100 悲嘆

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 ミルンが眼を醒ますと、心配そうな顔をしたスニエリタが視界に飛び込んできた。


「……あれ、俺……死んだのか……」

「ミルンさん! ミルンさん、しっかりしてください、生きてます! 生きてますからぁっ……」


 寝惚けてよくわからないことを口走ってしまったところ、スニエリタの眼からぶわっと溢れたものがあって、数滴ミルンの顔にも落ちてきた。

 それでようやくこれが現実だということが理解できた。


 えらくかわいいのが眼に入ったので、てっきり天国に着いてしまったものと思ったが、これは天使ではない。

 泣き虫のスニエリタだ。

 気弱で自分を卑下するところはだいぶ改善されてきていたが、この涙脆さは変わっていない。


「……ああ、悪い、どうかしてた、とりあえず泣くな。な?」


 なんとか上体だけ起こしてスニエリタを宥めながら、周りの状況を確認する。


 自分から見て右隣にララキ、左隣にロディルが寝かされていて、それぞれ手当てを受けていたようだ。

 ロディルの向こうに金髪の軍人も転がっていてそちらも同様。


 自分が気絶している間にスニエリタたちが消えている可能性もあると思っていたのだが、どうやら問題は先送りにされたようだった。

 金髪の負傷が思ったより深かったからだろう。彼とロディルはまだ意識がないようだし、ミルンより包帯まみれで見るからに重傷だ。


 ミルンが起きたのに気づいたララキも身体を起こす。こいつの場合元から包帯を巻いているのでどこが怪我なのかわかりにくい。


「なんだかんだで半日ぶっ倒れてたね。もう夜だって。今日はみんなで仲良くここで泊まりかー」

「ここは?」

「サーリ町内のお寺の中らしいよ。……で、ミルン、どれくらい動ける?」

「どれくらいって……よっ……あ、……あー無理だ立てねえ」

「あらら。それじゃあスニエリタを攫って逃げるのは無理そうだね」

「おまえな……」


 せめて当人が目の前にいる状況で言うのをやめろ、と言いたかったが、スニエリタがきょとんとしているのでやめた。変にツッコんでこの話題を拡げるのはまずい。

 だがララキは自重する気などないようで、スニエリタに何か伝えるなら今夜が最後だよとか、心残りがないようにしなきゃね、といった変に意味深な言葉を投げてきた。


 ララキどころかもうひとりのマヌルド軍人もいるような状況で何を伝えろというのか。


 そりゃあ、……今夜が最後のチャンスだというのは、まったくそのとおりだとは思うが、もともとこちらは伝えるつもりもないわけで。

 むしろ下手に知らせたほうが変な心残りを作ってしまう可能性すらあるのだから、それは無駄なお節介というものだ。


 なんだかあっという間だったな、とスニエリタを見ながら思う。

 できればもっと傍で見ていてやりたかったという気持ちも当然ある。

 せめてコミを呼び出せるくらいまでは見守っていたかったし、ほんとうに本音を言うなら、ジャルギーヤを呼ぶところをもう一度見たかった。


 あの大ワシを従えて佇む凛とした姿に憧れたのだ。もう一度、あんなスニエリタを見たかった。


 心残りなんかあるに決まっている。だが、それを言い出したらきっと踏ん切りなんて永遠につかない。


 だからどこかで無理やり引き離されるほうがいいのだ。

 自分たちだけできれいに見切りをつけられるほど、たぶんまだ大人にはなれていない。


 今までの思い出がふつふつと脳裏に蘇る。


 初めて出逢ったときのこと、彼女がマヌルド人だと知ったときの落胆に近い感情、フィナナの地下での思わぬ再会と敗北の苦味。

 そこから無理くりに掴んだ勝利、同行を願い出られたときの衝撃、そういえばあのころはまだ彼女を苦手だと思っていたっけ。


 そしてタヌマン・クリャの人形だったと知ったとき、砂漠に崩れ落ちる姿を見て、心臓が凍りつくかと思った。


 必死で身体を取り返したはいいものの死んでいると聞かされて、蘇生できるとわかるまでの間の絶望。

 息を吹き返してみればぜんぜん別人の大人しい女の子で、泣き虫で気弱で紋唱術がてんでだめで、これはもう当分は面倒を見てやらなきゃいけないなと妹を見るような気持ちになった。


