193 神々の宵闇

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 何がなんだかわからない、と、ぼんやりしてきた頭の隅でヴニェク・スーは考えていた。


 なぜか今、自分はヌダ・アフラムシカの腕の中にいる。

 そこは多くの女神が夢見た場所、恥ずかしながらヴニェクもそのひとりと言って差し支えないけれども、永遠に実現しえないと思っていた。

 それが突然こんな状況になり、にわかには信じがたい。


 私を癒してくれ、ヴニェク──アフラムシカはそう言って、ヴニェクを抱き締めた。


 お互い南部の神であるため、装束は肌が露わになっている部分が多い。

 アフラムシカの胸はむき出しで、そこに触れているヴニェクの腕や腹も同じくだ。


 なんだか腕が熱いと感じる。

 これはどちらの体温なのだろう。


 いつの間にか、ヴニェクはすっかり抵抗するのをやめてしまっていた。

 アフラムシカの膝の上に抱えられて、逞しい肩に頭をもたれさせながら、何を言うでもなくぼうっとしている。

 頭がふわふわとしたものに包まれているような気分だ。


 こんなに穏やかな心境になったのは生まれて初めてかもしれない。

 身体の芯がゆっくりと融かされるような心地がする。


「……静かだな」


 ふと、アフラムシカが呟いた。

 確かにあたりは静寂に包まれていて、誰かがやってくる気配はない。


 誰にも邪魔されることなくふたりきり……そう思うと急にヴニェクの胸が震えた。

 今なら何を言っても、何をしても、誰にも見られる心配がない。


 そんなことを考えたところで、じゃあ何か行動に移せるかというと、ヴニェクは案外奥手だった。

 これまでこういう経験をしたことがなかったのだからある意味では当然なのかもしれない。

 どうすればいいのかわからないのだ。


 だからアフラムシカの指が急に太腿をなぞっても、つい驚いて変な声を出してしまう。


「わぁッ!? ……あ、アフラムシカ……いきなり何だ、くすぐったいだろ……」

「……面白い反応をするな」

「急だったんで驚いたんだ……あまり、み、妙なところを触るな」

「すまない。……おまえが、いつになくしおらしいものだから、いろいろ試してみたくなる」


 その言葉の意味がよくわからず、ヴニェクはわなわなとくちびるを震わせた。


 今日のアフラムシカは少し変だ。いつもと違う。

 正直この状況はヴニェクにとっても都合がいいので流されそうになっているけれど、アフラムシカはいつもなら言わないようなことばかり言うし、している。


 それだけ疲れているのか。

 あるいは王という肩書きの重責のためなのかと思うと、無碍に突っぱねることもできないし、したくもならないけれど。


「わ、わたしは……その……ッ」


 狂うような鼓動に苛まれながら、ヴニェクは震える声で何か言おうとする。


「……っわかるだろう、こういう経験がないんだ! だから……は、恥ずかしい、というか……」

「ああ、照れているのはわかっているとも。……かわいいな」

「だから、そういうことを言うな! 余計に恥ずかしい!

