108 男たちの午後
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そのあとララキがざっくり説明してくれたところによると、ガエムトというのはすべての忌神の頂点にあたる存在らしい。
死者の神だけあってとても恐ろしい姿をしており、地底から轟いてくるようなおぞましい声で、つねに喰らうものを求めている。
より強いものを喰らって力を得ようとしているふしがあり、その対象は神さえ含む。
……なぜそんな恐ろしい神を渾名で呼んでいるのだろうか、と新しい疑問が浮かんだ。
聞くかぎり親しめる要素など微塵もなさそうなのだが。
ともかくララキは謎の視線について悪意のようなものは感じなかったとのことだったので、あまり気にする必要はないだろう、と結論づけたようだった。少なくとも彼女自身は。
スニエリタも額が冷たくなった以外の異変は感じなかったので、それだけで怯えるのも恥ずかしいかな、と思った。
でも、ほんとうに、大丈夫なんだろうか。
外の神でなくても、一見悪意を感じなかったとしても、もしかしたら怖い神である可能性だって、まったくないわけではないだろうに。
そんな不安が多少顔に出てしまっていたのかもしれない。ミルンがもう一度、スニエリタ、と声をかけてきた。
「なんかあったらすぐ言えよ。俺でもララキにでもいいから」
「……はい」
「あと微熱あるんなら一応休め」
「い、いえ、平気ですっ」
そういえば、そもそもそういう話から額を合わせることになったのだった。
一瞬忘れかかっていたのに、思い出した途端また頬が熱くなってきたので、とりあえずスニエリタはいそいそと部屋を出た。
しばらくミルンと離れて心を落ち着かせよう。
しかし洗いものはすでにロンショットが済ませてしまっていたし、寺院内の掃除はララキがやってくれていたので、やることを探すのにも一苦労だ。
修行中らしい僧侶が通りがかったので何か手伝うことはないかと聞いてみたりもしたが、すげなく首を振られてしまった。
もういっそ、町の外に出て紋唱術の練習でもしようか。
それはそれでいい考えに思えた。だが、まだ介護の必要な怪我人がふたりもいるので、あまり長い時間は空けていられないだろう。
もっともほとんどロンショットがいればどうにかなるので、スニエリタが彼らにしてやれることはあまりないのだが。
スニエリタは寺院内を見回した。
大きな鐘を天辺にぶら下げた塔があり、定刻ごとに僧侶がそれを衝くことになっている。
次に鐘が鳴るのは恐らく一時間後くらいだろうか。
それくらいならいいかな、と思いながらスニエリタは歩き出す。
一応まだ調理場にいたロンショットに外で少し練習してくる旨を伝えておいた。
門を出て広場を抜け、通りをまっすぐに進んで、町の外へ。
そこはヴァルハーレとロディルの戦闘が行われていたあたりで、今もその傷跡がまざまざと残っている。
水はほとんど干上がって水溜り程度にしか残っていないが、土は抉れ、煤が混じり、岩が転がっている有様だ。
こんな状態になるまで戦って、ふたりとも命には別状がなくてほんとうによかったと改めて思う。
……戻ったら、ヴァルハーレにももう少し優しくしてあげようか。彼だってひどい怪我をしたのは事実なのだから。
そもそもこの戦闘自体は彼が始めたものだが、ミルンの言うとおりロディルの側にも戦う理由があったのなら、どのみち争いは避けられなかったのかもしれない。
最後に立っていたのはロディルのほうだった。恐らく勝ったのは彼で、ヴァルハーレは負けた。
父に匹敵するほどの実力と言われているあの人が、見下していたハーシの術師に敗北を喫したのだ。
眼を醒ましてから物静かなのはそのせいだろうか。
ハーシ人に対する自身の態度について、少しは考え直してくれただろうか。
ミルンにも謝ってくれるだろうか。
少なくとも身動きのできない間なら嫌でもスニエリタの話に耳を傾けるだろうし、ララキに言われたとおり、改めて一言言ってみようか。
そんなことを考えながら紋唱の練習をする。
たまには地属性の術でも使ってみて、このめちゃくちゃになった地面をもう少し歩きやすいように直せたらいいなと思ったが、今のスニエリタにはそれはまだ難しい。
だが、難しいからといって、不可能というわけではない。地道に少しずつ土をひっくり返し、凸凹を平坦に均していくイメージで紋唱を続ける。
できると思って、できたところを強く想像しながら、何度でも。
そうすれば少しは報われるのだということを、ミルンが教えてくれた。
──ミルンのこと、どう思ってる?
