第七章 代表決定戦が始まる

「今日はなんだかアウェイな気分だな。」

 マリはレストハウスの影に見える大会事務局に向かって歩いて行った。事務局の入り口に大会のフラッグがはためいている。


「マリ」

 レストランの角を曲がった時に突然声をかけられた。ああ、懐かしい声だ。

「コーチ、久しぶりじゃねえか」


 大会事務局の陰から、中年の男性が歩み寄ってきた。よく日に焼けている。精密機器メーカーチームの銀色のジャケットが強い日差しの中で光る。右手にスピンポール(追い風用の帆であるスピンネーカーを支えるためのアルミ製の棒。これがないとスピンネーカーを広げることができない重要な器具)をぶら下げている。

「三年ぶりだ」

「あの時以来だからね」

「ふーん」

「なんだい?」

「監督っぽくなるもんだな」

「そうかね」

「いったいどういうコネで田舎のクラブのコーチからトップチームの監督にな

れたのかこっちが聞きたいくらいだ」

「きついね」

「オーナーは元気かい?」

「相変わらず口は減らないよ」

「あはは」

「あと少しでここにも来るよ。テンダーは彼女に任しているから」

「その前に退散したほうが良さそうだな」

「大会で監督同士が暴力沙汰はまずいよね」

「ところで、お前らすごい活躍みたいじゃないか」

「誰がいっているんだい?」

「セーリング協会の会長たちとちょうど話していたところだぞ。オリンピック

候補はお前らとおれのチームの一騎打ちだって」

「うちらは貧乏チームさ。あんたたちの様なスーパークラブにかかればひとひ

ねりだろ」

「なに言っている、お前の能力はコーチだった俺が一番良く分かってる」

「知ってるだろ。レースをはなれりゃすぐに錆びつくもんだ。あんたが教えて

くれていた時代とは違うよ」

「アンはどうだい」

 コーチが話題を変えた

「最高だよ、さすがあんたのところで、鍛えてきただけあるよ。レーザー乗り

では有名だったんだろう?読みも運動神経も抜群だよ」

「そうだよなぁ。うちのチームは用心しないといけないね」

「あんたのところ、470のスキッパーはハルなんだろ?」

「あぁ」

「じゃあ、盤石じゃないか。何しろ今のワールドランキング5位じゃないか。

日本人で年間チャンピオンを狙えるチームなんては初めてなんじゃない?」

「うちの百々海(とどみ)専務がわざわざ連れてきた逸材だからな。それに金もかけている」

 そう言いながら執印(しゅういん)は、ふと空を斜めに見上げた。6月の通勤電車のように今日の日差しは湿気と熱気を一度に溜め込んでいる。

 おもわず片手で額の汗を拭いながら、手にしたスピンポールでコンクリの地面をコツコツとつついた。

「ハルはすごいよ。きっと嵐が来たってレースの組み立ては変わらないだろう

な。監督の俺がいうのもなんだか、教えることなんて無いよ」 

「コーチ、老けたな」

「好き勝手にセーリングしている歳じゃないからな」

「チームのためか?会社のためか?」

「勝利を喜んでくれる人たち全てのためさ」

「柄でもないこと言うね」

「でもな、お前の力には勝てないかもしれない」

「あんたがなに弱気なことを言ってるんだ。らしくないぞ」

「相手を油断させるのも作戦のうちさ。覚悟しとけよ」

 執印は歯を見せて笑った。

「オーナーにもよろしく言っとくよ」


 また、風向きが変わった。マストトップに上がった大会旗が頭を垂れたと思

うと、逆方向にはためき出した。ああ、風の子が あそんでやがる。

「じゃあ、また、海面で」

 執印は 片手を上げて背中を見せた。バースの方にもどってゆく。

 あたしは、しばらくその後ろ姿を見つめていた。思い出したように振り向く。事務所の扉を押す。申請を早く澄まさねばならない。

 手続きが終わって事務所から出てくるとレストランのガラス越しに車椅子の

ジュンが座っているのが見えた。

「ジュン、驚いたよ?コーチが来たよ」

 あたしは声をかけた。

「うん、見てたよ」

「なんだよ、声をかけてくれればよかったのに」

「無理だよ。コーチはあのままでいい」

「……」

 あたしの声は音にならなかった。

「コーチ、なんて言ってたの?」

 と、ジュン

「全力で勝ちに来るってさ」

「そりゃやばいね。あの人、自分の利害が絡むと見境がつかなくなるからね」

「バレなきゃ何やっても構わない、ってやつだろう?」

「そう」

「新人戦の事だろう?」

「うん、まさか高校生の新人戦で買収なんて仕掛けるとは思わなかった」

「まったくだよね、あのあと、ホント恥ずかしかったよ」

「ちょっとは大人になっていたよ」

「へ〜、でも、気をつけなよ。もっとずる賢くなっているのかもしれないよ」

「あり得るね。でもね、うまく言えないけど苦しそうに見えた」

「どう言うこと?」

「なんだろうね、監督なのに監督じゃないみたいだ」

「選手が言うこと聞かない?」

「いや、 ハルはプロフェッショナルだ。問題はないと思う。でもその精密機

器メーカー のヨットクラブが バラバラみたいにみえるんだ。どうせ結果はわかりきっているのに、いったいみんな何のためにこんな暑い中でレースしにきてるんだろうね、なんて雰囲気をぷんぷんさせてたよ」

「気負い過ぎてるのかな」

「ちょっと違うようにもみえるなぁ」

「マリ、アンタは用意できてるの?」

「ジュンと話せたからね。あとは突っ走るだけだよ」

「行ってこい」


 ジュンが微笑む。レストランのガラス扉が開く。 乾いて 冷えた空気に湿った海の風がうねりながら飛び込んでくる。一気にヨットハーバーの一部となった。アンがこちらを不安そうに見つめている。

 あたしは作業を続けている470のところに大股でもどって行った。


「マリさん、誰かと話していたのですか?」

「うん?」

「いや、相手の方の姿が見えなかったので」

「あぁ、ちょっと電話していたんだよ」

あたしはポケットを上から叩く。

「そうですか、船の方、準備できました」

「よし、いくぞ」


 ヨットハーバーから見える海には、白い波が立ち始めていた。

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