 まったく……どうかしているんじゃないのか。さっきから、らしくもないことばかり言っているぞ、おまえ……」

「そうだな。普段は己を抑えている。感情や本能のままに振舞うのは、神としては正しくはないだろう」


 ──だが、私にも欲ぐらいある。


 アフラムシカが低い声でそう囁くと、ヴニェクの背筋に寒気のようなものが奔った。

 彼から今まで感じたことのない気配が発せられているのだ。


 それは殺気のようでもあるし、あるいはもっと優しい何かのようにも思える、捉えどころのない雰囲気だった。


 なぜかそれを、ヴニェクの本能は恐ろしいと感じてしまう。

 喰い殺される──そんな考えが脳裏に閃く。

 アフラムシカがそんなことをするはずがないのに、絶対にしないとわかっているのに、これまで築いてきた信頼をすべて投げ打つような激しさがある。


 思わずアフラムシカの口許を見た。

 今は人の姿をしているから、そこに大きな牙はない。


 ヴニェクの腿に触れたままの指にしたって、そこに獲物を引き裂くための獰猛な鉤爪はないはずなのに、そのあたりが妙にひりひりして仕方がなかった。


「い、やだ……」


 気づけばそんな情けない言葉が口を突いて出てきた。


 ヴニェクにしてみれば初めての感情だった。

 誰かを怖いと思うこと自体、稀なのに、それがよりにもよってアフラムシカ相手だなんて。


「怖がらないでくれ。おまえはただ、私に身を委ねてくれるだけでいいんだ。

 ……私も、おまえに辛い思いをさせたくはない」

「でも……や、やはりおかしい、アフラムシカ。

 今日のおまえは絶対に変だ。なあ、疲れているんだろう、余計なことはせずに静かに休んだほうがいい。頼む……わたしは……」


 これ以上迫られたら、拒みきれなくなる──そういう確信がヴニェクにはあった。

 だからまだ声を出せるうちに必死で抵抗を試みる。


 疲れているせいだ。

 それでアフラムシカは正常な判断ができなくなっているのだ。

 もしかしたら、ここでヴニェクと一線を越えてしまうことで、あとから彼が後悔することになるかもしれない。


 いや、そんなのは建前で、やはりヴニェクは恐ろしくて仕方がなかった。

 まだ受け入れるための心の準備ができていない。


 震える手で分厚い胸板を押すヴニェクに、アフラムシカは追い討ちをかけるようにまた低い声で囁いた。


「そうだ、疲れているんだ……私を癒してほしい……言っただろう、ヴニェク、これはおまえにしか頼めない……」


 だめだ。


 ヴニェクは心の隅でそう呟いた。

 こんなのはおかしい、何かが間違っているとしか思えない。


 金縛りにあったように身体が動かなくて、固まったヴニェクを抱きかかえたアフラムシカの顔がゆっくりと近づいてくる。


 その口に牙はないけれど見える気がする、獣が大きな口を開いてこちらを飲み込もうとする幻想が、その上顎に煌く白牙が……。


 しかし、くちびるが触れ合うかと思われた寸前、轟音が響き渡った。


 アフラムシカの動きがぴたりと止まり、ヴニェクは身体の自由を取り戻す。

 どさくさに紛れて彼の膝から飛び降りると、ヴニェクはすばやくあたりを見回したが、視認できる範囲にはこれといって異常はない。


「なんだ、今の音は?」

「……広場のほうだな。あちらで何かあったのかもしれない」

「少しようすを見てくる。……アフラムシカ、おまえはその、ここで休んでいろよ。状況がわかり次第、戻って報告する」

「ああ……」


 ヴニェクは走り出したが、すでに心臓は破れそうなほど胸中で暴れまわっていた。


 あと少しでアフラムシカとキスしてしまうところだったのだ。

 他の神に知られたらそれぐらいなんだと言われそうだが、ヴニェクにとってはそれだけで充分に一大事である。


 それどころかそのままもっと進展してしまいそうだった。

 少しだけ惜しいような気もするが、かといって急にすべて経験するとなるとヴニェクはきっと正気を保っていられない。

 まだ早い。早すぎる。


 きっとまた顔が真っ赤になっているに違いないが、もはやそれを構っている余裕はなかった。


 一方、走り去るヴニェクの背を見つめているアフラムシカは、何か考え込んでいるような顔をしていた。

 彼はそのうちふっと薄く笑んで、ひとりごちる。


「……次は逃がさないからな」


 もちろんその声は、ヴニェクには聞こえていなかった。




   : * : * :