ララキの言葉が脳裏に蘇る。未だにスニエリタは上手くそれに答えることができない。
ひとりの人間として尊敬している。それは間違いない。
術師としても、旅の仲間としても、彼のことを心から信頼している。
好意を抱いている、と表現することすらやぶさかではないのだ。
彼が穏やかな表情でスニエリタを見つめ、力強くも優しい手つきで頭を撫でてくれる瞬間は、スニエリタにとってかけがえのない至福の時だった。
マヌルドにはそんなことをしてくれる人はいないから、あの幸せをもたらしてくれるのはこの世でミルンだけ。
でも、これは果たして恋と呼べるものだろうか。
今は変に意識してしまっているからミルンを見ると胸がどきどきして、顔も赤くなってしまうけれど、もっと冷静になって考えたらどうだろう。
聞いたところではミルンには妹がいるらしくて、スニエリタに対する態度もそれに通ずるところがあるように思う。
ひとつだけとはいえ歳下だし、小柄だし、至らないところが多すぎるから、面倒見のよい彼からすれば妹の代わりみたいなものなのかもしれない。そう考えると彼の優しさにも納得がいく。
「……
何度目かの詩を唱えた声が震えていることに気づく。
これ以上考えてはダメだ、と思った。
結論を出してはいけない。
どちらにしろスニエリタはマヌルドに帰らなくてはいけないのだから、好きだとかなんだとか考えたって仕方がないし、むしろ色を着けたら余計に別れが辛くなるだけだ。
それならあと数日を、できるだけ今までどおりの態度ですごすほうがいい。
──帰らなくちゃ。
ただそう思った。すぐにあの部屋に戻って、それからミルンとララキと何か話をしよう。
なんでもいいから彼らの声と言葉をたくさん聞きたい。
でも、気持ちと裏腹に足が動かない。
込み上げてきた感情を処理するのに精一杯で身体が言うことを聞かないのだ。
泣いたって仕方がないと思っても、やっぱり別れを考えると辛くて頭がおかしくなりそうになる。
涙が溢れてとまらなくて、スニエリタはそのまま蹲った。
‐ ‐ ‐ ‐ +
片付けを終えたロンショットがヴァルハーレの元へ戻ると、彼は訝しげな表情で天井を睨んでいた。
怪我人を並べている堂の前には庭が広がっていて、今はそちら側の引き戸をすべて開け放っている状態だったので、寝たままでも庭木や空模様がよく見えただろう。
だが、ヴァルハーレの視線は外へは向けられてはいない。そこに少年たちがいるからだろうか。
ミルン少年はもう立ち上がるには支障なく、多少歩けるまでに回復している。今は体力を取り戻すために庭を歩いているようだ。
窓の外に縁側がせり出していて、そこにララキが腰掛けて彼のようすを見守っている。
その隣にスニエリタの姿がないことに驚き、しかしすぐ、紋唱術の練習をするために外へ行くと言っていたことを思い出した。
てっきりララキあたりと一緒に行くものと思っていたが、まさかひとりで出て行ってしまっていたとは。
この町は治安も悪くなさそうだが、それでもスニエリタの身に何かあってはまずい。彼女には身を護る手段がほとんどないのだ。
ロンショットは一旦ララキのところへ行って、スニエリタを探してきてもらうように頼んだ。
「町の外、と言われただけで具体的にどちらに行かれたかはわからないのですが……」
「探索紋唱は知ってるから大丈夫だよ。わかった、行ってきまーす」
どうやらスニエリタは、ララキたちには外へ行くことを言っていかなかったらしい、と少女の反応を見ながら思った。
ララキはすぐ立ち上がって紋唱を始めたので、それに気づいたミルンがゆっくり歩いてくる。
そちらはそちらに任せることにして、ロンショットはヴァルハーレたちのところに戻る。
昼食からだいぶ時間も経ち、そろそろ喉が渇いただろう。
調理場から水差しと茶器も持ってきている。
ヴレンデールではマヌルドでよく飲まれるような豆珈琲は手に入れにくいが、代わりに茶葉は安くて市場でも豊富に取り扱われている。
