはいずれも貴族令嬢だ。そんな彼女たちは、お供を一人ずつ連れ、リチェルーレを先頭に通り過ぎていった。そんな令嬢たちのお供は、仕える主に倣い街に馴染むように簡素な服を着ている。だが、彼らも一市民ではない。彼らは市民に見えるように変装している『魔導師』だ。
(羨ましいわ! 魔導師の方の護衛だなんて!)
「エリーゼ様、お行儀がお悪うございます」
「だって!!」
「お声が大きいです。外の声が聞こえるということは、エリーゼ様の大きなお声も丸聞こえだという事をお忘れなく」
傍でエリーゼの行動の一部始終を見ていたのは、エリーゼ付きのメイド頭のマギだ。マギはまだ二十歳だというのにエリーゼの母親の信頼と、アブソリュート公爵家の家令の信頼を得た人物。そんなマギが、椅子の上に座り外を覗き見るというエリーゼの奇行を許すはずもない。もっとも、例え礼儀正しく振舞っても褒めることなどなく、『一に指摘二にお小言、三四がなくて五に雷』という、家庭教師よりも教師、母親よりも母親のような人物だ。そんなマギのきっちりアップにした金色の髪の毛と、眼鏡が光る。その「いつまでそんな格好しているのです?」という無言のプレッシャーにエリーゼは佇まいを直し、今までのことがなかったようにいつの間にか入れ直されていた温かい紅茶に口をつけた。
「私も一人で出かけたいわ」
「魔導師の護衛がいれば簡単です。奥様にご相談なさればよいのでは?」
「お母様もお父様も魔導師の方を護衛として雇うのは反対なのよ!」
「お声が大きいです」
「……何故かしら。ご自分たちは魔導師の方の護衛でお出かけになるのに、ずるいわよ」
魔導師は魔導師協会の試験を経て合格者を国王が魔導師として認可する国家資格。
その仕事内容は多岐にわたるが、その一つが『護衛任務』。一般人や商会が旅や物品の移動の護衛に雇うことがあれば、貴族が外出の際の護衛として雇うこともある。勿論、騎士などの護衛もあるが、彼らの武器を魔法で制することのできる魔導師の方が少人数でかつ武器をもたない為、人目を気にする貴族は好むのだ。
貴族一人に対して魔導師一人。この組み合わせであれば王都と呼ばれる範囲内は自由に移動可能。さらに、魔導師のランクが上位になれば、王都外への移動許可も下りる。
「でも疑問なのよね。お母様もお父様も魔導師の方と出かけるとき異様に楽しそうだもの」
先ほど外を歩いていたリチェルーレのように後ろを歩かせるのが普通なのに、エリーゼの両親は肩を並べて楽しそうにしているし、エリーゼ自身、両親がよく雇う魔導師には幼いころから可愛がってもらっている。
「でも、お母様たちは私には魔導師の方を用意してくださらない。やっぱりずるいわ。おかげで『引きこもり』だなんて言われるのよ、悔しいわ!!」
そのエリーゼの言葉にマギはため息をついた。あからさまに呆れている。
「お言葉ですがエリーゼ様。だから駄目なのですよ」
「どういうこと?」
「ご自分でお考えになってください」
「ちゃんと考えたわ! お母様たちを納得させようと、作法もダンスもお勉強も楽器もなにもかも、淑女の嗜みといわれるものは全部こなしてきたわ! これで駄目ならどうしろというのよ!」
「左様でございますね。『アブソリュート伯爵家のエリーゼ嬢といえば、公爵令嬢よりも令嬢らしい。家柄が伯爵位でなければ王太子殿下方の妃となってもおかしくない』という評判ですから。エリーゼ様、自信をお持ちください」
「……何の自信よ。マギに励まされるだなんて怖いのだけど? とにかく、その評判のせいで、リチェルーレ様からの風当たりが強いの。私は王子の妃とかどうでもいいんだから正直迷惑よ」
リチェルーレはパーティーで顔を合わせるたびに、仲のよろしい令嬢と共に圧をかけてくるのだ。相手は公爵令嬢、間違っても歯向かえない。笑顔で嵐が過ぎ去るのを待つのが苦痛すぎて、パーティーが楽しいだなんて思えないのが最近のエリーゼだ。
「もう、折角本を読んでいたのに鬱々とするだなんて嫌! このことは忘れましょう! マギ、お茶をちょうだい」
「飲みすぎですよ」
「いいじゃない! 今日はまだあの茶葉をのんでないでしょ? お願い」
一礼して館へと戻って行ったマギ。その後姿を見送り深く息を吐いて再び本を開いた。今度は外の騒がしさもない。ともなればエリーゼの邪魔をする者などいないのだ。
「――――さま。エリーゼ様」
「はい!?」
「お茶をお淹れしましたよ。ご希望の『クリ・グレイ』です」
