第七章 代表決定戦が始まる
「六、五、四,…」
マリが腕にはめたマリンタイマーを見ながらカウントする。私はジブシートを引けるように中腰で狭い船体の中で待ち構えている。
470ワールド第一戦が始まった。三十もの出場艇がスタートラインに並ぶ。といっても海の上に線が引いているわけでない。二艇の審判団ボートが作る仮想のラインを目指す。ベストスタートのために、場所とりと駆け引きを繰り返す。
一分前を示す旗が掲げられた。
マリは少しずつ、メインシートを絞ってゆく。シバー(風を流すようにセールを緩め、ヨットを停止させた状態)させていた470が力をみなぎり始た。
「三、二…」
私はジブシートを引き締ぼってゆく。
「一」
私達は一気に飛び出した。四十五度の風を受けながらセールが翼になる。力を受けた船が傾こうとする。
私はトラピーズハンドルを掴む手に力を込めた。ハンドルに半分ぶら下がりながら体半分を船外に振り出す。腹筋に力を込める。風の力で反対側に倒れようとする船の逆側に乗り出して、体重で傾きを潰すのだ。同じように、すべてのレース艇がトップを争って走り出した。第一レースの始まりだ。
「頭を取るよ」
風上の海面にさざなみが立ち始めている。
「いけます」
私はマリに叫び返した。
乱れのない風を受けて私達の船は一気に飛び出した。
とは言っても、まだ多くのヨットが横一列にでこぼこに並んで競い合っている。それが次のマークへのベストなコースを狙って狭い通路に集約されてゆくのだ。
「ジャパン艇、被せてきます」
「挟み撃ちにするつもりだな。け、なめんなよ」
マリが毒づく。左のセールの影に精密機械メーカーのロゴ入りセールが迫ってくる。
「キゥイ艇、前に出ます」
私達の先をニュージーランドチームが頭一つ伸ばしている。
「ギリギリまでこのまま行くよ」
マリが風の音に負けないように大声で伝えてくる。
「ジャパン タック(風上に向かって走行するために船の向きを変えること。ヨットは風向きに対し斜め四十五度の角度でしか走れない)します」
「まだまだ」
マリは指定海面ギリギリまで粘ってゆくつもりだ。私達のくたびれた470は一度スピードに乗ると速いが、立ち上がりが重い。だからタックの回数をなるべく減らして、スピードを稼いでおきたい。
「ジャパン、二番艇追ってきます」
マリに伝える。トラピーズでデッキから乗り出したライバルの顔が間近に見える。
「ヒメ、どうするつもりだょお?」
アンはすぐ後ろに迫ってくるかつてのチームメートの顔を睨む。
「奴ら二番艇を噛ませ犬にするつもりだな」
精密機器メーカーチームにとってエースを勝たせることが使命のようだ。だから二番艇は自分の成績を犠牲にしてマリたちを追いやろうとしている。その行為は規則違反だ。ヒメたちでなく、ハルもペナルティが及ぶ可能性がある。ハルほどの選手は絶対そのようなリスクは取らないはずだ。
ヒメだってわかってる。どうやら抗議はないと踏んだチーム監督の指示なのかもしれない。
ヒメたちもオリンピック代表を目指して必死にトレーニングしてきた。決して捨て駒になるつもりはなかったはずだ。彼女の気持ちを思うと気が重い。アンはその思いを首を振って振り切る。
一方、精密機器メーカーのもう一艇、ハルはスタボー(帆が左に出ている状態)でマリたちからぐんぐん遠ざかって行く。彼女たちはスタートに成功した。そしてギリギリの角度で風上のマークに向かって最短距離を突っ走っている。
速い。加速が違う。
「タックするぞ」
マリがこちらを向いた。目で合図する。少し早めだ。あとを追ってくるリンの船に悟られないように私も目で頷く。
「タック」
マリが息を拭きながらティラーを押しながら急速に船を回転させる。
「よし」
私は反対側から一気に船の中に飛び込む。
「ヒューン」
ブームが回る。大きな体を二つに折る。上目遣いに前を見ながらブームの下をくぐり抜ける。一気に逆サイドのデッキに飛び込む。トラピーズフックにハーネスを一瞬で引っ掛けた。体を伸ばして船を立てる。
「バーン」
乾いた音をたてて、絞り込まれたジブセールが完璧なシェープを形作る。
「キリキュリカリカリ」
マリがメインシートをコントロールするたびにメインブロックのラッチが連
続する音を奏でる。
「よっしゃ」
私達たちの船は一瞬で方向をポート(風上に向かって帆を右に出した状態)からスタボー(ポートとセールの位置が逆の状態)に転換した。そのまま完璧なフォームで一気に加速する。
私はちらっと後ろを見た。
「しまった」
という顔が見える。ヒメの船はあっという間に三艇身分引き離された。朝から晩まで、しびれるほど繰り返したトレーニングは体が覚えている。その成果がここで出た。
「次はオーストラリアをカモるぞ」
マリが伝える。
「はい!」
私達の先には黄緑色と黄色のロゴを貼り付けたチームが最初のマークに向か
って全速力で走っている。
「内側から刺すぞ」
マリがいう。
最初のマークが近づいてきた。
その時、私の視野に思いもかけない姿が入ってきた。
「奴らがきます」
逆方向からマークを目指してきたハルのセールがこちらに急速に迫ってくる。
すごいスピードだ。
このままで行けばマークあたりでクロスする。うまくすればオーストラリア艇は交差するハルの船を避けなければいけない位置関係になる。
マリはその動きをさらに予測して早めに仕掛けるつもりだ。一瞬タイミングを間違えると風を受けきれず、もう一回タックしなければいけなくなる。賭けだ。
マリの目が細くなる。
「マリさん、潮目が動いてます。早めいけます」
「いくぞ」
マリがさらに目に力を込める。
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