一旦濃く煮出した茶液に冷水を注ぎ、砂糖と香辛料で味を調える。
こうした飲みかたはこの寺の僧侶に教わったもので、ヴレンデール産のお茶は単体では癖が強いから、外国人が飲みやすくするにはこれがいい、と言われた。
もっとも、この淹れかたをヴァルハーレはあまり好まないようで、飲みながら渋い顔をしている。
文句を言わないだけ我慢はしてくれているようだ。
最初は何も足さずにそのまま出して、そのときのほうがずっと嫌そうな顔をしていたから、たぶんこちらのほうが多少はマシなのだろう。
ちなみにロディルは嫌がるどころか満面の笑みである。好みであるらしい。
「……薬を飲んでるみたいだ」
ヴァルハーレがぽつりと呟く。香辛料の中には生薬として使われているものもあるから、ある意味当たりだ。
「実際身体にはいいだろうね。僕らみたいな怪我人にはちょうどいいんじゃないかな」
「……独り言だ。勝手に返事をするな」
「それは失礼。……ところでロンショットさん、お茶はまだありますよね。うちの弟にもお願いします」
「ええ、もちろん」
庭を振り返ると、ミルン少年の丸まった背中が見えた。ララキはもうスニエリタを探しに行ったようだ。
ロンショットが彼のぶんのお茶を注ぎ始めたと同時にミルンは立ち上がる。身体を動かすことを再開したのだ。
今はララキと一緒に出て行くことはできないが、代わりにできることをする、といったところか。
その背に向かってロディルが声をかける。
「ミルシュコ、ちょっとこっちにおいで!」
「縁側まで持って行きますよ」
「いいえ。今は自分の足で歩かせたほうがいい。あいつを甘やかさないでください」
にこりと微笑んで言う姿に、兄弟とはそういうものか、とロンショットは頷いた。
自分にはそういうものがないのでわからないが、彼の言うこともまあわかる。
今は這うように縁側をよじ登っている弟の姿を、兄は穏やかな瞳で見つめている。
やがてまだ覚束ない足取りで辿りついたミルンにロンショットはお茶を差し出す。
茶器を満たす液体の色に一瞬ミルンががっかりしたような気がしたが、兄弟でも味覚は違うということだろうか。
ようやくロンショットも一口飲んで落ち着ける。お茶の元々の渋みを砂糖がぼかし、後味に香辛料の辛さが刺さってくるという不思議な味わいだ。
確かに最初はどんな飲みものだと困惑させられた味だが、慣れてくるとそういうものとして受け入れられるし、冷茶なので頭が冴える感じがする。つまりロンショットも嫌いではない。
男四人で並んでお茶を飲む、光景だけ見れば牧歌的である。
自分たちがマヌルド人とハーシ人であり、敵対に近い関係であることは、それぞれ怪我人を抱えている今は保留になっている。
だが、それはヴァルハーレの沈黙があって成り立っている。
ロンショットはスニエリタの言葉を全面的に受け入れ、ミルンはもともと彼女の側に立っている。ロディルは偶然居合わせただけである。
この状況に疑問を抱くのはヴァルハーレただひとりであり、今なお彼は何もかもについて納得してはいない。
意識が戻ってからしばらく、彼は静かに過ごしていた。だがそれもそう長くは持たない。
それを知らせるように、ヴァルハーレは口を開く。
視線の先にあるのはミルンだ。まだ飲み辛そうにゆっくりと茶を飲んでいる少年を睨みつけながら、彼は忌々しげに言葉を放つ。
「おい。さっきスニエリタとおまえたちは何の話をしていたんだ」
「……ん、あ、俺か? なんだよいきなり」
「いいから話せ」
かなり威圧的な態度だったが、少年は反発することなく頷いた。ただし、と続けながら。
「あんたのほうから話を聞こうとしたところは評価するけど、その前に幾つか俺からも条件がある」
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