西の国 ヴレンデール

044 迷道を抜けて

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 辺りがさあっと明るくなったのを見て、森から出たのかと思ったが、どうやらそれは少し違うらしい。

 きらきら光る道をもう少し歩いていくと、少し開けた場所に出た。


 周りはまだ樹々に囲まれているけれども、樹のひとつひとつが白金色に輝いていて、足元はぱりぱりと枯葉を踏みしめるような音がした。目の前にはきれいな白岩をきちんと切断して並べた祭壇のようなものがある。

 その上に、それはいた。


 大きな角を持つシカの姿をした神だった。

 彼がゲルメストラだろう。神のシカは人間たちの姿を見とめると、じっとこちらを見つめてきた。


 しゃらん、と鈴のような音がした。見たかぎりこの場にそれらしいものはなさそうだったが、そのあとも鈴の音は等間隔で鳴り、そのたびに場が清められていく感覚があった。


『……ひとりも落ちることなく、迷道めいどうを抜けるか。まあいいだろう』


 しばしの沈黙のあと、ゲルメストラはなにやら面白くなさそうな声音でそう言った。

 通りのよいきれいな男性の声だったが、内容と言いかたに妙に棘があったので、なんだかララキはむっとした。とはいえそれを顔に出すとまた迷路に戻されたりしそうなのでぐっと堪える。


 シカはそのあとも三人を眺めていた。ミルンを見て、ララキを見て、スニエリタを見て、しかし何を言うわけでもなく。


 なんなんだろう。迷路は抜けたのだから早く外の世界に返してほしい。

 そわそわしていると、ふいにゲルメストラは三人から視線を逸らし、独り言のようにぽつりと何か言った。地面へ向けて。


『なるほど、……これはガエムト向きの仕事だな』


 そう、聞こえた。


「それってどういう意味!?」


 ララキは聞き返したが、もう次の瞬間にはゲルメストラは消えていた。

 辺りを包んでいた柔らかな光も失せ、きれいな白岩の祭壇もなくなっていた。


 そこは、国境を越えようと入ったあの森だった。


 ただ入ったときはまだ昼だったというのに、どうも今は夜のようで、樹々の合間に見える空はすっかり暗くなっていた。

 吹き込む風に木の葉がざわざわ鳴って、時折フクロウらしい鳴き声が混じる。しかも前後を見回しても街らしいものは見えず、どうやら森のど真ん中に放置されたらしい。


 やっぱりゲルメストラとかいう神、あんまり好きになれないな、とララキは思った。あんだけ迷路を歩かせたんだからせめて森の外に出しておいてくれたっていいじゃないか。


 しかもである。結界の中はどれだけ歩こうが転ぼうが疲れなかったわけだが、今になってさんざん歩き回ったぶんの疲労と空腹が一気に押し寄せてきたのだ。

 つまり三人はその場に倒れた。


 とくにお腹の空き具合が尋常ではなかった。いったい外の世界ではどれくらいの時間が経ってしまったことになっていたのだろう。

 喉もカラカラになっていて、ミルンが震える手で描いた紋章からちょろちょろと湧いた水を、三人は枯れ草になったような気持ちで飲み下した。


 それからまだ震えの止まらない手で草粥をふやかして温めて食べた。干し肉なんかを入れる余裕さえなかったが、空腹という最高のスパイスを得た三人は一言も文句を言わずに一気に食べた。


