065 ふるさとの誇り
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三人は今日も今日とて紋唱車を走らせる。
このところずっとそうだが、今日は終わりが見えていることもあってだいぶ心持が違った。昼にはシレベニに着けるのだ。
精神的にも時間的にも余裕があったので、今日は少しスニエリタにも運転をさせてみた。
やっぱり最初はほとんど車輪が回らず、例によってスニエリタはごめんなさいを連呼していたが、そこでミルンは一計を案じた。
とりあえずスニエリタに紋章だけ描かせ、それに自分が手をかざして招言詩を唱えたのだ。
スニエリタが使う風の紋唱はミルンが知っていたものと異なる。
つまり今まで使ったことのない術だったが、紋章を知らないだけなので、描いてもらいさえすれば問題はない。
紋唱術の学校でも最初は先生に描いてもらった図形を使って練習するので、それと同じことだ。
果たして車輪は快く回転を始めた。
しばらく風を切ってなめらかに進んだあと、ようやく速度を失って停車に至るまでの間、スニエリタは両手で口を押さえてぽかんとしていた。
「……ほらな。紋章はちゃんと描けてんだよ」
「あたしやミルンが最初にやったときより速度も距離も出てたよ! 自信持って!」
うしろからララキがでかい声で激励を飛ばしてくる。正直うるさい。
「紋章には問題ない。で、俺が唱えたらきちんと発動した。じゃあ、もう一回、今度は自分でやってみな」
「で、でも……きっとわたしじゃ……」
「そこだよ、おまえの悪いとこ。やる前からダメだと思ってやってるよな」
「……ごめんなさい」
「それ」
いつもの口癖に、ミルンはびしりと指を差す。
何かにつけて、二言目には必ずといっていいほど出てくる謝罪の言葉が、そろそろ気になるを通り越して気に障ってきていた。
もちろんその裏の事情も感じてはいる。よほど故郷では叱られてばかりいたのだろうし、たぶん本人も言いすぎて感覚が麻痺している。
だが、そういう日常の部分から矯正していかないと、根本的な解決にはならない。
上っ面だけ取り繕っても、中身に芯が通っていなければすぐ元通りになる。
「そうやって簡単にすぐ謝るな」
「ごめ……え、ええと、あの、っ……」
「いいか、スニエリタ。ごめんなさいとかすいませんってのは自分を下げる言葉なんだよ。ほんとうに謝る必要がある場面以外では言うな。
自分じゃそんなつもりがなくても、そうやって言い続けてるうちに、自然と卑屈になっちまう。
紋唱にしたって、たぶんおまえは心のどっかで『どうせ失敗する』って思ってんだよ。紋唱術は思ったとおりの結果にしかならないんだから、失敗すると思ってやってりゃ、そりゃあ失敗して当然だ。
制御ができてないんじゃなくて、悪いように制御しちまってる状態なんだ」
言いながら、今度はミルンが紋章を描く。スニエリタのより線が荒く、流し描きの癖がついているので図形が少し歪だが、別に発動させるのに問題はない。
「これでやってみろ」
「え……」
「発動しなかったら、それは俺の描きかたが悪かったってことでいい。それともこれ、おまえが描くより下手だから、ちゃんと発動しないと思うか?」
スニエリタはふるふると首を振った。
そして泣きそうになりながら、口をきゅっと結びながらも、その手を紋章にかざした。
緊張しているのだろう、手が震えている。たぶん彼女にとってはかなりのプレッシャーがかかっている。
失敗したらミルンのせいになってしまう、と思っている。
だがミルンとしてはそれが狙いだ。
この少女にはまだ、自分を信じるための素地がない。そういう人間にいくら自信を持てと言っても仕方がない。
小さな成功の経験を積み重ねていくことでしか、自分自身に対する信頼を回復していくことはできない。
そして自分のために力を出せないのなら、無理やりにでも、人のために努力させるしかない。
人のためと言っても心から利他的な思考の人間でもない限り上手くはいかないが、スニエリタの場合、ミルンとララキは命の恩人のようなもの。
別に恩を着せたいわけではないが、多少後ろ向きでもいい、恩に報いなければならないという気持ちがあれば、一応はそれが原動力になるはずだ。
覚悟を決めるのに少し時間がかかったようだが、ようやくスニエリタは口を開いた。
「……翔華の紋」
紋章が光る。ごく淡い、緑色がかった金色の光だ。
車の内部で機巧がきりきりと軋み、駆動部に必要な力が行き渡って、車輪が動き出すまでの時間がなぜだかやたらと長く感じた。
だが、動いた。速度も距離も先ほどとほとんど変わらない、順調な走りだった。
「あ……み、ミルンさん、動きました……!」
「今、どういう気持ちでやった?」
「えっと……あの……、ミルンさんが描いてくれたから、失敗するわけにいかないって……思って……」
「そうか。ところで、自分が描いたときは、どうしてそう思えないんだ?」
「……え?」
「自分が描いたときは失敗してもいいわけじゃないだろ? 成功したほうがいいに決まってるよな。そのほうが俺やララキも助かるし、おまえだって失敗続きのままは嫌だろ? できるようになりたいよな?」
「は、……はい、上手になりたいです」
よしその意気で、もう一回。
そんなようなやりとりを延々続け、かれこれ一時間近く、スニエリタに運転がてらの紋唱術の練習をさせている。
はっきり言って術の発動に関してはかなりよくなった。
もちろん本人の自己卑下意識はそう簡単によくなりはしないので、まだまだ安定には欠けているのだが、それでも昨日までとは段違いにいい。
