125 切り株の拠点
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空気の匂いが変わった。
彼女が近くにいるとき、まるで春の柔らかな日差しに包まれたような心地がするので、待ち人が到着したことがすぐにわかる。
カーシャ・カーイは鼻をひくつかせ、ゆっくりとそちらを向いた。
碧緑の瞳と眼が合う。
ルーディーンは静かな足取りでカーイの隣まで歩いてくると、少し考えるようにしてから、少しだけ距離をおいて腰を下ろした。
銀灰のオオカミと純白の羊は、森の奥らしき場所にいる。
アルヴェムハルトとラグランネが共同で用意した試験用の結界の中、実際にそれらが行われている区画とは離れたところにある、人間的に表現するなら『観客席』とでも言うような空間である。
ここでふたりは見下ろすようにして試験の経過を眺めるのだ。ちょうどララキとスニエリタが立ち上がったところだった。
「進行状況はどうですか?」
「ラグランネが人間側に移った。今はアルヴェムハルトの捕獲方法を考えてる、ってところらしい」
「捕獲……そもそもどういった試験なんです? ずいぶん異様な景観の結界ですが」
「なんだ、ラグランネに聞いてねえのか?」
神々の視線の先で、ミルンがなぜか頭に女神を乗せた状態であれこれ考え込んでいる。
どうやらラグランネに遊ばれているらしい。
「端的に言えば、この結界を出ること。で、その方法を知るにはラグランネとアルヴェムハルトを捕まえなきゃならねえわけだ。まあ課題はそれだけじゃねえけどな」
「というと?」
「ただでは出られないのさ。それがこの試験の肝であり、試練というわけだ」
なぜなら──カーイは静かな声でその先を続ける。
その言葉が信じがたかったのか、ルーディーンが眼を見開いた。
風もないのに足元の落ち葉がふわりと舞い上がって、しかしすぐにもう一度地面に落ちる。
試験会場である森の中はおびただしい数のキノコが犇いている。だが、この観客席にはほとんどない。
わずかに樹の根元を賑わせている程度で、それもルーディーンの纏う気配によって一部は萎み、代わりに青い草むらへと変化しつつある。
この結界はカーイの森ではないし、ラグランネやアルヴェムハルトが本来持っていたものとも違う。
このためだけに試験官ふたりが一から創り上げ、森らしい体裁を整えた上で、この多量のキノコを配備したのだ。
手間と時間がかかったのも頷ける。
小道具にキノコを選んだのはラグランネだが、試験の大筋はアルヴェムハルトが考えたという。
キツネの神はそこまで試験に乗り気ではないように振舞っていたが、むしろ今までの誰より手の込んだものを出してきた。
内心では思うところが深かったのかもしれない。
ヌダ・アフラムシカが滅びかかっていることや、そのために呪われた民であるララキをアンハナケウに呼び上げてもよいものか、否か。
彼は性格上、多数派の意見に従いがちだ。
ラグランネに誘われなければ試験をやりたいとは言い出さなかっただろう。
もしかすると、ラグランネはそれがわかっていて彼との共同試験を申し出たのか。
何にしても、この試験は人間たちにとってこれまででもっとも困難なものになるかもしれない。
「どうしてそんな試験に……これまでとはまったく違う、なんというのか、意地の悪い出題ですね」
「どちらかというと今までのがヌルすぎたんだよ。
それに良くも悪くも、アルヴェは周りの意見をよく聞くやつだからな。もうこれがクシエリスルからララキたちに対する最後の試験になるかもしれねえ、となれば誰もが納得のいく、溜飲の下がるものにしなきゃあならん」
「たしかに、これまでは合格することが前提で用意されていた部分もありますが……原則があるから命を奪うことはできないわけですし」
「だろ。そういう点で俺は出題者からは降りてる。知力や体力を試すったって、結界の中で問えるもんなんざ、たかが知れてるしな。
何をどう試し測っても全員の納得する答えはない。
そもそも大前提として、アンハナケウに上げていい人間は存在しない。
