第六章 再び失われるクルー
「でも、もうわたし達のこと、なんとも思ってないんです。それを思い知らさ
れました」
「それは違うかもしれないな」
あたしは窓の外を見た。白い病室。銀色のアルミサッシ。その向こうには光が射し始めた白い雲と青い空。
「どうしてそう思うのですか?」
アンの白い顔に少しだけ赤みがさしてきたような気がする。
「マリさんもあの時の彼のこと、見ていましたよね」
「ああ、でも考えても見なよ、あれだけのことを聞きたくて、自分たちが負け
たチームにわざわざ話に来るかい?」
「本当に、疑問だったんだと思います。わたしも小さい頃、マリさん達のレー
スを父と見にいった記憶があります。父はすごく興奮してました」
「古い話だねぇ。でも違うと思うよ。彼はあなたが自分の娘だって分かってい
た。そして必死に見ないようにしていたよ。その辺はあたしの特技なんだよ。
日本人だろうが、外人だろうが何が大切で、何を心に思っているかどうかは見
抜ける」
「なんか怖いですね。でも、じゃあ何しにきたのですか?昔別れた娘をわざわ
ざ無視するためにやってきたって言うんですか?」
「会いたくてしょうがなかったんだろうね。だからあんなにおかしな態度を取
らざるを得なかったんだ。」
「わかりません、彼は子供の頃から変わってしまったように思えました」
「まともな親なら子供に対する思いは変わらないよ」
「そうなんですか。でも、わたし、何を目指してクルーをすればよいのかわか
らなくなっちゃって…」
「そうだね、ヨットはまだ好きかい?」
「はい、大好きです。これは、間違い無いと思います」
「じゃあ、それでいいじゃなか。それでもスッキリしないのなら、何のために
こんな思いをしているのかを発見するために乗り続けたらどうだい?」
「マリさんは何のために船に乗り続けているのですか?」
「これしかやることがないからさ。親父がよく言っていたよ。世の中は因果律
なんだって?」
「それ、何ですか?」
「生まれるってことは誰かに何かをもらったってことなんだよ。そして、世界
を平らにして死んでゆく決まりなんだ。だから、途中で借金をしたら最後には
返さなきゃいけない。そうしないと、みんなバラバラになってしまう。ほら、
スキッパーとクルーで船を立てながら走っているようなものだ。あたしは親父
を死なせ、ジュンをこんなにしちゃったんだよ。自己破産寸前の借金だらけだ。だから、彼らの望みを一生かけて実現して行こうと思っている。アン、あんたには悪いけど、それがわたしのモチベーションなんだよ」
「マリさん、でもそんなの背負っても何も、気を悪くしないでくださいね、何
も返ってこないじゃないですか」
「分かってるよ。でもね、借金は返すもんだ、ってね。呪文が頭の中で繰り返
されるんだ」
「呪いって…。マリさんはマリさんなんでしょう?お父さんも病気だったんだ
し、ずいぶん前のはなしですよね、自分の人生を生きるべきじゃないですか?」
「分かっちゃいるさ。さっきのあんたみたいにね。本当にわかっている、いや
理解しているだけで、分かっちゃいないのかもしれないね。でも、あんたが来
て、オリンピックを目指すようになって、その向こうに誰かが待っているよう
な気がしてきたんだ」
「誰かのために生きる呪い…わたしこそ目一杯呪われてましたね、危うく命落
とすとこだった」
アンが笑った。まるで初めて海に出た子供が浮かべるような、新しい宝物を発見できたような、だが穏やかな笑顔だ。
その顔は流れとなってあたしの心を満たしてゆく。
「あんたの体の血の半分はわたしの血なんだからね。ときどき調子がわるくな
るかもしれないが、それは勘弁してくれ」
アンは左手を見た。そこからは点滴の管が掃除機のホースのようにねじれながらのびている。自分の体から何かを吸い出そうとしているのか、それとも色々なものをおしこもうとしているのか、どっちかだ。
「おまけに二人とも傷物だ」
あたしは自分のひたいの傷をなでながら目を細めた。
あたし達はなんとなく目を見合わせて笑い出した。
クレゾールの匂いがする空気の中に、柔らかい枕の香りが溶け込んでいる。奥の窓から、ベッドのカーテンの隙間をたどって朝の光が彼らのベッドにたどりついた。
あたりはすっかり明るくなっていた。
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