第七章 代表決定戦が始まる
「アン、来たね」
近くのスペースではすでに精密メーカーのチームが艤装を始めていた。彼女たちのチームは大人数だ。コーチに気象状態をアドバイスするもの、そして記録係や報道関係者までいる。たった二人の自分たちとは大違いだ。
「ヒメ、久しぶりだね。いつ着いたの。お、その帽子、かわいいねぇ」
うわぁ、なんだか同窓会みたいだ。嬉しくなった。
「1週間前だよ。といっても通いだけどね」ヒメの実家は鎌倉だ。江ノ島から無理すれば歩いて行ける距離だ。
「そんなに早くから来ているんだ、どう、調子は?」
クラブにいた時自分はレーザーラディアルの選手だった、ヒメは470。だから彼女たちは一つのポジションを巡って争うことはなかった。それぞれで 頂点を目指す。そんな中で年齢も近く、うまがあったのがヒメだった。
「荒れた海面になりそうだね」
ヒメと話していると昨日までこのクラブにいたようだ。
「そうだね」
私にとってこれはちょっとし驚きだった。ヒメはアンにとってたった一人と言って良い親友だった。しかし、追い立てられるようにアンがクラブから去って以来、まともに話もしていなかったのだ。
自分にとって精密メーカーのチームから追われたあとの一年にあまりに多く
のことが起きた。ヒメは違ったのだろう。人はそれぞれの体験と印象によって
時間の流れが違う、私の視線の中に他のメンバーの姿が入ってきた。
「がんばってね」
剣呑な空気を察して私は話を終わらすことにした。ここでオリンピック代表が決まるのだ。仲良しだった友達も蹴落とさなければならない。
自分たちも早速艤装をはじめた。周りのライバル達と違って私達の船はあちこちに補修の跡が見える。デッキの滑り止めもハゲているし、セールも伸び気味だ。ハリヤード関連だけは新しいセットに取り替えてきた。それが精一杯だ。
そして、そのあまりに明るい銀色のワイヤーと金具だけが、強い日差しの中で輝く。くたびれた船のなかでちぐはぐに自己主張している。
「アン、どう思う」
マリがマストの傾きを調整している。
「今回はずっと強風と波が強いと思います。この気圧配置だと風向きも安定し
ないかもしれません」
「最後のレースまでかい?」
「台風次第ですね、もしかすると後半は波だけが高くなるかもしれませんね」
「やっかいだな」
マリは目を細めてマストトップの位置をたしかめている。
「よし、これで行こう」
マリはマストをむしろ後ろに倒すような設定にしたようだ。さらにサイドステイもきつめに張った。強風の追い風ではスピードを出しやすい設定だが、その分、ヘルムが難しい。だが、大きな波も予想される状況で、マリはこのセッティングが好きなようだ。
「練習セッションは午後一時からだっけ?」
「はい、でもオーナー、間に合いますかね」
「だめならテンダーなしで行くしかないな」
「私、オペレーターに話してきます」
「いや、スキッパーの自分が言ったほうが良さそうだ、私が行ってくるよ。」
マリがいう。
「ありがとうございます、じゃあ、お願いします。私はここで船を見てます」
息が詰まりそうな湿気にシャツがまとわりつく。
さっきまで少しははためいていた大会のフラッグも今は負け犬の尻尾のようにすっかり垂れ下がっている。
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