197 虹の眼
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奇妙な気分だった。
ララキは今、女神と手を繋いで立っている。
それも相手は旅に出てから最初に語りかけて、手酷く拒絶されたあのヴニェク・スーだ。
ミルンがちょっと大きな怪我をしたのが今となってはだいぶ昔のことのようだ。
思えばそれもいい経験になった。
厳密にはその当時まだミルンは仲間ではなかったが、ララキの旅によって身近な誰かが傷つくのだということを、最初にララキに示したのはこの女神だった。
旅をするのには責任と覚悟が必要なのだということを、ララキは彼女から学んだ。
それでもなお歩み続けようという意志も手に入れた。
いずれにせよ、ありがたいことばかりでは決してなかったけれど、そこには確かに意義と呼べるものがあったと思う。
そして今ララキは、その女神を導く役目を与えられているのだ。
まったくもって奇妙な気分だった。
だが、悪い気はしない。
受け取ったものがあるのならこれは返礼で、当たり前の義務だ。
深呼吸をして、状況をしっかりを見極める。
相変わらず吹き荒れる暴風と爆炎で視界はすこぶる悪い。
意味があるかどうかはさておいて、ララキは念のため防御の紋唱をひとつ描いてみる。
「焦扉の紋」
髪飾りに養母が込めてくれた祈りによって、ドドの攻撃からはほぼ完全に守られているララキだが、その彼に向けられたアフラムシカたちの力は別だ。
彼らのほうで気をつけてくれないかぎり、巻き込まれたらそのまま被害を受ける。
もちろん神の力に触れるということはすなわち死に直結しているだろう。
ララキ程度の紋唱術でそれを防げるとは考えにくいが、ないよりもマシだと信じてやるしかない。
そしてそういう気持ちが何かしら反映されるのが紋唱術というものだ。
──思ったとおりにしかならない、ってよくミルンが言ってたもんね。
できると思ってやるっきゃないでしょ。
輝く紋章の盾をそのまま肘にくっつけるようにして掲げ、ララキはヴニェクを連れて進む。
炎と光が円を描きながら派手に爆ぜる。
目の前で、さながら星が死ぬ瞬間のごとく。
熱風に押し返されそうになるのをヴニェクに支えられてなんとかふんばり、崩れかけた紋章を手早く直してもう一歩。
短剣のような氷が雨あられと降り注ぐ。
そのうち一本が盾を勢いよく割り砕き、万事休すかと思われたが、すんでのところでヴニェクがひと払いしたところで氷針が水蒸気に変わった。
「あ、ありがと、助かった……。改めて、もっかい──焦扉の紋」
「まったく、心許ない先導だ」
ヴニェクは吐き捨てるようにそう言ったが、口調のわりに顔は少しだけ楽しそうに見えなくもない。
「あのさ、ヴニェク」
「なんだ。……というか、勝手に神の名を省略するな。略称を許した覚えはないぞ」
「……だめ? じゃあスーちゃんってのは?」
「やめろ。『スー』は雅称なのだからそれでは意味が通らんだろう。まだヴニェクと呼ばれたほうがマシだ」
「じゃあヴニェクで。……前からずっと訊きたかったんだけど、シッカのこと好き?」
彼の名前を出した途端、女神の身体が強張った。
手を繋いでいるから、その指先が石のように固まったのがよくわかる。
ララキはちょっと心配になって彼女の顔を覗きこんだけれど、相変わらずの目隠しなので、表情の細かいところまでは読み取れそうになかった。
そもそもこの布はなんのために巻いているものなのだろう。邪魔じゃないのだろうか。
「……わたしは、やつにとって、数多の女神のひと柱に過ぎない。それは弁えている」
そう、泥を拭い落すように静かに言って、ヴニェクは音が聞こえるほど強く奥歯を噛みしめる。
「偽者のシッカ……ドドに、何か、言われたの?」
「おまえがそれを訊いてどうする」
「どうもしないけど……」
そう言われるとララキも返答に詰まる。
脳裏に蘇るのはいつか見せられた過去の夢だ。
クシエリスルを創りはじめたばかりのころ、アフラムシカがタヌマン・クリャに対して盟約の外に出るよう要請した当時の情景を、ララキは夢を通して見せられた。
今になって思えば、あれもドドの仕業だったのではないかと思えてならない。
アフラムシカやクリャは、ララキが真実に感づいていることを知らないようだった。