 ああ、……頭を撫でてやるっていう約束も、まだ果たしていない。


 でももう無理かもしれないな、とララキと話しているスニエリタの後姿を眺めながら思った。

 そして、その背中を見て、はっとした。


 忘れていたがそこにはがあるではないか。たった一度だけ見てしまった、あの。


「おい、ララキ、スニエリタ……背中のあれ、大丈夫なのか?」

「は? ……あっそうか、印! タヌマン・クリャの!」

「そうでした……たぶんまだ消えてませんよね……自分では見られないのでわかりませんが」

「ごめん、ちょっと見せて」


 ララキがスニエリタをこちらに向かせてチュニックをぺろんとめくった。だから男がいる前でそういうことをするんじゃない。

 スニエリタもさすがに顔を赤くして震えているが、それより金髪の軍人の横に座っていた黒髪の軍人が驚愕の表情でこちらを見ているのが居た堪れない。

 すみません、大事なお嬢さんに不躾なことをしてほんとすみません。


 二、三秒してからララキが顔を上げて、くっきりはっきり残ってるよ、と言った。


「これが残ったままマヌルドに帰るのはやっぱりまずいと思う。マヌルドの神さまにこれのことが伝わってるかどうかもわかんないし、知ってても何かあったときにすぐ対応してくれるとは限らないもん。ハーネルのときだってあたしが呼ぶまでルーディーンは放ってたみたいだったし」

「だよな……たぶん俺らはクシエリスルの神に行動が監視されてるから、俺らと一緒にいる間はクリャも手出ししにくいだろうが……マヌルドの主神はペル・ヴィーラだよな? そいつがスニエリタをしっかり見守ってて、なおかつヴニェク並みに喧嘩っ早けりゃいいが」

「……神話からすると非常に温厚な神のようです……」

「それにヴニェクだってあたしが呼びかけて初めて反応したし、たぶん神さまって普段そんなに人間のこといちいち見てないと思う。あたしたちを監視してるってもだいたいどこにいるか把握してるくらいなんじゃない?」


「──何の話をしているんですか?」


 さすがにこちらの不穏な空気が気になったのか、黒髪の軍人がこちらに歩いてきた。


 三人は顔を見合わせる。話していいものか、そしてこの危機感が伝わるかどうか。


 それに信用されるためにはどうしたってスニエリタの背中を見せることにもなるだろう。背中を見せるということは、つまり服を脱がなくてはならない。

 さすがにそれを今ここでさせるのはなんだし、相手は男性だ。


 ミルンは返答に悩み、ララキは言葉を詰まらせたが、なんとスニエリタが口を開いた。


「わたしの背中に、外神が印を残していったんです」

「……なんですって? それは、その、……どういったものなのですか? 何か痛みがあるとか……」

「いえ、感覚はとくにありません。ただ、ヴニェク・スーという神が言うには、これはタヌマン・クリャがもう一度わたしを利用するための目印だそうです」

「あたしの身体にも似たような目的の紋章があるんだけど、なんていうのかな……これがあると、あたしたちがどこに行ってもクリャにはすぐわかるようになるらしいのね。探索系の紋章の逆みたいな感じかな。

 あたしのはある神さまが何年もかけて薄くしてくれたけどそれでも未だに完全には消えてないし、効果も残ってる」

「つまり、……それがあるかぎり、スニエリタさまがマヌルドに戻られても、ふたたび外神に操られる可能性があるということでしょうか? 神の力を以ってしても消せないということは、医学的に切除することも不可能なんでしょうね」

