156 虐げられた運命
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アンハナケウに
ここはいわば、大陸のすべての神が力を寄せ集めて創った結界のようなところだからだ。
中に留まっている身動きのとれない神々にとっても、永遠に暮れることのなさそうな空と、薄明かりを散らす星々からは、外の時間の流れなど知りえなかった。
全員がほとんど動かないので、風も起こらない。
冷たく凝った空間の底に折り重なって、たまに誰かが呻き声を上げるほかは、幸福の国と呼ばれた場所は静寂に包まれている。
ほんとうに、誰がそんな名をつけたのだろう。
ここから幸福なんて生まれたことなどなかっただろうに──そんなふうに思いながら、ラグランネは重い瞼をゆっくりと開く。
力は流動的なものだ。時おり半身を起こせそうなほど戻ってくるときがあるが、逆に眼すら開けていられない時間帯もある。
もしかしたらそれが外の世界の夜や昼なのかもしれない。
全員が復活できそうになるという瞬間もなくて、かなり個人差やばらつきがある。
その法則性を調べて反抗に活かすこともできるのではないか、なんてぼんやり思ってもみたけれど、今では継続して思考を続けることさえ困難だった。
ラグランネは視線だけを動かして、可能な程度で周囲を窺う。
まだ気絶したままのルーディーン。その周りには何人かの弱い女神が転がって動かない。
ヴニェク・スーはじっと地面を睨んでいる。
蹲るような恰好のサイナはまるで祈りでも捧げているようだった、仮にも自分が女神だろうに。
まとまらない思考の端で、ルーディーンがカーシャ・カーイに告げたことを考えている。
ドドに忠誠を誓い、慈悲を乞いながら、隙を見てみんなに少しずつ力の横流しをする──女神にしか実行できない案で、なおかつルーディーンにだけは絶対に無理な作戦だ。
誰かを騙すどころかまともに嘘もつけない、男も知らない彼女に、あのドドを欺くことなどできようはずもない。
……自分ならどうだろうと、ラグランネはさっきからそればかり考えている。
まず第一に、真っ先にみんなを裏切ってドドにかしずくというところが、なかなからしくていい気がする。
ラグランネならやりかねないとドドも思うのではないだろうか。
なんとなればすべての女神のうちで今までいちばんドドに媚びてきたのは己だろうという自負があるし、みんなへの慈悲を乞うくだりなど、いかにも優しい女を演じているふうに見せられるのではないか。
自分にはそういう役回りが合っているとラグランネは知っている。
それに、そんなことを他の女神には任せられない。
暴君の相手ならこの場の誰よりも慣れている。
こちらを見下ろす瞳の冷たさだとか、立ち姿がそっくりだと、戻ってきた男の姿を見て思うのだ。
もう名前も思い出せない旧い支配者のことを思い出してしまって、ラグランネの身体は自分の意思とは関係なしに震えて仕方がないけれど、それでも出にくい声を振り絞る。
「……ねえ、ドド、さまぁ」
なるべく甘えた調子で、できるだけ、ドドがいちばん好む高さの声で。
男としてのドドが女に何を求め、どういう仕草に悦ぶのかもよく知っている。何もこれが初めてではないから。
ドドはつまらないものを見るような眼をこちらに向ける。
喉の奥が引きつるけれど、それを見せないようにぜいぜいと息を吐いた。
息が苦しい。ドドを見て、あの腕で殴られるかもしれない、あの脚で蹴られるかもしれないという考えが止まらなくなる。
あいつならきっとそうする。
犯されながら頸を絞められたり骨を砕かれたり、ひどいときはこちらが簡単に死なないのをいいことに腹を裂いて臓物を引っ張り出されたなんてこともあった。
今でもそれらを鮮明に思い出すことができて、だからラグランネの本能が叫ぶのだ。
あいつに逆らうな、大人しく従って嵐が過ぎ去るのを待つしかない、あいつに──今はドドに──……。
「どうした、ラグランネ」
「あのね……うち、ドドさまの、……女に、なっても、いいかなって……」
