196 幸せな依り代
:::
森の樹々が嫌な音を立てて倒れていく。
風にはおぞましい酸が混じり、触れたものをたちまちに腐らせてしまうらしい。
髪飾りのお陰でララキは無事だったが、神々はそうではなかった。
みんなそれぞれの力で防御策を講じてはいるものの、風圧に圧されて壁などが綻び、負傷して転がっていく者があとを絶たない。
次々に脱落していく中で、アフラムシカは火炎の壁をそのまま鎧のように纏ってドドへと駆けていく。
ララキもすぐにそのあとを追った。
迷いはない。なぜなら、そもそも一緒に戦うためにここに来たのだから。
一度彼と別れる前に、こんなやりとりをした。
森の中、傷つけられたララキを抱き寄せて、彼はララキに髪飾りと手袋を手渡した。
なんでもララキがトレアニ・ラスラハヤとして島送りにされた際、衣類とともにライレマ家へ返されていたらしい。
ドドとしては処分してしまいたかったのだろうが、髪飾りの保護に邪魔されてそれが叶わなかったのだろう。
それをアフラムシカがミルンたちに頼み、取ってきてもらったらしい。
彼らはそこでママさんことメイリ・ライレマから伝言を受け取った。
ララキに向かって、母からの言葉を。
『幸せになりなさい』
たった一言、それだけだが、ララキには充分だった。
娘が選んだ道を彼女は肯定してくれている。
これはこの上ない応援の言葉だ。
その一言で、彼女とライレマの温かな手に背中を押されているような気持ちになり、ララキの内に無限の力が湧いてくる。
ララキは手袋と髪飾りを付け直しながら、クリャに服を直してもらいつつ、アフラムシカの言葉を聞いた。
『おまえに預けた私の力を、ここですべて引き出す。
それにはおまえの協力が必要だ。方法はクリャから聞いたな?』
『うん……いいけど、その前にいっこ訊いていい?』
ララキはアフラムシカの顔をじっと見て、ちょっと顔が熱くなるのを感じながら、彼の偽者にしたのと同じ質問をした。
『あたしはシッカのことが好き。
……シッカはあたしのこと、どう思ってる?』
アフラムシカは少し面食らったような顔をした。
それはいつも冷静な彼にしては珍しい表情で、ララキの中に愛おしさが込み上げてくる。
そして彼は少しも顔色を変えないで、こともなげにこう答えたのだ。
『急に何だ。もちろん、
眼を閉じるように言われ、そのとおりにした。
ララキはタヌマン・クリャにとっての器であり、同時にアフラムシカの依り代にされた。
それはつまり彼の力を保管する壷のような役割を持たされていたということらしい。
そうすればララキがいるかぎり、アフラムシカに何があってもその紋章が滅びることはない。
ドドと戦うためにアフラムシカが用意した切り札こそララキだったのだ。
狡猾なドドとまともにやりあうには、まずその手の内を知らなければならないが、そのためには我が身を犠牲にする覚悟が必要だとアフラムシカは考えた。
事実、一度は完敗した。
外見を乗っ取られ、ドドはアフラムシカのふりをして神々を欺き、玉座を得た。
アフラムシカはそれをララキの内から確認してから、ミルンとスニエリタによる紋章奉納を機に復活し、こうしてアンハナケウに戻ってきたわけだが、肉体を一度潰されているので抜け殻に近い状態だ。
ララキが預かっている力をすべて戻してようやくドドと戦える状態になれる。
そして、そのための方法というのが身体的な接触であり、もっとも効率がいいのが口吻──つまりキスらしい。
口は獣が養分を得るための武器であり、同時に人間にとっては詩を唱える器官だ。
それを触れ合わせることで互いの紋章が連なって力の交配を円滑にする、とかどうとかクリャには細かい説明をあれこれされたわけだが、ララキとしてはやることがわかればその理屈はどうだっていい。
ただ、キスをするなら両想いがいいよね、と、乙女心に思っていただけで。
そうして触れあったくちびるは温かく、少し湿っていた。
身体の芯がぽうっと温かくなり、その熱がそのままするすると口から出て行く気がした。
神の力が移動することで、ララキの身体が少しだけ冷たくなり、代わりにアフラムシカの胸が熱くなっていくのが、抱き合っているからよくわかる。
『……あたしも、シッカが大好きだよ』
そうして完全に復活したアフラムシカと、ララキは一緒に戦っている。
ドドの力はさきほどまでの比ではなくなっていた。
アフラムシカに化けている間は、偽者だと気づかれないよう炎の力しか使っていなかったが、正体を表わしたのでそうした配慮はもう要らない。
彼は自由自在にあらゆる属性の力を振るってこちらを翻弄してくる。
カーイなども喰らいつこうとしているが、氷雪を操る彼にはそれを溶かしてしまう炎を、火炎を纏うアフラムシカにはそれを鎮火してしまう水を、という具合にうまくこちらの弱点を突いてくるのだ。
「チッ、やりづれぇな!」
カーイが腹立たしげにそう言いながら地を走る炎を跳ね除ける。
しかし、その飛び上がった瞬間を狙って一直線に光の矢が彼を貫いた。
カーイはくぐもった悲鳴を上げて後ずさり、その胸から紅いものが飛び散る。
圧されているのは彼だけではない。
アフラムシカもまた、走っては大地が避け、それを避けては目前に雷を穿たれ、結局思うようにドドに近づくことができずにいた。