人の身でアンハナケウに上げてくれなんて、本来なら死ぬほどの目に遭ってもらっても、あるいは死なれたって断わるべき話さ」
アフラムシカが絡んでいなければ、こんなことにはならなかった。
温厚で慈悲深いルーディーンでさえ、最初にララキに語りかけられたとき、アフラムシカの名が出なければ応じることはなかっただろう。
盟主にして提唱者である彼の消滅はクシエリスルにとっても重大な損失となりうる。
それを防ぐためには他に方法がない。
不便なことに、神同士では互いに呼びかけることはできても、一方の力で相手を操るようなことはできないからだ。
クシエリスルの全員がアフラムシカの復帰を望んでも、彼が自力で上がらない限り手出しはできない。
まだせめて彼が紋章をあの娘に託していなければ、アンハナケウに呼ばずとも枷を外すことも可能だったのだが、まるでアフラムシカはそれを拒むかのようにすべてをララキに渡してしまっていた。
あるいはそれが狙いだったのだろうか。
自身が消滅させられることは絶対にないと踏み、その前にララキが呼ばれることを予想していたか。
呪われた民の末裔をアンハナケウに上げることこそが目的で、あいつはわざと娘を殺さないで罰を受けたのか。
充分にありうる、とカーイは思う。
今カーイが握っている情報からはその意味も充分に汲める。
──ある意味アフラムシカこそが最大の裏切り者だ。
なんて、そんなことを隣の女神に告げたらどんな顔をされるだろうか。
軽蔑されるのはカーイのほうだろう。それにカーイ自身まったくの潔白とは口が裂けても言えないので、余計な追求をされないためにも今は黙っておくのが吉だ。
そんなことより、ララキはともかく残りふたりの人間はアンハナケウに上げる必要性がない。
この点はすべての神が同意するところだろう。彼らはただの人間で、たまたまララキと同行しているのでもろもろの試験にも参加している。
というか、当初はその中に紛れ込んでいるタヌマン・クリャの傀儡を見つけようとする側面もあった。
そして傀儡は既に彼らから離れている。
紋章こそ残されているが、容易に再利用されるような環境にはない。
もっと言えば傀儡にもされなかったカーイの民、ミルン少年がもっとも無関係ということになる。
スニエリタのほうがまだ監視の都合上ララキに同行させたほうがいいと思えるが、ミルンはそうではない。
人間側の視点でいうと、この少年こそが彼ら一行の精神的支柱になっているため、彼を離脱させるのは悪手になるわけだが、それは神には関係がない。
要するに、アルヴェムハルトはここでミルンを切り離したいわけだ。
彼単体では難しいなら、スニエリタも一緒に──仮にスニエリタがハーシに滞在することになった場合、クリャの処分が済むまで彼女の監視はカーイが請け負ってほしいと直接打診されている。
「カーイ、ひとつ訊いても、いいですか?」
「……なんだ?」
ルーディーンが、少し言いにくそうにしながらそっとこちらを見上げる。
泉のような瞳が不安げに揺れているのを見て、思わずカーイの胸はどきりと跳ねたが、何でもない素振りで続きを促した。
「その……我々が、裏切り者、と呼んでいる神のことですが……ララキを呼び上げてアフラムシカを復帰させるのに、何か妨害をしてくるのではと……あなたはどう思いますか」
「そっちか。いや、俺の考えだとやつにとっては不都合には当たらないから、堂々と歓迎するんじゃねえかな」
「まるでもう誰なのかわかっているように言うんですね」
「あくまで予想さ。ま、目的と小細工については多少見当がついてるってぐらいだな」
すらすらと嘘と真実の入り混じる言葉を吐く。
ヒツジの女神はしばらくカーイをじっと見つめていたが、やがてふいと顔を逸らしてしまった。
カーイがほんとうのことを話していないのに気づいたか、あるいは今の言葉がどれくらい信用できるのか測っていたのか、あるいは。
ほんとうは、違うことを尋ねたかったのか。
ラグランネと密会していたこと、それとこの試験の実施場所を提供したことと関係があるのかどうか、カーイとラグランネがどういう関係なのかを。