「……さすがにおまえは物分りがいいな。安心しなさい、私は
ドドの手がラグランネの頬を撫でる。
震えて歯の根が合わないまま、ラグランネは精一杯愛想よく振舞った。
大きな手のひらは顎の下に触れ、そのまま首筋をなぞり、肩へと下りる。
ドドは薄い笑みを浮かべて鎖骨の上に被さっている布を摘んだ。
今のラグランネは人型をしているので当然衣服を着ているわけだが、ワクサレアの伝統的な衣装形式に則ったワンピースは、肩紐を外せば簡単に脱がされてしまう。
「や……やだ、ちょっと……」
泣きそうな声でそう言うと、ドドがじろりと睨んできた。ラグランネは慌てたように甘え声を作る。
「違うの、えっと……みんなが、見てる前で、なんて……恥ずかしい……」
「今さらじゃないか。おまえに恥じらいなんてもうないだろうに」
「そんなことないもん……ねえ、ドドさま、ここじゃ嫌。ちょっと離れた場所に連れてってぇ……お願い」
自分でも白々しいなと思わないでもなかった。
だがラグランネにだってまだ最低限の羞恥心は残っているし、それ以上に、そもそもここでそういう行為を始めるわけにはいかない理由がある。
それをドドに悟らせてはいけない。
ラグランネがその身を犠牲にしてでも守らなければいけないもの。
ドドを一刻も早くこの場から移動させなければいけない、ほんとうの理由。
ここまで誰もラグランネの行動に抗議の声を上げていないのも、きっとみんなその訳に気がついているからだ。
ラグランネは必死でドドに場所を変えてくれるよう頼んだ。
この広場の外でなら、彼の望むどんな行為でもしてやるつもりだ。
それで時間が稼げるのならいくらでもこの野猿の相手を請け負っていい。
──だからさっさとどこかに行って、彼が戻らないうちに!
「……なあラグランネ。アフラムシカとカーイがどこに行ったか、知っているか?」
ドドが笑い、ラグランネは青ざめる。周りから息を呑む音も聞こえた。
とっくに気づかれていた。
そりゃあ盟主がふたりもいなくなれば当然だが、戻ってきてから今まで言及がなかったので、そのかすかな望みにかけて媚を売ったのだ。
ラグランネがドドの相手をしているうちにどちらかが戻ってくることを祈って。
さすがに無謀な賭けだった。
でも構わない。一応、こうなることも計算のうちだ。
単にふたりが消えただけなら、ドドはすぐにその行方を追おうとするだろう。
だがラグランネのこうした余計な行動によって彼の思考と行動は少し変化する。
つまり、ラグランネがその行方を知って庇っていると推定して、尋問をしようとするのだ。
アフラムシカもカーイも、賢くて力も強い。こうしてアンハナケウから出て行ったこともそれを裏付けている。
そんな彼らを何の手がかりもなく捜すよりは、情報を掴んでいるかもしれない女を甚振るほうがよほど手間がない。
ドドの手がラグランネの頸を掴む。
懐かしい感覚だ、と頭の隅で自嘲する。
獣の前脚でなかったぶん、潰されるというよりは締め上げるというほうが近く、事実ラグランネの身体は持ち上げられている。
食いしばった歯の隙間から唾液混じりの最後の吐息が逃げて、もう次の息は吸えない。
これくらいでは死なないくせに窒息だけはするのが不思議だ。どうしてこんな身体なのだろう。
意識が完全に飛びかけたところで身体が地面に叩きつけられる。
誰かがラグランネの名前を呼んだ気がするけれど、その声の主を考え当てるような余裕はない。
「っあ、かはッ……がっ!」
頬を手の腹で勢いよく叩かれ、血の味が口の中にさあっと広がった。
服が裂かれ、脚を広げられる。もともと弱っていた身体に抵抗する気力などあるはずもない。
また殴られ、それから勢い余ってか、左足首を握り潰された感覚があった。
もう頭で痛みやらを処理する段階を超えてしまっていて、ラグランネは呆然としたまま一連の暴力を受けていた。
「おいドドやめろ、いい加減にしろ……! 貴様、ほんとうにッ……それ以上は許さんぞ……!」
「然様なことをしても無駄ぞ、ラグランネは何も知らん!」
