192 迫る毒牙

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 お客さんが来たようだね、と彼は言った。

 それも外国からの、と付け足して。


 どうしてわかるのかと尋ねると、彼は指先で一枚の羽根を弄びながら、これが玄関の前に落ちていたよ、と答えた。


「イキエスにはいない種類の鳥だ。誰かの遣獣だろうが、私の知るかぎり国内にこの種の鳥を扱う業者はいないからね」

「……もう、なんでもお見通しねえ……仰るとおり、今日来たわ、ララキのお友だち」

「そのようすだと、あれを渡したようだな」

「ええ。とっても驚いてたわよ」


 彼女は苦笑しながら旅人たちのことを語る。


 かわいらしい若いカップルであったこと。

 それからもちろん、彼らに聞いたララキの旅のようすと、その顛末も。


 娘同然に育ててきた少女が異国の神──少女自身にとってはそこが故郷になるが──と一体化してしまったくだりについては、さすがの彼も眼を丸くしていた。


 用意された食事に手をつけるのも忘れてしばし話に聞き入っていた彼は、やがて立ち上がって鞄から筆記用具を取り出すと、そこにあれこれと描き込み始める。

 学者としての性を刺激してしまったらしい。


 彼にはよくあることなので、今さら妻は動じない。


「……そういうわけで、私たちの娘は今、幸福の国で悪い神と戦っているそうよ」

「いや……きみ、どうしてそう平然としていられるんだい? 我が妻ながら驚嘆するよ、ある意味ララキの話以上に」

「あら、それはどっちの意味かしら」

「両方だとも」


 それを尋ねられるのは正直、心苦しくないと言えば嘘になってしまう。


 最愛の娘が去った。

 もう二度と会えないのだから、当然悲しい。


 でも、もちろんララキが幼いころからどれだけアフラムシカを愛していたか、彼のためにどれだけの努力をしたのか、どんな覚悟で旅に出たのかは知っている。

 そのララキが今はアフラムシカとともにアンハナケウにいる。

 彼女の夢はある意味叶ったのだ。


 それならば悲しんでなどいられない。

 血の繋がりはないけれど、母親として娘を祝福したいと思うのもまた確かな事実なのだ。


 そして、もうひとつ。


 これは自分自身のことだ。


 衝撃的でないわけがなく、事情を知らなかったであろう旅人たちの前では平静を装うのに少々苦労した。

 けれど、何も知らない彼らに余計な感情を抱かせてはいけないと、必死に堪えてあの袋を取りにいったのだ。


 苦笑いして、妻は答えた。

 ──そりゃあ悲しいわ。悲しいけど、それを顔には出さなくてもいいんじゃないかしら。


「そして、だからこそ私にできることがあるんじゃないかと思えるのよ。今はそれだけを考えたいの」

「……そうか。わかったよ、ならば私は極力きみを支えよう」

「ふふ、ありがとう、ジャルーサ」


 さあ、食事を続けましょう。


 敢えて気丈な声でそう言うと、夫も苦笑して食器を取った。


 いつもの手料理も、こんな日は思わず、これはララキの好物だったなんて考えてしまう。

 作っているときはそんなこと思いもしなかったというのに。


 幸福の国はどんなところだろう。

 ララキはちゃんと食事を取っているだろうか。

 いや、あの子にかぎって食いっぱぐれるということは絶対にありえないだろうけれども。


 思い出せるのは笑顔ばかりで、それが今は少し切ない。


 ララキは元気にやっているだろうか。

 周りの神は彼女にどう接しているのだろう。


 世界を牛耳っているというその神は……何を思っているのだろう。


「ところでメイリ、ひとつ訊いてもいいかな」

「なあに?」


 季節の果実を浮かべた水を飲み下して、夫が穏やかな顔をして言った。


「その旅人たちだが、少年のほうはハーシ人じゃなかったかい」

「……あら、そうよ。そのとおり。あなたって、そんなことまでわかっちゃうの?」

「いや、これは単なる個人的な希望だ。……そうか、はは、やっぱりなあ」


 彼は楽しそうにくすくす笑い、果実水のおかわりをグラスに注ぐ。


 ジャルーサ・ライレマは南部の男としてあるまじき下戸だ。

 もっとも、彼が他の男たちのように毎晩浴びるほど果実酒を飲んでいたら、今ごろ彼は教壇には立っていなかっただろう。


 妻はそれを眺めながら説明を乞う。空いた手でサラダを混ぜるのも忘れない。


「ララキが旅に出た日に、あの子と喧嘩をしていた少年だよ。確かきみにも話しただろう?」

「ああ、そういえば聞いた気がするわね」

「我々の娘には縁を引き寄せる力があると思わないか。いや、縁というよりは幸運かな。

 あの子の周りには昔から、誰かの幸運がある」

「……ああ、ふふ、そういうことね」


 メイリ・ライレマは微笑んで、まったく同感だわ、と答えた。




   : * : * :