彼ら以外の神にその当時のことをララキに伝える必要性や利点はない。
とにかくララキには衝撃的で悲しい内容だった。
何をおいても信じて愛してきたアフラムシカが自分を騙していたのかもしれない、それまで見せてくれた優しさやくれた言葉もすべて嘘だったのかもしないと思うと、暗闇に叩き落されたような心地だった。
そのうえあの夢では、まるでアフラムシカとヴニェクが個人的に親しいのかと思わせるような雰囲気も匂わせていた。
実際のところどうだったのか、気にならないといえば嘘になる。
でもアフラムシカは言ってくれた。
自分もララキを愛しているというまっすぐな言葉を与えてくれた。
今のララキはそれを信じるだけだ。
信じたい。
前を向いて、これ以上どんなものにもこの脚を阻まれないように、障害となりうるような感情はすべてここで脱ぎ捨ててしまいたい……たぶんそれが、今のララキの本音だ。
「あたし、これからもっとクシエリスルのみんなと仲良くしていきたい──しなきゃいけないと思ってるの。
だからヴニェクのことをもっとよく知りたい。ヴニェクだけじゃなくて、神さまたちがどんな関係なのかとか、何を思ってるのかとか……あたしにできることがあるならやろうって」
うまく伝わらない気がしたが、思いつく言葉を紡いでみた。
ヴニェクは呆れたか驚いたかしたようすでララキを見たが、こちらの表情がそれなりに真剣であるのを見とめ、ふうと大きく息を吐いた。
「……おまえのような人間は初めてだ。あらゆる意味でな。
わかっていないようだが、わたしはクシエリスルのすべての神でもっともおまえを目の敵にしているんだぞ。そのわたしによくもまあそんなことが言えるものだな」
「お、おかしいかな……」
「まともとは言いがたいだろう。だがまあ、腹の据わったやつは嫌いじゃない。
むろん、決して、おまえを認めるわけではないがな。
──アフラムシカとの付き合いは女神のうちではもっとも永いと自負している。
多くの女神がそうであるように、わたしも出逢ってすぐにやつに惹かれた。
そしてすぐに理解した。あの神には個人というものがない」
ヴニェクは淡々と語り始めた。
その眼はぼんやりと爆炎のさなかへ注がれていて、今度は彼女がララキの手を引きながらそこへ歩いているのだった。
南部生まれであるこの女神は裸足で、手足の爪には草の根から作る藍墨色の液で化粧が施され、露わな腿や腹部などは伝統模様の刺青が入っている。
こうして並んでみるとララキとヴニェク・スーの外見は少し似ているところがある。
生まれた地域が同じなのだから不思議なことではないが、ララキは隣を歩く彼女の横顔を見つめながら、ふと思った。
きょうだいがいたら、こんな感じなのかもしれない。
でもって、そんなことを考える時点で、心のどこかでミルンの家族に憧れていたのだろう。
兄や妹の話をするときの彼はいつも好い表情をしていた気がする。
「もちろんやつとて感情や欲がないわけではないのだろうが、それを誰の前にも晒すことがない。やつの思考は万事において全体の益を前提においている。
世界的に見ても異常な存在だ。
いざとなれば世界のために己の信徒すら差し出しかねないのではないかと、何度か思うことがあった。
そんな男を愛してもどうしようもないだろう。
そして、おまえが考えている以上に、この世界は女神に対して甘くはない。今アンハナケウにいる神の八割近くが男神であるのがそれを証明している。
わたしたちはつねに己をいかに護るかを考えて生きなければならなかった。そこで無益な感情は捨て去るか、封じるしかない……割り切りができないと、例えばラグランネのように傷つくだけだ」
そこまで言って、ちょうどララキの何個めかの盾が派手に砕け散ったが、ヴニェクはそれを気にすることなく目隠しに指をかけた。
伝統的な染糸織りの細い布帯の結び目は顔の左側、耳の手前にある。
それをするりと解くと同時にヴニェクは再び声を張った。
前から思ってはいたが、ヴニェクの声はめちゃくちゃよく通る。
隣にいるララキには正直かなりうるさいくらいだった。
「アフラムシカ、カーシャ・カーイ、そこを退け!」
ヴニェクの前髪が風に吹き上げられる。
その真下に、煌々と七色の光が点っているのをララキは見た。