「そういうこと! お兄さん頭いいね……ていうかそんなすぐ信じてくれると思ってなかったけど……」


 ララキは驚いていたし、ミルンも同じ気持ちだった。

 いくらなんでももの分りがよすぎる。そもそもスニエリタがタヌマン・クリャに操られていたというくだりからして常人には信じがたいことなのに。


 軍人は微笑んで、お嬢さまは私に嘘を仰ったことがありませんから、とだけ答えた。

 確かにスニエリタの性格からしてそれはそうだったのだろうが、だからといってこんな荒唐無稽な話まで真正面から信じられるものだろうか。


 そういえばスニエリタも信じてもらえる前提で彼に話を振っていたようだった。

 この軍人と彼女の関係がどういうものかは知らないが、互いに個人名で呼び合っているし、もともとかなり親しかったのだろうか。


 なんか、……もやっとしてしまった。情けないことに。


 今まで勝手に、スニエリタのことを理解してやれる男は自分だけのように思っていたらしい。

 自分でも気づいていなかったが、この不愉快な感覚が意味するのはそんなところだろう。

 だからこんなに懐いてくれているんだと自分を納得させて、気持ちよくなっていたのだ。


 しかし、そんな恰好悪いことを考えている場合ではない。急いで脳裏から無駄な感覚を追い出して、今向き合うべき問題のほうを引っ張り出す。


 外神の紋章のことだ。スニエリタの背中に刻まれた、あの歪な模様。


 取り去る方法は今のところわかっていない。軍人が言うように、医学的に皮膚を切除して見かけだけ除去できたとしても、恐らく紋章そのものが消えるわけではない。

 外神に検知される効果は残るだろうし、恐らくまた浮かび上がってくるだろう。

 それにそもそも手術して取るには面積が広すぎる。


 ミルンやララキがそれに対して何かしてやれるわけではないにしろ、ララキを通じてクシエリスルの神々とやりとりができるという強みがこちらにはある。何かあれば神々に助けを乞うことができる。


 もちろんマヌルドは紋唱術大国なので、紋唱技術を医学に組み込んだ学問の研究が進んでいる。そちらの見地からなんらかの対策を打つことはできるかもしれない。

 なにしろスニエリタの父親は帝国将軍なのだから、財力もあればあらゆる方面に強力なコネもあるだろうし、娘のためにそれらを使うことを惜しむこともないだろう。


 だが、ララキの身体の紋唱をあのライレマ教授とシッカがふたりがかりで対処しても、未だに除去が完了していないという現実がある。

 マヌルドの医者がどれほど有能でもそう簡単に消すことはできないだろう。


 それまでにタヌマン・クリャが何かしてこないとも限らないわけで、そうなったら相手は人智を遥かに超越した神だ、軍人だろうがなんだろうが止める手立てはない。


 神に通じる巫女のような人物がマヌルドの教会にいるなら話は別だが、以前ミルンがマヌルドを通ったときに調べたかぎりでは、少なくともペル・ヴィーラの信仰地域ではそういう役職はないようだった。

 一応スニエリタと軍人にも確かめてみたが、ふたりも首を振った。


「東部のアルヴェムハルト天教区ならそういう訓練をした神官を置くこともありますが、中央はほとんどペル・ヴィーラ教会のみです。それに祭事にあわせて神託を請う程度ならまだしも、神の姿を直接見たり、言葉を交わすというような話は聞いたことがない。あってもそういうものは胡散臭い新興宗派ばかりですよ」

「……そうか、あたしって傍から見ると胡散臭いんだ」

「今ごろ気づいたのか。

 ……まあともかく、スニエリタをこのままマヌルドに帰さないほうがいい理由が増えちまったのは確かだな。かといって、じゃあ俺らと一緒にいれば安全かっていうと、そうとも限らないが」