かといって離れたまま攻撃しても、距離のぶんだけドドに充分に対処する時間を与えてしまう。
ドドの周囲には常に大量の紋章が浮かんでいる。
どれもが複雑な模様だが、さすがにララキも見慣れてきたもので、それらが他の神の紋章なのだと見ただけで判断がつく。
さすがにどれが誰のものとまでは知らないが。
背後で他の神々が喚いているのが聞こえる。
この争いに飛び込んで加勢したい者がいる。
それを留めるのはヴィーラとルーディーンだ。
彼らが抑えているので戦闘外には被害が及んではいないが、しっかりと身を護る術がない者が無闇に飛び込んでも怪我をするだけ、下手をすれば死んでしまいかねない。
彼らとて見ているだけは歯がゆいのだろう。
ヴィーラなど声に明らかな怒気が滲んでいる。
しかし、彼以上に大きな声で怒鳴っている女神がいた。
いわずと知れたヴニェク・スーだ。
ドドが生きていたと知って、同じ地方の神として思うところがあるのか、はたまた特別な理由でもあったか、とにかく彼女の怒りと興奮はいまだかつてないほど激しかった。
「止めるなルーディーン! フォレンケも離せ! この
「無茶だってば! ヴニェク、防御のほうはからっきしでしょ!?」
「なんならここから撃ち抜いてやる! 手を退けろォォ!」
「よせ、そんな状態で狙ったって無理だ! カーイたちに当たったらどうすんだよ!」
ヴニェクの怒号に混じる、彼女を止めようと奮闘する神々の声。
ララキがそれを気にし始めたのは、先ほどからアフラムシカが何度か振り向こうとしているからだった。
後ろのやりとりが気にかかるが、前方からの攻撃が激しいので迂闊に振り返ることもできない、しかしどうしても背後を無視することができないでいる彼の姿が目の前にあるのだ。
「シッカ、……ヴニェクが心配なの?」
駆け寄ってそっと尋ねると、アフラムシカが苦笑に近い表情を浮かべた。
「あれほど激昂しているヴニェクを、そう長くは引き留めていられないだろう。あれはそういう神だ。
……いつ飛び出してくるかと思ってな」
「そっか。
いざとなったらあたしが彼女の前に立つようにするよ。今のあたしは盾役が向いてるみたいだし」
「頼む。だがメイリの守護があるからといって油断はするな、相手は神だ。
それにヴニェクの
「うん」
ララキは頷いてアフラムシカの背後に下がる。
彼が迷いを吹っ切ったように駆け出したのを見送って、ララキも逆方向へと足を向けた。
未だ喚いている神々のところへだ。
自分たちのところに向かってくる人間を見て、彼らはそれぞれ驚いたような顔をしている。
驚きにもいろいろ種類があって、不思議がっているような雰囲気の精霊や、少し嬉しそうな気配を滲ませている神もいるが、逆に露骨に嫌そうに眉間を曇らせた者もいた──誰あろうヴニェク・スーだった。
相変わらずこの女神には徹頭徹尾嫌われているらしいな、とララキは思わず苦笑いを浮かべる。
少しだけ、アフラムシカが彼女を気にかける理由がわかったような気もした。
手前にいた見知らぬ神の肩に手を置いて、爪先立ちになりながら、手袋をした手を女神へと伸ばす。
「ねえヴニェク、あたしと一緒に戦って」
「な……なんだいきなり、貴様、誰に向かって口を聞いているつもりだ……」
突然の申し出に、ヴニェクも拍子抜けしたような声で答えた。
目隠しをしていても彼女の表情はよくわかる。
ぽかんとしているのが少し面白くて、ララキはちょっと笑いながらヴニェクの手を掴んだ。
「戦いたいんでしょ? 防御が心配なら、あたしが盾になるから」
「だ……誰が貴様の手なぞ借りるか! 人間はアンハナケウから消えろ!」
「そう言われても帰りかたがわかんないし、みんなを置いていけないよ。だいいち、もうあたし人間じゃ……。
それにヴニェクの手伝いをするっていうのは、シッカに頼まれたことでもあるんだ。文句ならシッカに言ってよねっ」
「お、おい!」
無理やりヴニェクの手を引っ張って神々の群れから引っ張り出す。
フォレンケたちからも非難、もとい制止の声が上がったが、ララキは同じ文言を繰り返して彼らを黙殺した。
アフラムシカの名前を出せば誰もが黙る。
その姿で神の玉座を手に入れたのは別人だったというのに、彼らの心中では未だ彼が王であるかのようだった。
ヴニェクはしばらく呆気にとられたようすでララキの顔を見ていたが、やがてフンと鼻を鳴らして、ドドへと向き直った。
とはいえ周囲に激しい火炎と暴雪が吹き荒れていてその姿を見ることはできない。
恐らくその渦中にいるだろう、と察することができるだけだ。
「これだけ強引に要請したんだ。むろんわたしをドドの前まで運ぶくらいはするのだろうな」
「……うんまあ、いいでしょ。やってみる」
ララキは無理やり笑顔を保ちながら、もう一度戦闘のようすを見た。
──ちょうどその瞬間にけっこうな勢いの爆発が起きて、巻き込まれたら死ぬな、と胸の底で思ったけれど、もう後には退けない。
たぶん口端がひくついたのを、ヴニェクが黙って睨んでいた。
→
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます