第七章 代表決定戦が始まる

 執印(しゅういん)をのせたタクシーは日本家屋の前で止まった。海を見下ろす逗子湾近くの山の中にある。よく掃き清められた門構えから屋敷へ打ち水がしてある。

「いらっしゃいませ。お連れ様は先にいらしています」 

 この暑さのなかに着物をきちんと着込んだ女将が執印を迎えた。

 反射的に時計を見る。十九時二十分。まだ約束の十分前だ。ホッとする。

 百々海(とどみ)は時間にひどくうるさい。遅刻でもしたら何を言われるかわかったものじゃない。

 そのままクーラーの効いた室内に案内される。どうやら会員制の割烹のようだ。

 二十畳ほどの和室に通される。片面からは芝生と港が遠くに見える。

 すでに座敷には三人の男が待っていた。

 日本セーリング協会の会長、審査コミッティー長、それに百々海(とどみ)の秘書だ。

 470ワールド前夜によくこのメンバーが集まれたものだ。


 俺は末席の空いている場所に座った。きっちり巻かれたおしぼりと汗を書いた麦茶のグラスがこの場所を表しているようだ。

「専務がいらっしゃいました」

女性が告げる

 大股で百々海が入ってくる。その後ろには白い開襟シャツを着た男性が続

く。軽く頭を下げる。

「さあ、明日からワールドだな。そうだ、彼は国土交通省の杉山君だ」

「杉山です。宜しくおねがいします」

 ビールが配られた。百々海が片手でグラスを掲げる。

「さて、今日は前祝いだ。明日からのレースでオリンピック代表が決まる。日

本のスポーツセーリングが新しい時代に入る。我々の繁栄を祝って、乾杯」

「乾杯」

 皆がグラスを上げる。

 俺にもだんだん話が飲み込めてきた。どうやら百々海は今度のオリンピッ

クに合わせてひと仕事するつもりのようだ。


 セーリング人口は減る一方だ。そのなかでオリンピックに合わせて大きなキャンペーンを精密機器メーカは行うつもりだという。江ノ島だけでない、湘南のハーバーの改革も行ってゆくという。

 保守政党も賛同しているらしい。

 というのは、かつて漁民たちが大きな票田だった。しかし今やMSC認証などの外圧により日本も水産資源の保護に取り組んでゆかねばならない。

 そのためには支持者たる漁民に犠牲を強いることになる。それを抑えるために海洋レジャーを普及させ、海浜リゾートを開発し、その利益を権利者たる漁民に回るようにしたいのだ。

 つまり、セーリング協会もヨットの普及を実現できる。政府もそれに利益を見ている。精密機器メーカは自社ブランドの向上ができる。それ以上に、セーリング普及の音頭をとることで政府関係に恩を売れる。大きなビジネスチャンスをものにする。

 三方とも得になる、そういう筋書きのようなのだ。

 そしてその重要なトリガーがオリンピック代表戦なのだ。

 精密機器メーカーヨット部の監督である俺は、自分の世界の外で起きている大きなうねりにすっかり飲み込まれていたというわけだ。


 宴会は小一時間で終わった。そして、用意された車でゲストたちは帰っていった。自分と百々海が最後に残った。車を待つ間に百々海が執印の肩に手をおいた。

「我々はオリンピック代表にならねばならない。そしてそれは皆のためなのだ

よ。オレは本気で汗を流そうと思っている。わかるだろう?だから今日、皆を

呼んだのだ。あとは勝利だけだ。わかっているだろう?」

「もちろんです。全力を尽くします」

 俺は力を込めてみた。

「全力だけじゃだめだ。力と知恵を使え。そのためのバックアップはする」

「ありがとうございます」

 他にどう答えればよいのだろう?これは明らかに不正だ。でも絶対表沙汰にはならないだろう。ヨット界のためでもあるし、地元の人達の利益にもなるのだ。

 非難されるいわれはない。

「よし、明日からレースだろう。よく寝て英気を養え」


そういうと百々海は俺をタクシーに押し込めた。

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