103 獣は耳を欹(そばだ)てよ

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 誰も近寄ることのできない深い森の奥底に、カーシャ・カーイの寝床はある。


 色の暗い葉を茂らせた樹々に覆われたその場所の、わずかに開けて野草に覆われた地表から、岩を砕いて一本の根が覗いていた。

 そこから一枚だけ芽が生えている。光もろくに差さないその場所で、芽はこれ以上伸びることはなく、かといって枯れることもない。


 カーイはその根に自身の肉球を押し当てるようにしながら身を休めた。

 不必要に身体を動かすことは避け、いつか来る狩りの瞬間まで待たなくてはならない。


 しばらくして、彼の耳がぴくりと動いた。……聞こえる。


 根を通して、地の果てから、オヤシシコロカムラギの声がする。老木がカーシャ・カーイを呼んでいる。

 カーイは顔を上げ、芽を睨みながら返事をした。


「……どうしたジジイ。何かわかったか」

『結論から先に言うが、概ねおまえさんの予想どおりじゃ』

「つまり?」


 静かな声で聞き返す。


 この根はオヤシシコロが大陸全土に張り巡らせているの身体の一部で、こうしてどこかで触れていれば会話ができる。

 相手の声が聞こえるだけでなく、こちらの声も向こうに届くので、わざわざ出向く必要はないというわけだ。


 そうやってオヤシシコロと連絡を取り合うことができることは、恐らくカーイのほかにはパレッタ・パレッタ・パレッタくらいしか知らないはず。今のところいちばん安全な連絡方法なのだ。


『大紋章のことじゃがな。確かに細工した痕があったわい──細工をのう』

「……これで裏切り者が誰かは確定したな」

『ああ。しかし、わしでも注意して見るまでは気づけないほど上手くしておったぞ。あれで案外手先が器用らしい。

 それから、今のところおまえさんの指示した地点では外神の本体は見つかっておらん。むろん"最後の一点"を除いてじゃがの』


 カーイは身を起こす。背を伸ばす間も、肉球は根から離さない。


『さて、おまえさんはどう出る?』

「今やつを叩くとタヌマン・クリャを逃がすことになる。……時期を待つさ」

『それが賢明じゃな』


 そこで一旦オオカミは前脚を退けた。彼の耳はまたぴくぴくと動いていたからだ。


 今度聞こえてきたその音の主には覚えがある。あれは、森の木々を抜けてくる砂混じりの風が、行きずりに葉や枝を叩いているのだ。

 風はカーイの前でぐるぐると輪を描いて、そこからひょいとフォレンケが飛び出した。


 金毛のヤマネコはきょろきょろと辺りを見回して、あれカーイ誰かと喋ってなかった?と不思議そうな顔をしていたが、独り言だと断っておいた。

 どのみちフォレンケにオヤシシコロの声は聞こえなかったはずだ。そして彼に聞かれていい話ではなかったから、とりあえず今は伏せておく。


「それより何の用だよ、朝っぱらから」

「あ、そうそう、さっきララキから相談を受けたんだけど、まずカーイの意見を聞こうと思って。

 ララキと一緒にいる、クリャに紋章をつけられた子がマヌルドに帰るかどうかで揉めてるらしい。で、彼女はペル・ヴィーラの民なんだよ。まだヴィーラが潔白かどうかわからないから、一応止めたほうがいいと思うんだけど」

「ああなるほど。ていうかそれ、仮にヴィーラがこっち側としてもダメだろ。あいつに止める気があんなら、そもそも自領の女の身体を乗っ取らせてねえよ」

「……だよね」


 フォレンケは苦笑いしながら頷いた。ペル・ヴィーラの怠惰な性格は誰しもが知っているし、だいたいみんな一度はそれで迷惑を被ったことがある。


「じゃあやっぱりボクらが介入するしかないかなあ」

「あいつら今はオーファト領だろ。どのみち北に向かってんなら、俺が直接出向いてやるよ」

「いいの? ……いやカーイがじゃなくて、クシエリスル的に大丈夫なの、それ?」

「ヴニェクあたりには文句言われるだろうな。まあ、どのみちラグランネとアルヴェが試験をしたがってることだし、あいつらも三人いる想定で準備してるだろうからってのと、場所は俺が貸すことにしちまったから……」

「へえ、また随分太っ腹な。……前から思ってたけどカーイってラグランネにけっこう甘いよね」

「……女は敵に回さねえほうがいいってこったよ」


 カーイが遠い眼をして答えたので、フォレンケもそれ以上追及はしてこなかった。


 女は、というか、ラグランネという女神は敵に回さないほうがいい。

 ある意味大陸じゅうにあの女の肩を持つ男がいるし、たぶんカーイ以外にも弱味を握られている神はいるだろう。


 だが、今回に限ってはラグランネを利用できそうだ。彼女の希望に沿うようにしただけと言い張らせてもらおう。

 それでヴニェクやドドが納得するかどうかは、あとはもうカーイの弁舌次第だ。

 まあドドに関しては女には甘いからたぶんいける。


 それより、カーイには別の懸念事項があった。


 悩ましいところだが、今はこのヤマネコに頼るしかないと思われる。

 大変に癪だが仕方がない。


 頼みたくもないことを頼むというのはなかなか言葉にもしづらいもので、喉の奥に引っ込もうとする言葉を、カーイは無理やり引っ張り出すようにして話を振った。


「あー、ところでフォレンケ。……とりあえずこの件、他の奴らには事後報告で済ませるとして、先に……ルーディーンには、おまえから伝えておいてくれ。オヤシシコロとヴィーラには俺から話を通しておく」