 治療場の采配を終えたヴニェクは大急ぎでアフラムシカのところに戻った。

 とはいえあからさまに急ぐのは気恥ずかしいものがあったので、極力なんでもなさそうな顔をしたし、走らず速歩きではあったが。


 アフラムシカの周りにはたくさんの神が犇いている。


 彼が王になったからだ。

 何をするにもアフラムシカの許可を得ねばならないとみんなが思い込んでいるので、つねにひっぱりだこの状態なのだ。

 ヴニェクは溜息をついて数人を適当に引っぺがした。


 転がした何人かのうち女神だけがわかりやすく睨んでくる。

 どうやら腹に抱えているのは用事だけではないらしい。


 とはいえ武力に長けており気性も穏やかとは言いがたいヴニェクに真っ向から噛み付いてくる者はいない。

 小声で文句を垂れながら脇に退くのがせいぜいだ。


「アフラムシカ! この有象無象の相手をまともにする必要はないと思うぞ!」


 敢えて声を張ってそう告げると、アフラムシカが困ったような顔をする。


「無碍にするわけにはいかないだろう。このような非常時、誰もが不安を抱えている」

「そうは言っても、なんでもかんでもおまえ頼りではきりがない。話を聞くだけなら他の者でいいし、そのうえでおまえの判断が必要だということになれば、改めて話を通せばいいじゃないか。

 アフラムシカ、おまえは戦いの疲れがまだ取れていないんだろう? 顔色が悪いぞ」


 普段だったら、誰の話にも平等に耳を傾けるその姿勢を評価してやりたいところだが、今はアフラムシカも休息が必要なのだ。

 ヴニェクの言葉に彼が何の反論もしてこないのがその最たる証拠だろう。


 それどころかアフラムシカは深く息を吐いて、おまえの言うとおりかもしれないな、と答えた。


 集まっていた神々が顔を見合わせる。

 彼らとてアフラムシカをいたずらに苦しめたいわけではないのだ。


 結局ヴニェクは治療場にとって返してヤッティゴを連れてきた。

 彼ならカジンよりはまともに相手の話を聞けるだろうし、ヴニェクとしても信用はできる。


 彼にしばしアフラムシカの代理を任せたが、その場にアフラムシカが留まっていると誰かが話しかけてきそうなので、一旦彼を広場から連れ出すことにした。


 大穴の周囲は樹がめちゃくちゃになっていて実質一本道のため、誰かが追ってこないようにと反対側の森に入る。


 少し歩いて適当に少し開けたところを探し、手ごろな樹を自前の風で切れ味鮮やかに切り倒した。


 倒木を簡易的な椅子にしてアフラムシカを座らせる。

 幹の太さがちょうどいい具合だ。


「ここなら静かでいいだろう。しばらく休憩していてくれ。

 ……じゃあ、わたしは戻ってヤッティゴの手伝いを」

「いや、待ってくれ」

「ッ、と!?」


 立ち去ろうとしたヴニェクの手を、アフラムシカが掴んだ。


 その力が存外に強く、思わずヴニェクの脚が縺れ、そのまま均衡を崩して後ろに倒れそうになる。

 それをアフラムシカが座ったまま受け止めた。


 結果として、ヴニェクはアフラムシカの膝の上に座るような恰好になってしまった。


「──す、すまない! すぐ退く!」

「いや、……このままでいい」

「な、ななな、何を言って……ッ、手を離せ、おい!」


 ヴニェクは慌てた。

 男神とこれほど接近したのは生まれて初めてだったし、何よりその相手がアフラムシカなのだ。


 体勢のせいで驚くほど近くに彼の顔があり、たぶん今ヴニェクは顔を真っ赤にしてしまっているだろうが、もはや自分ではどうすることもできなかった。


 心臓がばくばく跳ね回るが、この音も聞こえてしまうほどに近い。

 近すぎる。

 なんなら吐息までかかりそうなほど。


 逃げようとするヴニェクを許さないのはアフラムシカの力強い腕だった。

 太くて逞しいそれが、華奢な腰をしっかりと掴んで離さない。


「……おまえにしか頼めないことがあると、言ったはずだ」


 アフラムシカが耳元でそう囁いて、ヴニェクは自分の喉から妙な声が出るのを聞いた。


 身体の芯が融けていくような、そんな奇妙な錯覚に陥る。


 もしかしたらこれが王の言葉だからだろうかとヴニェクは思った。

 神の王が、従者である己にここに留まれと命じている……。


 きっとそうだ、アフラムシカは王だから、彼の言うことには逆らえないのだ。


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