ああ、庇ってくれる者もいるようだ。
そんな怒号が聞こえるのに気づいて、ラグランネの両眼からぽろぽろと涙が零れた。
こんな自分でも気遣ってもらえるなんて、意外とみんな、優しいじゃないか。
「か弱い女人を甚振るなど武士の風上にも置けぬ!」
「言っとくけど、アフラムシカやカーイがどこに行ったかなんて、この場の誰も知らないからな……!」
「とにかくラグランネを離してやってくれよ、頼むよドド……」
盟主や中堅どころの神々が、口々にドドを非難した。
彼らはまだそれほど労せずに口が利けるらしい。
そしてラグランネが受けている暴力が、そのうち自らにも降りかかることだと知っているからこそ他人ごとでは済ませないのだろう。
声を出せない他の神も、意識のある者はドドを睨むか、あるいはラグランネの惨たらしい姿からそっと眼を逸らしている。
しかしみんなの言葉はドドには届かない。
届くはずもない。
ラグランネは前髪の編んだところを掴まれて上体を引き上げられ、間近に迫ったドドの顔が、にたりと歪な笑みを浮かべたのを見た。
「……おまえを少し嬲った程度でこの反応の良さだ。いかにこの世が平和惚けしてしまったかよくわかるな。
だからこそ私はクシエリスルを手に入れようと思ったのだがね……。
もっと絶望を深めよう。
誰も私に逆らおうなどと思えなくなるように、できるだけ手酷くおまえを犯してみよう」
「ぁ……う……」
「全員の前で心から私に忠誠を誓えるか? そうすれば優しく
それもいいかもしれない、とふらつく頭で考える。
完全に当初の予定通りとはいかないまでも、どんな形ででもドドの側に入れてもらえるのなら、ラグランネの目論見を果たしやすくなる。
みんなには悪いけれど結果的には同じことだ。
──自由に動けるようになれば、ドドの体勢を崩すことができる。彼の眼を欺いてカーイを助けられる。
それさえできれば、ラグランネはそれでいい。
なんなら結果的に死ぬことになっても構わない。
どうせこの命はカーイに救われたようなものだから、彼に尽くして消えるのなら、それも運命だと受け入れよう。
皮肉なことに、それがラグランネの司るものだ。
運命と
「ち……か……」
誓います、と言おうとした。
血でねばつく舌が上手く回らずに、途切れ途切れの声でそう紡ぐのを、ドドは黙って見守っている。
それを誰かが阻んだ。
冷たい感触だった。
ラグランネはもう自分の足元を見ることすらできなかったが、代わりにドドがそれを見下ろして、無駄だとかどうとか嘲った。
ばりばりと耳障りな音が這い上がってくる。やがてラグランネの視界の縁にも、真っ白なそれの一部が見えた。
ラグランネを掴むドドの腕を、這うように覆う霜。
一瞬、愚かなラグランネは、カーイが戻ってきたのかと思ってしまった。
そんなはずはないのに。
そして、もしもそのことを正直に伝えたら、きっと彼はすごく嫌な顔をするのだろうな、とも。
彼──アルヴェムハルトは。
立ち上がることさえできない身体で這いつくばりながら、それでも妨害を止めるつもりがないらしい。
きっとラグランネの考えていることもわかっていて、それを止めさせようとしているのだ。
ほんとうに昔からお節介で、長いものには巻かれる主義のくせに、ラグランネのすることにだけは突っかかってくる。
黙って見ていればいいものを、今ドドに逆らっても死期を早めるだけなのに。
ドドは腕を振るって霜を払う。
そしてラグランネの腕を掴むと、アルヴェムハルトに向けて放り投げた。
すでにぼろぼろの身体が彼とぶつかって鈍い痛みに変わり、下敷きになったアルヴェムハルトの呻き声を聞きながら、自分は悲鳴のひとつも上げられなかった。
「思ったより動けるじゃないか。ラグランネを抱くより先におまえを喰ったほうがよさそうだ」
そう言ってドドが歩いてくる。
ゆっくりと一歩ずつ、地獄が近づいてくるのを見つめながら、ラグランネの意識はそこで途切れた。
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