第六章 再び失われるクルー

 アンの目が開いた。淡いブルーの瞳が確かめるように空中をさまよう。もしかするとベッドの上の何もない殺風景な空間には彼女だけが見える色々なものが詰まっているのかもしれない。

 ふと、アンがとなりにいるあたしに気がついた。

「マリさん、来ていたんですか」

「あたりまえだろ」

「ありがとうございます」

「それより、気分はどうなんだ?」

 アンは包帯がぐるぐる巻きにされた左手を見つめた。

「もう、大丈夫です」

 アンが続ける。

「先生から聞きました、マリさんの血がなかったら私、死んでたかもしれない

んですね」

「大げさだな」

「本当にすみませんでした」

「謝ることはないよ。あんたは私の大事なクルーだ」

「本当にごめんなさい、あの時は、もう真っ暗で、今まで信じてきたことがわからなくなって…もう、辛かったんです」

「あれ、お父さんなんだよね?」

「はい、十五歳の時に母親と離婚して、私は母親の方に残りました。彼は自国

に帰りました」

「なんで今頃やってきたんだい」

「彼はノルウェーナショナルチームの監督なんです。今回のワールドに合わせ

てチームをマネージしているのだと思います」

「そうなんだ」

「あの人はいつもヨットのことで頭がいっぱいです。それが原因で母親と別れ

たようなものなんです」

「そういうものなのかね。この辺り、ちょっと想像つかないけど」

「男親ってそんなものじゃないですか?」

「父はわたしが高校生の時に死んだよ」

「すみません、無神経なことを聞いてしまいました」

「いいよ、もう随分前の話だよ」


 あたしはちょっと言葉を切った。乾いたようなそれでいて粘りつくような雰囲気がある。病院の空気ってどうしてこうなんだろう。


「あたしが学校から帰ってたら死んでいたんだよ」

「え、事故かなんですか?」

「病気さ。朝出かける時にわたしが気づいていれば助かったかもしれなかった

んだけどね、どうもあたし、鈍くてね」

「嘘つくな。お前は逃げたんだ。父親の様子がおかしかったのは気がついてい

たんだろう?でも、こんな親父はもうたくさんだ、どうにかなっちまえばいい

んだ。そう期待して見捨てたんだ」

 そう頭の中でだれかが呟いた。

「そんな事ないですよ」

「いや、ああいう病気って、ほら、食事が原因とか、心の問題とかだって言う

だろう? まあ、仕事もうまく行かず、おまけに私を相手してくれてたんだから相当なストレスだったんだろうね」

「そんな?」

「あたしはジュンもあんな目に合わせてしまったんだよ。だから今回アン、あ

んたを助けられて、少しは借りを返せれたかな、って感じだよ、だから気にす

るなよ。それに、君はあたしの唯一のクルーだ」

「マリさん、でも、わたしはもう乗れないかもしれません」

「いいや、乗るんだよ。なんだっけ、オリンピックにでるのが約束だったんだ

ろう?」

「あ、もう、いいんです。彼、離婚して日本を離れる時に、こう言ったんで

す。お前がオリンピックに出るまでノルウェイに戻っているだけなんだ、って」

 あたしは裸足の足先を見つめてみた。

「バカでしょ、その言葉をいままで信じてたんですよ。わたしがオリンピック

に出れば、お父さんは帰ってくるって思い込んでいたんです」

「そう」

「わたしももう二十歳です。そんな言い訳、その場限りだってことは分かって

ます。でも、心のどこかですがっていたんです。もしかすると信じることで世

の中も変わっていくに違いない、なんて夢見てたのかもしれません」

「お父さんはどんな人なんだい?」

「父ですか?優しい人でした。でも、一度思い込むともう止まらないところが

あります。母親とは、同じセーラーとして知り合いました。だから、ヨットを

続けていた限りは良かったんだと思います。だけど、家族になって、母親が落

ち着いてほしいと思い、そんな折に母国の方からもいろいろあったようです」

「アン、あんたにとっては?」

「大好きでした。一緒に船に乗せてもらい、もう、夢中でした。彼に褒められ

たくてヨットやっていたようなもんです。母は結構厳しい人で、叱られてばっ

かりでした。だから余計父親をおいかけていたのかもしれません…。きっとそ

んな私が悪かったんです」


 アンは息を吸い込みながら一気に続けた。

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