 のちにミルンはこれを人生で食べた草粥の中でいちばん美味かったと語っている。


 どうにか飲むものを飲み食べるものを食べた三人は、そのまま木陰で倒れるように寝た。




 翌朝、ミルンはまだ陽が昇ってもいないうちに眼を醒ました。

 たぶん昨夜は寝るには早いくらいの時間だったのだろう。もはや記憶もおぼろげだ。まあ三人ともとりあえずは生きているからいいか。


 どうもまだ身体が重いな、と思いながら身を起こす。すると腹の上をずるりと落ちる感触がある。


 なんだ、とそちらを見ると、なんかララキとスニエリタが人の腹を枕にして寝ていた。

 おまえら何やってんだよ、とぼやきながらまずララキの肩を叩く。道理で身体が重いわけだ。物理的に。

 ララキがうーんと唸りながらも身を起こしたのを横目に見つつ、今度はスニエリタを起こす。


 その髪に手が触れて、思わず溜息が盛れた。素晴らしい感触だった。つるつるさらさらで、なおかつふわふわ。

 ミルンは兄として妹の髪を結ってやることが人生に何度かあったのだが、そのときの妹の髪と比べても抜群に触り心地がいい。


 あとから思えばミルンもまだ寝惚けていたのだろう。そうに違いない。

 気づいたらララキがやばいものを見る顔でこちらを見ていた。


「……何やってんの……?」

「何って、……ほんとだ俺何やってんだ!?」


 どうも無意識にスニエリタの頭を撫でくり回していたらしかった。はっとして手を退けると、スニエリタも困ったような顔をしながらそっとミルンから距離を置いた。

 なんか知らんが、……それを見てちょっと傷つくミルンがいた。


「わ、悪い……寝惚けてた」

「お……お気になさらず……わたくしも気にしませんわ……」


 めちゃくちゃ眼を泳がせながら言われるとなおのこと傷つく。


「とにかく朝ごはん食べるか早く街に出るかしようよ。食べるっても草粥しかないけど」

「街に出ましょう。さほど距離はないそうですし」


 スニエリタは即答だった。まあ昨夜ほどの空腹ではなくなった今、朝からあの草粥はお断りしたいという気持ちはよくわかるのでミルンも同意した。

 ララキはやや不満げながら、とにかく荷物をまとめて立ち上がる。


 なんの守りの紋唱もかけずに雑魚寝してしまったが、幸い何か盗まれたりなどしていなかった。

 そもそも若い女がふたりもいる環境で泥棒の類に遭遇していたとしたら、その時点でさらに他の犯罪にも巻き込まれるのは必至であるので、これはほんとうに幸いなことであった。今後はこのような危険な野宿は避けたい。


 そういえばスニエリタは初めての野宿となったが、案外大丈夫そうだ。


 三人は磁石を頼りに森を歩き、もちろんわけのわからない分かれ道などには遭遇することなく、ほどなくしてヴレンデール側の国境の街メトワに到着した。


 国境の街ではそのままワクサレアの通貨が使えるようなので、まず食堂に入って朝食を摂ることにした。

 ついでにミルンは店先の少年から新聞を購入したが、その目的はふたつある。まずはワクサレアで起きたという事件の情報を得ること。もうひとつはそもそも今日が何月何日なのかを知ることだ。


 結界から出た瞬間あれだけの疲労と空腹に見舞われたということは、それなりの時間が経ってしまったということに違いない。疲れと空腹以外に何か外見が変化していたりということはなかったので、そんなものすごい年月ということはなさそうだが。


「……どうも結界に入ってた間に一週間経ってたらしい」

「そんなに? ひえ~……道理でものすごくお腹が空いたわけだー」

「わたくし、あんまりにも眠いので、もう二度と起きられないんじゃないかと思いましたわ」

「ねー。あとあんなに急いでごはん食べるスニエリタ初めて見た。あはは」


 女子たちは楽しそうに笑いながら食べ始めたが、ミルンはそれどころではなかった。


 ワクサレアの事件の記事だ。ヴレンデール側の新聞ではあまり情報もないかと思ったが、事件が起きた場所が国境にも近い地域だったためか、思いのほか紙面を広くとってあった。

 エトー街道沿いのナベルという宿場町で、空からバラバラ死体が降ってくるという凄惨な事件だったようだ。


 どうもその死体というのが遺留品からマヌルド帝国軍のものと判明し、マヌルド側もそれについて肯定するような返事を出している。

 問題はなぜマヌルド軍の一部隊がワクサレアの領空を航行していたかということで、両国の間でも揉めているらしい。

 もちろんその部隊がなぜワクサレアの上空で全員死ぬようなことになったのかも不明だ。


 エトー街道沿い、というのが気になった。

 三人はそのナベルという町には滞在しなかったが、地図によればハーネルとガールの間に位置しているそうなので、事件発生と同時期にそのあたりを通過しているのは確かだ。恐らくこちらのほうが少し早かっただろう。


 そっとララキのほうを見る。呑気な顔で美味しそうにパンを齧っている。


 ハーネル近辺で暴れていたタヌマン・クリャの幻獣には鳥の類もいた。紋章を破壊してやれやれと思っていたが、まだ獣害が続いていて、たまたまそこに運悪くマヌルド軍が居合わせてしまったのかもしれない。

 だとしたら、外神はまた力を肥やしてしまったのか。


 それもマヌルド帝国軍となれば世界に名だたる紋唱術師の集団でもある。全員が一定以上のレベルで腕が立ち、しかも意思が統率されていて、絶対に逃げたりしないで最後まで立ち向かうのだ。

 タヌマン・クリャにとってこれほど都合のいい餌があるだろうか。


 ミルンは少し考えて、新聞をララキに向けた。

 少女はきょとんとしてそれを受け取り、そしてしばらく読んでみてミルンの意図に気づいたのだろう、その手は新聞を持ったまま震えて、そのまま握り潰してしまった。スニエリタも異変に気づいてララキを見る。


 ただひとつ意外だったのは、顔を上げたララキの表情は、恐れでも悲哀でもなかったことだ。


 ララキは怒っていた。口を真一文字に結び、憤怒の色をした眼で新聞を睨んでいた。


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