163 呪われた民の国

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 ふたりは廃墟の町を歩いていた。

 いや、それは町と呼ぶにはいささか原始的すぎる集落跡だった。


 削った石を積み重ねて造った、塀にしては低い建造物が途切れながらも延々と続き、その内側には石を円形に並べたものが幾つも点在している。

 恐らく本来そこには家屋があって、残っているのは囲炉裏いろりの痕だろう。


 なんとなく想像はつく。

 きっと住居は木の枝や藁などの軽い素材で建てられていた。

 それらが永い年月のうちに風雨に晒され、あるいは獣に食われるなどして跡形もなくなり、石で造った部分のみがところどころ欠けながらも名残を留めているのだ。


 これは百年前なんてものではないな、とミルンは思った。

 もっとずっと古いところで文明が終わっている──。



 ミルンとスニエリタは、呪われた民の国・チロタへと足を踏み入れていた。



 あれから得られる時間をすべて移動にあて、ジャルギーヤやアルヌといった遣獣の力も借りながら三日でイキエスを縦断してのけ、クシエリスル最南端の町ポッコに到着したのが昨夜のこと。


 そこでひとまず一泊し、朝のまだ人びとが活動を始めるよりも早くに宿を出た。

 向かう場所が場所だけに人目を避けたかったのだ。


 チロタとイキエスは鋼鉄の柵や網、塀などによって完全に遮断されている。


 町と柵との間には深い密林が横たわっており、呪われた民の国への恐怖心もあって、ここに生まれ育った町民でも死ぬまでに一度も柵を見ないことさえ稀ではないという。

 近づいたところで越える術はない。

 鋼柵には紋唱によって幾重にも封印が施されており、絶対に破壊できないようにされている。


 よじ登ろうとすれば手足から力が抜け、滑り、柵を握ることさえままならない。

 試さなかったが空を飛べるものの力を借りて飛び越えることもできないだろう。


 ミルンとスニエリタはその前に立ち、タヌマン・クリャに助けを求めた。

 そのほうが話が早いと思ったからだ。


 この柵の向こう側から平然と抜け出して大陸中をうろついている外神には、こんなものは存在しないに等しい。


 事実、神は不敵に笑んで、アウレアシノンの城壁のように軽々と柵を飛び越えさせてくれた。


『しかし、これだけでも消耗はそれなりなのだよ。

 そろそろ補給が要る。少しばかり外に出ているが、おまえたちは気にせず進むといい』

「あんたがついてなくて大丈夫なのか?」

『……スニエリタからつかず離れずでいることだ』


 クリャはそれだけ言ってどこかへ飛び去ってしまった。

 派手な獣が空に溶けて消えるのを見送って、ミルンは小さく息を吐く。


 ことあるごとに口出しをされるのも鬱陶しいので、しばらく離れてくれるのはありがたいが、なにもチロタに入ってからでなくてもいいだろうに。


 スニエリタはというと少し緊張した面持ちだ。

 しかし「人や獣に危害を加えなければいいけど……」と、心配する内容が若干こちらとは違っているようだった。


 ともかく今は進むしかないわけで、ミルンは意を決して正面を向く。


 一歩踏み出すと、密林の奥からべっとりと湿った生臭い熱風が吹いてきた。

 まるで巨大な獣に顔を舐められたような感覚がして、不快感に思わず顔をしかめるミルンだったが、スニエリタはきょとんとしている。

 彼女は感じなかったらしい。


 恐らくスニエリタの背にはまだあの印が残っていて、それが護符のような役割を果たしているのだろう。


 つかず離れずといっても、隣で歩いているだけのミルンにそうした加護は及ばないようで、その後も歩くたびに嫌な気配や物音、風、匂いなどに襲われた。

 しかも足元の草が妙に靴に絡みついてくるようにも感じる。


 気にせず歩き続けようとしたが、今度は地面が急にぬかるみと化して、足首までずるりと泥に沈み込んでしまった。