 みんなが呆然としてそれを見上げている。

 空に浮かんだ大紋章は、銀色の光を散らしながらゆっくりと軋んでいた。


 その中央に大きな針がある。

 羅針盤のようにくるりくるりと回っては、時おり何かを指し示すかのようにしばらく停止するのだった。


 しかし誰もその意図を汲めないのでは意味がない。


 あれは何だ、と恐怖に震えた声がほうぼうから聞こえるけれど、その問いに答える者はいないのだ。


 このところアンハナケウでは次から次へと異常なことが起きている。

 盟主の裏切りと死、世界そのものの変容と、誰にとっても手に余る大ごとばかりだ。

 そのうえ大紋章が狂ってしまったとなれば、もはや力の弱い者たちにとっては破滅を宣告されたにも等しい。


「……なかなかに凄惨な光景だの。悲観して自死を図る者が現れなければよいが」

「それは私が気を配りましょう。ちょうどヤッティゴがアフラムシカの代理に立っているようですから、そちらに行ってきます」

「あたしも行っていい?」


 ララキが尋ねるとルーディーンは頷き、それから傍に控えていたゲルメストラのほうを向いた。


「あとを頼みます。ペル・ヴィーラの指示に従って行動してください」

「承知した」


 木陰にヴィーラ、ゲルメストラとフォレンケを残し、ララキとルーディーンは広場のほぼ反対側にいるヤッティゴのところへ向かう。


 とくに決めたわけではなかった気がするが、なぜかそのあたりが『神の王』の席という扱いになっており、アフラムシカに一言申したい神々が殺到している。

 そのアフラムシカ自身は少し前にヴニェク・スーとともに退場しているため、代わりにそこにいるヤッティゴが窓口を務めているようだった。


 近づくにつれて神々の不安が聞こえてくる。

 これから何がどうなるのかわからない、これまでどおりに暮らしていいのか、いったいいつになればアンハナケウから出られるのか──大紋章の改訂が済むまでは、誰もここから出入りができないらしい──そんな声が飛び交っている。


 ひとりずつ順番にヤッティゴが話を聞いているようだが、数が尋常ではない。

 ぐねぐねと長蛇の列が彼の前でとぐろを巻いており、さらに少しずつ増え続けるせいで一向に減るようすがないので、まったく終わりが見えない状態だ。

 これではヤッティゴも可哀想だとララキも思った。


 彼に交代するまではアフラムシカがひとりで同じように対応していたようで、ヴニェクが一旦彼を休ませようとその場を辞させたのも理解できる。

 ただ、そのヴニェクも一緒に森に入ったきり戻ってこないのが気にかかった。


 もしかしてまた、ルーディーンのときと同じようなことになっているのかもしれない。


 それを思うとララキの胸は痛む。

 わかっていても、直接目の当たりにしたり頭の中で想像すると、耐えられない苦痛にこの身が引き裂かれそうになる。


 しかし、ララキたちがちょうどヤッティゴのところについたところで、木陰からヴニェクが飛び出してきた。


「あ、ヴニェク、ずいぶん遅かったじゃないかよ。この人数おいらひとりで捌くなんて無理だって~」

「そんなことよりさっきの音はなんだ!?」


 すっとんできたヴニェクが刺々しい声音で尋ねてくる。

 目隠しのせいでややわかりにくいが、かなり険しい表情をしているようだ。


 あれあれ、とヤッティゴが空を指差し、ヴニェクが大紋章の針を見て唖然とする。


「な、なんだあれは……」

「あれのせいで相談希望者が倍増してんだよなー。

 とりあえず、ヴィーラやゲルメストラたちが改訂作業をしてるだけだから心配いらないって、みんなに言って回ってくれよ。おいらはそれ以外の相談を引き受けるから」

「それはかまわんが……一度アフラムシカに報告してくる」

「あ、待って、それあたしが行く」


 ララキが口を挟むと、ヴニェクがばっと振り返った。

 見えないが、たぶん睨まれているのだろうなと、彼女の発している気配からなんとなくわかる。

 相変わらずララキはヴニェクには嫌われているらしい。


 これはちょっとやそっと話したくらいでは譲ってもらえそうにないぞ、とララキは焦った。


 とりあえずこのままヴニェクをアフラムシカのところに戻らせるのだけはしたくない。

 しかしララキひとりで説得するのはほとんど不可能そうなので、助け舟を求めるべくルーディーンに目配せすると、女神は静かに頷いた。


「ヴニェク・スー。混乱する者たちと対話をするのに、タヌマン・クリャは力にはなれません。彼は未だに精霊たちにとっては恐怖の対象ですから。

 あなたの今の使命はアフラムシカの補佐のはずです。報告のような誰でもできる瑣末な仕事に、あなたの時間を割くべきではない」

「……そうかもしれないが……でも……」

「なんだよヴニェク、珍しくアフラムシカにべったりだな、今日」

「う……ッうるさい! そんなことはない! ただその、なんだ……すぐに戻れと言われたから、向こうでわたしに何か頼みたいことがあるのかも……しれないと、思って……!」

「あ、じゃあそれもついでに聞いてくるよ」


 これといって頼んだわけでもないが、ヤッティゴが上手いことヴニェクをつついてくれたようなので、どさくさ紛れにララキはヴニェクが出てきたほうへと駆け出した。


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