「……死にたくなければわたしの眼を覗き込むなよ、ララキ。これが『虹の眼』──わたしの異名だ」
その伝説は南部育ちのララキも耳にしたことがある。
ライレマ家に預けられてまもない頃、寝物語に誰かが語ってくれたような気がする。
イキエスのどこかの山に、虹色の眼を持つ鳥がいるという伝説だ。
その眼は美しく光り輝くというが、誰も見た者はいない。
なぜならその眼に見つめられるだけであらゆる生物は死んでしまうからだ。
焼け焦げて炭になってしまうとも、石になってしまうとも言われている。
昔、ある大金持ちがとてつもない報酬を提示してその鳥を手に入れようとした。
国中の腕自慢の猟師たちがこぞって虹の眼をした鳥を探したけれど、誰ひとりうまくいかなかった。
鳥はどんな罠にもかからなかったし、どんな弓矢でも射捕らえることができないほど速く飛び去ってしまうからだ。
そして近づきすぎれば魔眼に見入られて殺されてしまうのだった。
誰もが諦めたころ、ひとりの知恵者が『虹の眼』の巣を探そうと試みた。
巣で休んでいるところを狙ってようやく一本の矢が掠めたが、鳥はそのまま巣を捨てて飛び去っていったという。
そのとき落としていった尾羽と仕留め損ねた矢が、多くの人の元を巡って最後には国王に献上され、それは今でも王宮の宝物庫のどこかにあるんだとか。
ララキは直接それを見ないように気をつけた。
ヴニェクの眼前からまばゆい光が糸のように放出され、爆心地へと突き刺さっていく。
そのうち土埃が晴れ、雨上がりの雲間に浮かぶ虹のように、ヴニェクの眼から注がれた光とその先にいたドドが明るみに出た。
「……どんな盾でも虹の眼は防げない。なら防いでも仕方ねえやなァ」
身体のあちこちを黒ずませたヒヒが呟く。
虹の眼に
ドドはそのまま妙に浮ついた足取りでヴニェクに向かって歩いてきた。
ララキは彼女の前に飛び出したものかどうか悩んだが、ヴニェクが眼を閉じてくれないことにはどうしようもない。
ただ見ているだけではいられずにひとまず腕が出た。
両腕を伸ばして両者を遮る。
せいぜいそれが今のララキにできる精一杯。
「でもよ、悪ィがそれじゃ、己を殺すにはちっと足りねえ。もっと本気でかかってこなきゃよ……」
「……はったりは止せ」
「ッハ、己が虚勢張ってるように見えんのかい? ……忘れんなよ、今の己はクシエリスルそのものだ。つまり『百獣の王』だって『精霊の王』だって好きに名乗れんだからな。
当然──『虹の眼』も思うまま」
そう言ってドドが目頭をさするような仕草をした。
ララキはてっきり、そのままドドの眼からヴニェクと同じような攻撃が発されるのかと思ってつい眼を瞑る。
直視しなければいいというものでもないのだろうけども、反射的にそうしてしまった。
だが、実際にはララキは誰かに腕を引っ張られて横っ飛びに転びそうになっただけだ。
はっとした次の瞬間、ララキはアフラムシカに抱えられていた。
慌ててヴニェクのほうを見遣ると彼女は未だドドと対峙しているが、何かがおかしい。
もう女神からはドドの身体を灼き滅ぼす眼力が失われているように見えた。
ヴニェクは悔しそうに顔を顰めながらも痛烈な風を吹き起こす。
刃のように鋭いそれはしかし、ドドの体毛をそよ風のように優しく撫でただけだった。
「カーシャ・カーイ、戻れ」
「命令すんな」
アフラムシカの一言で手負いのオオカミが走っていく。
それに構わずドドは一歩踏み出した。
ヒヒの長い腕が華奢な女神を掴もうと伸ばされる。
団扇のように大きな掌は、巌の如く太く長い指を備えていて、それが人間と同じくらい器用に動くであろうことはララキにも想像がついた。
南部では賢いサルが人間の仕事を手伝っている場所も少なくない。
掴まったらどうしようもないのに、ヴニェクは逃げる素振りを見せない。
そういう性格だからだ。
ドドもそれがわかっていて彼女の正面に立っているのだろう。
ほんの数秒たらずのこの瞬間が、なぜかひどく長く感じられたのは、周囲の神々から発せられる尋常ならざる緊張の気配のせいだろうか。
ドドの指先がヴニェクに届こうという刹那に至って、ララキの隣で獣が動いた。
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