「大丈夫ですか?」

「あ、ああ。なんか俺すげえ足手まといになってんな」

「その……大変、ですね……」


 どう考えてもミルンのせいでなかなか進めていない。

 焦りながら足を引き抜こうとするが、むしろ沈む。


 それどころか爪先あたりにはっきりと何者かの手の気配を感じ、やばいな、と思った瞬間にさらに深く引きずり込まれた。


 思わず声を上げたミルンを見て異常に気づいたのだろう、とたんにスニエリタの顔が青ざめる。


「ど、どうしたんです!?」

「いや……どうも地面の下に何かいるな。引っ張られてる。ちょっと待てよ、──水流の紋。……ダメか」


 とりあえず元を叩こうと思って術を発動させるが、まともに機能しなかった。


 そういえば呪われた民の国では紋唱術が正常に働かないという説もあったか。

 チロタに関しては憶測と偏見が入り乱れていてあてにならない言説も多いが、とりあえずこの点だけは証明されてしまったようだ。


 しかしそれではミルンが抜け出せない。

 どうしたものかと考えている間にも、ずぶずぶと足は沈んでいく。


 スニエリタは涙目でこちらを見ていたが、そのうち耐え切れなくなったのだろう、ミルンの胸に飛び込んできた。ミルンが沈むのなら自分も一緒に、という顔をして。

 抱きとめるのは容易いが、この状況ではよろけて余計に沈んでしまうし共倒れはまずい──というミルンの焦りとは裏腹に、その瞬間からぴたりと沈まなくなる。


 それどころか、ミルンの両足はなにごともなかったように地面の上に立っていた。


 ふたりはぽかんとして地面を眺め、それから顔を見合わせる。

 もしかしてつかず離れず行動しろというのはこういう意味だったのか。


「つまり密着していろと……?」


 ミルンがそれを口にした瞬間、スニエリタの顔がぽんと紅く染まった。かわいい。


「えっと……手、繋ぎましょうか……」

「そうだな、そうしよう」


 手袋越しに指を絡める。

 今さらながら、ほんとうに恋人同士になれたのだな、と思う。


 キスだけは何度もしていたが、なんというか今までの接触は互いの感情が先走って起きていたものばかりだった気がする。主に自分の。

 初めて両想いだと確かめたあの日のキスと同じように、こうして望み合って触れるのはまた格別な感動だった。


 歩きながらスニエリタを見る。

 彼女はちょっと恥ずかしそうに俯いていて、それなりの身長差があるものだから、ミルンからはほとんど後頭部しか見えない。

 そのつむじの形すらかわいいと思う。そして猛烈に撫でたい。


 撫でるといえば、と思い出して、ミルンは急に足を止めた。


 スニエリタが不思議そうにこちらを見上げる。その顔もめちゃくちゃかわいい。

 なによりその大きな瞳に、自分だけが映っているというのが心地いい。


 ミルンはスニエリタの頭に空いている右手をぽんと置いて、息を吐いた。


「すっかり忘れてたけど、頭を撫でるっていう約束。

 カジンの試験と、アルヴェムハルトとラグランネの試験、あとヴァルハーレとの決闘でもめちゃくちゃがんばってたから、まとめて五倍くらいで返していいか」

「……はい!」

「ところでその……撫でられるの、好きなのか? こんな約束をとりつけるってことは」

「変、ですよね、やっぱり……。でも、あの、わたし」


 頬をぽうっと赤らめて、スニエリタは小さな声で続ける。


「撫でられるのも、撫でてくださるミルンさんのお顔を見るのも、どっちも大好きなんです……」


 そう言われた瞬間、ミルンの中で何かがぷつんと鳴った。どこかで何かの糸が千切れた。

 ミルン自身がそれの正体を見極める前に、ひとりでに身体が動いて、スニエリタのくちびるを奪っていた。


 スニエリタも驚きながら応えてくれる。

 ミルンが彼女を抱き締めれば、彼女もミルンにすがりついた。


 こんなに熱っぽいキスは初めてだ。

 離れがたくて息継ぎもおろそかにしながら、しばらくそうして甘ったるい幸福に没入してしまった。