なんて、さすがに夢を見すぎだろうか。
あれ以来明らかにルーディーンの態度は変わった。
これまで以上に拒絶される覚悟をしていたカーイだったが、ルーディーンは感情的な態度を見せることなく、わずかに距離を置いただけだった。
そしてむしろ視線を感じるようにもなった。
生真面目な彼女からすればカーイの考えが読めなくて戸惑う気持ちが強いのかもしれない。
わからないほうがいい。
ヒツジを前にしたオオカミの心境なんて、知らないほうが幸せだ。
カーイは前に向き直り、ふたたび人間たちの悩む姿を眺めた。
またルーディーンがこちらを伺っているような気配を感じたが、どうせまた眼を逸らされるので、反応せずに放っておく。
見下ろす先には少女たちが、慌しく森の中を駆け回っていた。
: * : * :
「すれ違った?」
「うん。たぶんあたしが近くに来たんで逃げたって感じかな。見えなかったけどこう、風がびゅんって」
例によってララキは腕をぶんぶん振りながらその状況を説明してきたが、正直ミルンにはよくわからなかった。
彼女には客観的に伝えるという能力がない。隣のスニエリタもちょっと困った顔をしている。
なんにせよあまり有用な情報ではなさそうだったので、ミルンはこっそり溜息をついた。
良くも悪くも時間制限はない。よって地図作りにはいくらでも時間をかけられるが、それが完成したところでアルヴェムハルトを捕らえなければ永遠にこの結界から出られない。
逆に言えば、三人が試験を突破するまで二柱の神は付き合ってくれるということになるが、案外神とは暇なものなのだろうか。
ちなみに待っている間ミルンはずっと肩に鎮座したラグランネに頭を弄くり回されており、ぼさぼさだった髪を手櫛できれいに整えられてしまった。
「……いい加減下りてくれよ。俺も動きたいんだけど」
『う~ん、神にものを頼むときって、あなたいつもどうしてるのぉ?』
「はぁ……わかりました。どうぞわたくしめの肩からお下りくださいラグランネさま」
正直いらっとしながらも、やや棒読みな敬語でお願いする。両手も合わせた。
ラグランネは渋々といったようすで腰を上げ、そのまま背中を滑り台のようにして降りていく。
遊ばれている感じがすごい。
「ところでララキ、地図のほうは」
「それがあんまりひどくて頓挫しちゃった……。このあたりの樹をざっと調べてみた結果がこれなんだけど、たぶんゲルメストラの迷路より複雑なんじゃないかな、ここ」
「この切り株にだけはすぐ辿り着けるのが幸いですね……」
ララキが見せてくれた調査結果を見て、ミルンも思わずなんだこりゃと呟いた。
時間の感覚がないので気づかなかったが、どうやらミルンが待っていた時間は現実に戻せば半日かそこらはあったらしい、手帳の紙が足らなくなるほどの膨大な数の樹の情報が書き連ねられている。
しかも地図の雛形にあたる何パターンかの樹ごとの配置のメモは、すべて上から大きく罰印が書かれていた。
その脇にある走り書きに曰く、──通るたびに変化している、とある。
よく見れば配置メモの左上の樹はすべて同じ種類のものだった。
『カエデの樹、赤と黄色のまだらのキノコ』とある。
同じ樹にまつわるメモの枚数は軽く二十を越えており、途中で無理だと悟って戻ってきたらしい。
なるほど、これは地図など到底作れそうにない。
しかもこの無数のキノコの大繁栄によって、捩れた空間の切り替わる地点さえ曖昧というわけだ。
「永遠に続く迷路って感じだな。逆におまえら、どうやってここに戻ってこられたんだよ」
「そろそろ戻るかーって思ってちょっと歩くだけだよ。気づいたら切り株が見えるの。たぶんここが拠点ってことなんだろうけど」
「じゃあアルヴェムハルトを追い込むのもここしかないな。問題はそれをどうするか……結局どうやって逃げ隠れしてるのかもわからんし、罠なんぞ思いつかねえよ」
「じゃあ、もう難しく考えるのやめよう」
あっけらかんとした口調でララキが言い放ち、ミルンとスニエリタの肩をがっしと掴む。
「とにかく追い込むだけ追い込んでみればいいんじゃない? そんで逃げられないように取り囲んじゃうの。それだったら、見えようが見えなかろうが関係ないでしょ」
