第五章 落日のように立ち上がれ

「アンさん、ついにデビューね」

 オーナーがにこやかに言った。

 今日は470級の関東大会だ。この大会、大学のクラブが多く出場している。社会人や、ワールドを戦うようなチームは出てこない。だから、出場者の平均年齢も若い。

 彼らからすると、私達は近所の動物園にパンダがやってきた、そんなふうに場違いなのだ。そりゃそうだ、伝説の「コメット」といわれるスキッパーが三年ぶりに復活したのだ。それだけではない。そのクルーはレーザーラジアルでワールドカップを一度は取った女である。

 そして、最初のレースからマリの操舵技術は際立っていた。伝説のような走りは見せない。しかし、スタートから有利な位置をおさえる。確実に風を捉え、シフトを読んでコースを引き、船は常にベクトルの最大値を安定して保つ。

 そしてトップで前半戦のレースを終えた。普通のベテラン選手が見せる舵の引き方だ。

 そして後半戦。私がスピンの展開をしくじり、順位を落とした。マリはゴキブリを見るような目で私のことを見た。思わず肩をすくめる。私達はこのレースを落とした。

 マリーナに戻ってきた私達。ディンギーの艤装を解きながらチェックをする。

 マリは一言も口を聞かない。私は耐えきれずに話しかけた。

「マリさん、ジャイブのタイミングが合わなかったですね」

 マリがギョロッと目を向いた

「なぜだと思う?」

「もうすこし引っ張ると思ってました」

「そういう判断はクルーの仕事かい?」

 今日のマリは意地が悪い。

「スキッパーがヘルムを取るもんです」

「ならどうして勝手に動いた?」

「だから、声を掛けたじゃないですか」

「ジュンはそんな未熟な動きをしなかった」

「ジュンさん、って、私はアンです」

「あんたは素人同然だって言ってんだ」

「私だってレーザーではトップレーサーです。素人じゃない」

「いつまでもレーザー乗りのつもりだい?470のクルーになりたいって言っ

たのはあんただろう?」

「そう言いました。マリさん、あなたも同意したじゃないですか?」

「いつでも辞めれるんだぜ」

「無責任なことを言わないでください。そもそも、あなただって、まともに舵

を切ってないじゃないですか」

「どういうことだ」

「わたしは、あなたの伝説の走りに賭けてきたんです。だれも読めないブロー

の吹き始めを読める。常にぶっちぎりで勝ち抜く、でもあなたはただの時代遅

れのヨット乗りだ」

 私は一気にまくし立てた。

 水風船が爆発したみたいだ。

 溜まっていた感情が一挙に吹き出す。


 マリはちょっと驚いた顔をした。


「そうだな、あんたの言うとおりかもしれない」

 思いもかけないような静かな声、ショックだった。

 マリは空を見上げている。

「マリさん...ごめんなさい、言い過ぎました」

「アン、あんたキュゲスの指輪の話って知ってる?」

「あれ、なんか聞いたことあります。父親が言ってたような…。なんでしたっけ、それ?」

「ギリシャ神話なんだけどね、キュゲスの指輪っていうものがあったんだ。そ

の指輪をつけたものは姿を見えなく出来るんだ」

「透明人間になれるんですか?」

「まあ、そんなモノだよね。で、それを持っていると何でもしたい放題だよね。神話じゃ王様を殺して自分が支配者になったりするんだよ」

「ふーん、便利ですね」

「でも、それってズルだよね」

「そうともいえますね」

「誰にもバレなきゃ、ズルしても、王様殺して国を乗っ取ってももいいんじゃ

ないか?っていう事なんだ」

「見つからなきゃカンニングし放題ってことですか」

「まあ、そんなモノだな。でもね、それって後ろめたくないかい?なにか、バ

チが当たったりするかもしれないじゃない」

「私はカンニングしないです」

「そういう話なんだよ。バレなきゃ何したって良い、ヨットレースに勝ちまく

ってオリンピック代表になったて構わない、それってどうなんだろう?」

「マリさんの目は個人の力ですよね。生まれつき足の速いひとと同じじゃない

ですか?」

「そう...かもしれない」

「じゃあ、思う存分使ったらいいじゃないですか」


「見えなくなっているんだよ」

「何が見えないんですか?」

「風が見えないんだよ」

「どういうことですか?」

「アン、あんたはかつてのわたしに期待して相手してくれてるんだろ。だから

本当のことを言ったおいたほうがフェアだろう」

「本当のことって?」

「ジュンとの事があった時からだ」

 マリは額の傷を指差した。

「それ以来、風の子が生まれるところが見えなくなってしまったんだよ」

「それって」

「伝説の走りはもう不可能だってことだ」

 海からの風に雨が混じってきた。

「まだ大丈夫ですよ。戻ってくるかもしれません」

「アン、あんたがオリンピックにかける情熱はわかっているつもりだ。でも、

本当に出たいのなら、インチキな魔法に頼らないで、もっと優秀なスキッパー

を探すべきだ。こんなところで時間を無駄にする場合じゃない」

 畳んだセールが風にあおられる。アンは上から両手で押さえつけた。白いセールは雨粒があたって水玉模様ができている。

「いいえ、私はマリさんと組むことに決めたんです」

「あたしのことなんか気にするなよ」

「違います。最初にマリさんと乗った時、わかったんです。この人は裏切らな

い。わたしはマリさんに賭けたんです」

 マリはこちらをじっと見つめている。日に焼けた茶色い皮膚。深い皺。額を横切る彗星のしっぽのような傷跡。その下の、光を失った大きな瞳。その裏側に確かに、燃え残ったような赤い炎。

 マリはまだすべてを無くしていない。


「ごめん...あたしが悪かった。もっと早く話せばよかった」

「まだまだこれからです。私達は速くなります」

「アン、あんたは見かけによらない女だな」

「マリさん、あなたはわたしが見込んだ通りの人です」

 雨が白いディンギーのデッキを叩き出した

「急いで片付けるぞ」

「はい」


 私は下を向きながら少し微笑んだ。

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