濃い飴色の水面に光る月が映し出される。漂う香りは爽やかな柑橘系。エリーゼのお気に入りの茶葉『クリ・グレイ』だ。
「あー、幸せ」
本とお茶、優しい日差し。こんな贅沢な時間の過ごし方はないだろうと、エリーゼは現状にいたく満足していた。
「ねえマギ。あなた昨日街に出たわよね?」
「はい」
「最近有名な精油のお店があるでしょう、知ってる?」
「有名な、ですか?」
マギは首を捻ったが、すぐに思いついたようにエリーゼを向くとため息をついた。
「確かに、『ルール』という精油店が有名ですね。最近『質が落ちた』と市民の間では話題です。前を通りましたが、閑古鳥が鳴いていましたよ」
「でも、貴族界隈では?」
「話題になど上りませんよ。なんせ、フルーエルト公爵家の経営するお店ですから。自分たちに害がないなら触らぬ神に祟りなし、でしょう」
「それじゃあ駄目だと思わない? 『質が落ちた』っていう声の他に、『ルールの精油を使ったら頭痛や気持ち悪くなった』なんて声もあるのよ」
「……どこからそんな情報を得られたのですか?」
「お父様からのお手紙よ! 王都に来たアブソリュートの領民が『ルール』で買ったら酷い目見たってお父様に相談があったらしいの。領民以外からもお父様に相談が来ているみたい。流石はお父様よね!」
アブソリュート伯爵家は代々植物栽培の研究に秀でた家系。その現当主であるエリーゼの父は、その博識を買われてアブソリュート伯爵家に婿入りした一般市民。大層な玉の輿であるが、それを先代当主に決断させただけの知識を持つ人物だ。
その娘のエリーゼは、知識こそまだまだヒヨッコだが、好奇心だけは父には負けない。それを知っているのか、今まで嫌というほど味わったのか、マギは
「それでその本ですか……。そのような可愛げの欠片のない本、絶対に外では読まないでください」
「どうして? こんなに為になるのに」
エリーゼは読んでいた本を閉じ、そのスエード調の表紙に頬ずりした。
「『有毒植物大辞典。発見されている有毒植物を全網羅』。面白いわよ?」
「面白くても、紅茶片手に優雅に読む本ではございません。あと、本に頬ずりはおやめください」
マギのこめかみが小刻みに震え始めた。これは場所がここでなければ盛大に雷を落とされている筈。その光景が頭をよぎったエリーゼは、机の上に本をそっと置き、何食わぬ顔で紅茶を飲み干した。
(まあ、先ほどリチェルーレ様たちに言われた『本の虫』はちょっとあっているのかしら?)
そうエリーゼが悶々と考えていると別のメイドがやって来た。
「エリーゼ様、奥様がお呼びです」
別のメイドがそう報告すると、マギと何やら目配せをする。頭に疑問符を浮かべたエリーゼなど知らぬとばかり、マギは「おや」と空を仰いだ。
「もうそんな時間でしたか。直ぐに参りますとお伝えして」
一礼して館に戻ったメイドの耳は少し赤く足取りも軽い。スキップでもし始めそうなメイドの後ろ姿、その微笑ましい後ろ姿を見たエリーゼが抱くのは一抹の不安。
「……何かしら。マギ、知っているの?」
エリーゼを向き直ったマギは丁寧に一礼した。そしてその顔には普段お目にかかれない笑顔が張り付いている。
「エリーゼ様、先ほども申し上げましたが、どうぞご自分に自信をお持ちください」
「……なに!? 嫌よ、行かないわ!! 嫌な予感しかしないもの!」
「左様でございますか……。では、失礼して」
マギがメイド服の胸元から引き抜いたのは丸い鏡だ。銀色の蓋がついた二つ折りの鏡。
魔導師が魔導師試験に合格し魔導師名簿に登録された時に配布されるナンバーが彫られている銀の蓋つきの鏡。魔導師の身分証ともいえるこの鏡は、中に魔法の原料たる魔法植物から抽出した魔法精油が仕込まれており、魔導師が必要に応じて都度魔法を調合し発動する。
つまり、その鏡を所持するマギはれっきとした魔導師だ。ナンバーの銘は消されており、今は表立って魔導師として活躍はしておらず魔法を使うことなど滅多にない。
だが、珍しく鏡を取り出したマギは、その鏡面を指でなぞると、エリーゼの方に銃を構えるかの如く鏡を突き出した。
「大人しくされてくださいね」
「マギ、それ反則よぉ!! いつもは魔導師扱いすると怒る癖にぃ!!」
鏡から放たれた強くしなやかな紐で、あっという間に抱えていた本もろとも拘束されたエリーゼは、笑みを湛えたままのマギに引き摺られる形で館へと戻った。
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