「開き直るなよ。だいたい取り囲むってどうやるんだ」
「うーん、全員が別々の方角から追い詰めてけば最終的に取り囲めないかな。どっちから歩いてもここには辿り着けるんだし。とりあえずスニエリタも探索の紋唱覚えてもらってさ」
「あっ……一応、知ってます。種類は違いますけど」
「お、いいね。
それじゃあさ、とにかくやってみて、ダメだったら違う方法を考えよう! 時間は幾らでもあるんだしさ!」
若干やけくその気配を感じたが、言わんとしていることはわかる。
この状況ではあれこれ考えても仕方がない。
ミルンとしてはその案に乗ってもいいが、気になるのはスニエリタである。
かなり上達してきているとはいえ、三人がかりで神を追い詰めるのに、彼女を戦力に数えるにはまだわずかに不安が残る。
追うというのはある意味積極的に相手を攻撃することであり、スニエリタの穏やかな性格とは相反する行動でもあるからだ。
空いている左手を伸ばし、スニエリタの肩を持つ。空色の瞳が驚いたようすでこちらを見た。
「かなり強気でいかないと逃げられる。できるか?」
「……は、はい。がんばりますっ」
「よし」
スニエリタが頷いたのを確認し、今度はララキとも眼を合わせる。
こちらはとくに会話も必要なかった。確認することは終わったのだ。あとは行動あるのみである。
三人は一旦離れ、切り株を中心にして互いに背を向けあった。
それぞれの指が宙に舞い、探索の紋章を描く。
切り株の中心にちょこんと座ったラグランネがそれを眺めている。
「……
スニエリタが緊張した声でそう唱えたのを聞きながら、ミルンとララキも探刃の紋を発動させる。
紋章はいつもどおり光を放ち、くるくると回る刃がある一方向を指し示した。
だが、ララキとミルンで同じ術を使っているのに示す向きは違っている。
一方スニエリタのほうは紋章の中心からぞろりと生えた光の茨が、樹の合間を縫うように伸び続けている。
「じゃ、またあとでね」
まずララキが飛び出していった。
さっきはミルンも屈んでいたので気づかなかったが、樹と樹の間を通った瞬間に彼女の姿が消え失せたのが見えた。
そこが別の空間へ繋がる門になっているのだろうか。
ララキを見送ってからも、ミルンはすぐには動かなかった。まだ立ち止まったままのスニエリタを見る。
離れていてもその手がかすかに震えているのがわかるようだった。
今までひとりで戦わせたことなどほとんどない、それどころか別行動といえば蘇るのは生き埋めの記憶だろう。
スニエリタの心情を思うにつけ、果たしてどう声をかけてやるべきか、ミルンは胸が塞がるような思いで考えた。
「スニエリタ、……前にした約束、覚えてるか」
やっと口から出たのはそんな言葉で、スニエリタが泣きそうな眼で振り返る。
「その……オーファトとカジンの試験。あのとき、穴の中で言ってたことだよ」
「っ……もちろんです。忘れて、ません」
「ずっとほったらかしにしててごめん。今度こそ、この試験が終わったら、あー……いいか、その、
「はい」
スニエリタはこくんと頷いて、そして、笑って、言った。
──お願いしますね。
ミルンも頷いた。
まるで花が咲いたようだと思った。
スニエリタの笑顔もそうだし、ミルンの心の中にも、何か晴れやかなものがさあっと広がったのだ。
それは初めは涼やかにミルンの心を吹き抜け、後から優しい熱に変わって胸の内をじんわりと温めた。
背筋をまっすぐ伸ばして彼女が歩き出すのを、ミルンはその姿が見えなくなるまで見ていた。
どちらかというと自分のほうがやる気を出してしまった気もするが、まあいい。とにかくやるべきはひとつだ。
ミルンは再び前に向き直り、手にした紋章の指す方角を改めて確認する。
さっきから変化はしていない。
燃えるような色をした樹々の中へと一歩踏み出すと、周りがざわざわと葉擦れの音でいっぱいになった。
目の前を金色の葉がさらりと吹き流されていった。
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