「それにディンラルさんはともかく、他の人は信じてはくださらないでしょうね……仮にクラリオさんにも一生懸命お願いしたとしても……おふたりだけで国に戻ったら、お父さまはきっとすごくお怒りになるでしょうし……わ、わたしのせいで、何か罰を受けることになってしまうかも……」

「それは元より覚悟の上です。すでに私はヴァルハーレ卿に逆らってしまいましたから……彼はそれどころではないでしょうがね」


 黒髪の軍人は、まだ意識の戻らない金髪の軍人のほうに眼をやる。その隣で同じく倒れたままのロディルにも視線を遣っているようにも見えた。


 一応ミルンもあの戦いを最後まで見届けている。

 相討ちに近い状態ではあったが、最後まで立っていたのは兄だった。

 ミルンへの態度からしても、ヴァルハーレとかいう金髪は典型的な他民族を見下すタイプのマヌルド貴族のようだったから、ハーシ人に負けたことは相当な屈辱のはずだ。意識が戻ったら何と言うだろうか。


 結局、そのままミルンたちが夕食を摂るころになっても彼らは眼を醒まさなかった。


 スニエリタはララキの隣に布団を敷いて寝ることになり、黒髪の軍人は部屋の反対側で休むことにしたという。

 灯りを落とし、差し込む月光の他に照らすもののない薄暗くなった室内で、ララキが小さな声で言う。


「とりあえず、あたし夢で誰かに相談してみる。えっと……このへんだとオーファト? カジン? あ、カジンは忌神だから両方かな」

「大丈夫か? あんまり人の話聞いてくれそうになかっただろ、どっちも」

「まあ最悪フォレンケに繋いでもらって……あっちもそんなに頼りになるって感じではないけど、話は聞いてくれるでしょ。最低限マヌルドのペルなんとかいう神さまに話が通ればいいぐらいじゃない?」

「すみません、いつもおふたりを頼ってしまって……」

「いいの。スニエリタに関してはあたしが巻き込んだようなもんだし……あたしがイキエスでじっとしてたら、スニエリタは今ごろここにはいなかったわけでさ。

 ……じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


 まだ眠る時間には早いくらいだが、どのみち身体もまともに動かない怪我人だ。

 おやすみ、という言葉には、もう話しかけないでほしい、というような語感が含まれている。たぶん神に語りかけるのにそれなりの集中が必要になるのだろう。


 ミルンも視線を天井に向け、眼を閉じた。早く動けるようになるには休息が必要だ。


 この状況に至ってはもうあれこれ考えても仕方がない。

 向上しつつあるスニエリタの紋唱術のことも、彼女の背に刻まれた外神の紋章のことも、これから彼女を手放すにあたって不安がないわけがないが、もうミルンが手出しできる範疇を超えてしまった。


 スニエリタ個人のことを考えたら、引き止めるべきだと思う。あらゆる要素がそう告げている。

 だが、それ以上に上流階級の貴族であること、将軍の娘であるという肩書きのほうが彼女を縛る力が強い。


 それにミルンにだって軍人たちの立場はわかる。

 スニエリタを連れて帰ることが彼らの使命であって、それを達成しないことには国に帰ることなどできないだろう。

 罰がどうのという問題ではない。彼らの職業人としての矜持と名誉にも関わるのだ。

 手ぶらで帰ろうものなら、彼らは罵られる以上に嗤われることになる。


 誰にも何も無理強いはできない。

 それならせめて、彼女が国に帰っても平穏に暮らせるように今できるだけのことをするしかなくて、その手立てをララキが確認するのだろう。


 だから、ミルンには何もできない。


 薄闇の中で、かすかに聞こえる泣き声に気づいていても、それを止めてやる力はミルンにはないのだ。

 今は立ち上がることすらできないミルンに、やはりあの約束を果たすのは無理だった。


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