 とうとう息ができなくなってようやく口を離し、呆然と互いの顔を見つめ合う。


 スニエリタのとろけた瞳の中に、欲望をむき出しにした己が映っているのを見て、ミルンは少しぞっとした。


 理性が飛んでしまっていた。

 というかまだ完全には手綱を取り戻しきれてはおらず、スニエリタの恍惚に滲む眼差しにすぐまた狂いそうなミルンがいる。


 ミルンは努めて深呼吸しながら、スニエリタの腰にまわしていた手を離した。

 途端にまた足元がずるりと沈む。

 それはそれで避けなければいけないので再び手を握り直し、ふたりは妙にぎこちなく、進もう、と互いに口にした。


 これは思っていたよりも困難な旅になるかもしれない、とミルンは思った。


 両想いになってしまったぶん、自身を咎める気持ちが薄れてしまっている。

 スニエリタもミルンが触れることを全面的に受け入れてしまう。


 しかし手を繋いだりキスするくらいならまだしも、このままでいると、そのうちそれ以上のことをしてしまいかねない。


 ミルンはまだ彼女の正式な婚約者ではないのだ。

 けじめはきちんとつけなければ。



 それからは黙々と歩き続けた。


 そうして何時間か経ったころ、ふたりの視界に廃墟らしいものが見えるようになった。

 点在する岩や石は、どことなく人工的な形状を残しているが、多くが樹や苔や蔦に呑まれてしまっている。


 専門家ではないミルンには、それらを見て具体的に何年ほど経過しているのかを測ることはできないが、とにかく相当な昔であるのだけは確かだと思う。


 家屋の跡と思しきあたりには、風化によって砕けた石器の破片らしいものが散らばっていた。

 紋章がないのは当然としても、生活形式も文明もあまりにも古いうえ、石以外の素材を使った品が何ひとつ見当たらない。

 人が住んでいたのだから、家屋はもちろん、衣類や寝具、調理器具などもあったはずだが、そのどれもが既に形を失ってしまっている。

 朽ちやすい植物や動物由来の素材などだったにしても異常だろう。


 大陸の最南端で、一年を通して気温と湿度が高く、保存状態が悪かった。獣に食べられた。

 など、原因はいろいろ考えられるが、それでもすっかり完全に無くなっているというのは、それだけ永い年月が経過したからではないだろうか。


 だいたい主な道具が石器という時点で、大陸史的には千年以上昔だということになってしまう。

 他の国との交流を絶ったせいで文明が停滞してしまったのだろうが、そうだとしても古すぎる。


「……静かですね」


 スニエリタがぽつりと呟いた。

 密林は静まり返っていて、ほとんど獣の鳴き声もしない。


 これではまるで結界のようだとミルンは思った。


 もちろん生い茂る樹々の狭間から覗く陽光で、きちんと時間が経っていることはわかっているし、獣だってまったくいないわけではない。

 だが、イキエスの同じような密林と比べれば天地ほどの差があるだろう。


 ここはあまりに静かで、時間が滞っているかのようだ。


「……そろそろ昼だな。けっこう歩いたし、休憩して飯にするか」

「そうですね。……あ、手を繋ぎながらだと、ちょっと食べにくそうですけど」

「他のところでくっついてればいいだろ」


 というわけで集落の端の大きな岩をベンチ代わりに、ふたりは並んで腰を下ろした。

 できるだけスニエリタにもたれかかるような姿勢でいてもらい、急いで食事を済ませる。


 もちろん紋唱術が使えないので、持ってきた食事を温めたり焼いたりできず、冷えてぬるいスープは想像以上に美味くない。

 思った以上に不便だなと少しうんざりしたところで、ようやくクリャが戻ってきた。


 神はべったり密着しながら食事をするふたりを見て鼻で笑った。誰のせいだ。


 幸か不幸か、クリャが合流してからは手を繋がなくても大丈夫だった。


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