質のよい教育を受けてきたという下地があってこそだが、何より本人がとても素直だった。
ミルンの言葉をよく聞いて、一生懸命応えようとしてくれる。
指摘した口癖についても、何度も言いそうになりながら、そのたびぐっと堪えて飲み込んでいる。
確かな手応えにミルンも満足だった。いろいろ考えて、とりあえず妹に接するようなイメージでやってみたが、それが正解だったのかもしれない。
なんなら実妹より聞き分けがいいなとか思ったりしたが、逆にその素直さが、周りから浴びせられる棘のある言葉をもまともに受け取って飲み下させていたのだろう、とも感じた。
いつか別れるときまでに、そういう悪意をやりすごすことも教えてやらなければ。
そうだ。
旅の進展とは関係なく、いつか別れのときが来る。
彼女自身が帰ろうと思うか、それより先に迎えが来るかはわからないが、たぶんそう遠くはないだろう。
やり残しがないようにしたいとミルンは思っている。具体的に何と決めたことがあるわけではないが、とにかくスニエリタと別れるときに、何か後悔することがないようにしたい。
彼女の立場からして、家に帰ってしまったらもう二度と会うことはないだろうから。
何かを伝えきれなかったと思ったら、自分の性格からいって、それをずっと引き摺ってしまうと思うから。
「そろそろ休憩にするか。おーいララキ、運転代われ!」
「はいよー、でももうちょっとお願いする感じの言いかたしようねー!」
胸の内を暗い感情が去来したので、それを吹っ切るように叫んだところ、ララキも同じくらいうるさく返してきた。
普段はほんとうにただうるさいが、こういうときはありがたい。ただあまりに期待どおりの反応だったので、思わずちょっと噴いてしまった。
何笑ってんのと怪訝な顔をするララキと入れ替わり、後ろの座席へ。スニエリタもついてくる。
座るなりまず水を飲み、スニエリタにも渡す。
もう砂漠地帯は抜けているし、座席の周りは気温調節の紋唱が効いているが、やはり小一時間もすると喉が渇く。それに渇きを感じなくても水分補給はしたほうがいい。
「あの、……ありがとうございました、たくさんご指導いただいて……」
「大したことはしてねえよ。それにシレベニに着いたら、もっと安定するまでしつこく鍛えるからな。覚悟しろよ」
「……はい」
スニエリタはそこでふわりと笑った。
なんだかんだで蘇生してから初めて見る笑顔だった。以前の彼女を別人だと考えると、出逢ってから初めてと考えてもいいのかもしれない。
満面の笑みとまではいかなかったが、愛想笑いやつくり笑いなどではない、心から滲んだ微笑みだった。
なぜかそれを見て、ミルンの胸の奥はぎりぎりと痛んだ。感謝されたわりに嬉しくなかった。
どうしてだろう。
どうにか彼女の紋唱術の腕を、最低限一緒に旅をするに足るレベルに回復させようとあれこれ考えていたときは、こんな気持ちにはならなかった。
練習させるのも必要だからやったし、そこには多少なりとミルン自身の善意もあったはずだ。
まさか彼女がマヌルド人だから、笑ってくれることを喜べないのだろうかと、ふと思った。
そしてそんな発想を思いついたことそのものにひどく自己嫌悪した。
スニエリタはどちらかというと、口さがないマヌルド人社会で抑圧され傷ついてきた、言うなれば被害者の側なのに。
ミルンの矜持と偏見はそれさえも無視して上っ面のことだけで彼女を責めるのか。傷ついたままのほうが都合がいいとでも思っているのか。
だとしたら自分はなんてちっぽけな男なんだろう。
今さらながら、兄ももしかしたら似たような自責であの手紙を書いたのではないか、と思った。
ロディル自身に何があったかは知らないが、今のミルンはそういう気持ちだ。
今、自分が水ハーシ族として、あまりにも恥ずかしい人間だと感じている。
相手のことをいちいち人種や民族で捉えて考えて、妬んだり嫉んだりしている、そんな自分自身を許せない。こんな体たらくで自民族を誇りに思うのは無理だ。
もちろん水ハーシ族が悪いのではない。水ハーシ族であることを理由にして他民族への悪感情を正当化してしまうような自分が、まったく誇りとは真逆のところにいる。
など、あれこれ考えているのが顔に出たようで、スニエリタが心配そうな顔に変わった。
大丈夫ですかと聞かれたが、まさかほんとうのところなど言えるわけもなく、なんか今日は暑いよな、とか適当で説得力のない返事で誤魔化した。
──ジーニャ、俺も水ハーシであることを誇りに思えるまでは、里には帰れそうにねえや……。
内心で静かに自嘲した、そのときだった。
「あ、やばい!」
運転席からララキの悲鳴じみた声があがる。
どうしたと言おうとしたところで、紋唱車が一度大きく揺れたかと思うと、──宙を舞った。
一瞬何が起きたのかわからなかった。ミルンの苦手なあの浮遊感を一瞬だけ感じたあと、激しい衝撃とともに車体が地面へと還る。
勢い余って荷物が吹っ飛ぶのを目の当たりにしながら、自分は荷台の端を掴んでいたミルンは、スニエリタはそうでなかったことに気づく。
小柄な少女は荷物ともども車体から放り出される寸前だった。
不思議なことに、そのときはすべてがゆっくりと動いて見えた。咄嗟に荷台を掴んでいないほうの腕を伸ばし、スニエリタの肘を捕らえると、全力で自分に引き寄せる。
「……いって!」
スニエリタが倒れ込んだところで、ミルンは座席の角でしたたかに頭を打った。
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