「……え? なんで?」

「なんでって、いいだろ地理的にはおまえのほうが近いんだし」

「いやその、そりゃもちろん構わないけど……ヴィーラのが遠いし、ルーディーンには今までどうでもいいことでも絶対自分で言いに行ってたから、急にどうしたのかと思ってさ。なんか顔合わせづらいようなことでもあったの? ……へぶっ」


 こういうところで無駄に聡いフォレンケが顔を覗きこんできたので、容赦なく横っ面に拳を突っ込んだ。


 大して力は入れなかったが、不意打ちだったせいもあってかフォレンケはそのままこけて地面に突っ伏し、すぐに跳ね起きて抗議の声を上げる。


「何すんだよぉ!」

「ムカついたんでつい」

「も~……こんなことならカーイの肩なんか持たなきゃよかった」


 フォレンケはぶつぶつ言いながら尻尾を振るった。


 いつ肩を持たれたのかさっぱり記憶になかったカーイだが、どうやら追求する暇はないらしい。ヤマネコはとっとと砂風とともに消えてしまった。

 まあこちらも追求されないのならそのほうがいいからと、あえて引き止めないでおく。


 それともカーイが聞かれたくなさそうだと悟ってわざとすぐに帰ったのだろうか、と一瞬思ったが、そこまで気の利く男ではないような気もする。


 ともかくこれでよし。


 どうせこれからカーイがとる行動について、クシエリスル内で問題になってアンハナケウで弁明する羽目になるだろうから、ルーディーンと顔を合わせるのはそのときに持ち越しておく。

 今は下手に言い訳をするより、時間を置いたほうがいい。


 きっと会ったらカーイは冷静でいられなくなる。

 彼女の前であまり無様な姿を見せたくはないし、恐らく奥ゆかしいルーディーンのことなので、あの日のことをあえて口にはしないだろう。

 聞かれもしないのにこちらからあれこれ弁解するのはいかにも滑稽だ。道化になる趣味はない。


 それよりも今カーイがするべきなのは、裏切り者の企みから彼女を守る手段について考えることだ。


 正直クシエリスル自体はどうなっても構わない。もともとあんなものは自衛も覚束ないような弱い神のための施策で、カーイら盟主にとってそれほど利のある仕組みではないのだ。

 ガエムトが野放しになるという点ではまずいが、フォレンケさえいればある程度の制御は利くのだから、幾らでも代わりの機構を用意する時間は作れる。


 それよりもルーディーンだ。

 裏切り者の狙いがカーイの想像どおりなら、やつは絶対に彼女を放ってはおかない。


 今はカーイの眼もあるし、もともと不可触さわらずの女神とまで呼ばれたくらい、ルーディーンには誰も手出しができなかった。

 彼女は生まれついての女神でカーイたちのような精霊あがりの成り上がり者とはわけが違う。

 ワクサレアがマヌルドとヴレンデールという大国に挟まれてなお現在まで広い領土を確保し続けてきたのも、そこにルーディーンという最高位の女神を拝してきたゆえだ。


 そんじょそこらの神では彼女に近寄ることすらできなかった。

 比喩ではなく、物理的に傍に寄れなかった。


 今はクシエリスルに組み込まれ、すべての神は原則同位の存在として大紋章に規定されているために誰でも彼女と言葉を交わすことができるが、かつてはそれすら考えられなかったことなのだ。


 かつてカーイが必死に力をつけたのも、なんとかして彼女に近づきたかったためだった。彼女と同程度の力と神格がなければ視界に入ることさえ叶わなかったからだ。

 喰おうなんて夢のまた夢、いち精霊の身分から北の雄と呼ばれるまでに、大陸北方から中央の一部まで神を皆殺しにする勢いで喰らい尽くさなくてはならなかった。


 そうしてようやく得たこの地位に、ルーディーンに触れるあと一歩のところで待ったをかけたのがクシエリスル合意である。

 疎みこそすれ守る気など毛頭ない……と言いたいところだが、なんだかんだで今日まで大人しくしていたわけだから、カーイも多少丸くなったらしい。


 彼女がアフラムシカなど他の男神の話をするのは面白くないが、それでも対等に言葉を交わしたり気安く肩を抱いて怒られるような日々自体は、正直あまり悪くない。

 だから当分この生活を楽しんで、我慢の限界がきたらクシエリスルをぶっ壊してルーディーンを喰ってしまおう。

 そのとき彼女にどう罵られても別に構わない、それだけのことを己はするのだから──それが、裏切り者の存在に気づくまでカーイが考えていたことだった。


 裏切り者のせいで、その計画はおじゃんになることが決まった。まったく腹立たしい。


 やつを潰してからのこともある程度は考えておかなければならない。

 だが、それより今はやつを破滅させることが最優先だ。ルーディーンに指一本でも触れられる前に始末しないことには意味がない。


 だから今は牙を研ぐ。来るべき狩りに向けて、慎重に。


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