第五章 落日のように立ち上がれ

「三、二、一、 タック」

 マリがタイミングをつける。私はトラピーズフックを跳ね上げる。バランスを確かめながら素早くブームをくぐり逆側のデッキに飛び出す。

 ジブシートを操る。マリもティラーを器用に後ろ手で回しながら移動する。船はスピードを維持しながら風上にせり上がってゆく。

 後ろを見るとオーナーがテンダーを走らせながらサムアップした。

「だいぶ良くなってきたわね」

 マリが宣言する。私にとって怖い体育の先生からたまにもらった褒め言葉だ。 

 思わず顔がほころんだのがわかる。

「あとは下りとスピンだね、そこがうまく行ったら草大会に出てみようか」

 マリが言い出した。

 ディンギイーレースは相手があっての戦いだ。新しいペアにとって、自分たちの位置を確かめなければいけない。そのためには早めに腕試しをするに限る。

「そうですね」

 気分が高揚してきた。しかし、まだ大きな不安がある。マリはまだ、彼女たちが勝ちを重ねていた時に見せていた走りを出していないのだ。


 普通の470乗りとして腕前は上がってきた。私だってシングルハンダーとしては世界的な腕前のつもりだ。これくらいのレベルは当たり前だと言える。 その二人がペアになったからってそう簡単に勝ち抜けない。いわんや日本代表の座を勝ち取るほどこの世界、甘くない。「コメット」と言われてきた切り札を出さなければ、おそらく勝ち抜けないだろう。

 私は思い切って聞いてみた。

「マリさん、あのぶっちぎるような走りって、どうやってたんですか?」

「それどころじゃないでしょう?」

 マリが誤魔化した。

「まずは基本レベルに到達することよ。あなたも今のレベルじゃレースなんて

百年経っても出れないわ。何が悪いかわかってる?」

 マリがヨットの先生のような意地悪な言い方をする。

「あと、五十回ダウンウィンドのマーク回航をやるわよ」

 マリがいう。

 私達が470を港に引き上げたのはそれから二時間後だった。


「あなたたちペアのデビュー戦、申し込んできたわよ。」オーナーが告げた。


 あたしは、船を片付け、ラックを整理するために一人、パティオのおらに回った。アンは着替えてるのだろう。

 車椅子に乗ったジュンが待っていた。

「マリ。焦らないこと」

 ジュンがさとす。

「それから、あなたがどうしたいのか、どういうつもりでレースを組み立てる

のか、早め早めに話さなければだめよ。彼女は勘がいいわ」

 ジュンはさらに続ける。


「問題はあなたよ。自分の気分を彼女が察してくれないからって、あなたが爆

発してどうするの。彼女は稚馴染みじゃないのよ」

「そんなつもりじゃない、クルーが気が利かなくてどうする」

「まるで困ったちゃんね」

「その言葉、あんたから聞くのは二度目よ」

「周りが察してくれないからって、膨れるなんて、子供みたいね」

「これで三度目だ」

「マリ、あなたは自分を窮屈にしている。誰が校舎から飛び降りようが溺れよ

うが、今度はあなたが泳ぐ番よ。罪悪感はズル休みの言い訳にすらならないわ」

「なんだそれ」

「わかったことがある。辛いことだって、悔しいことだって、楽しいことも、

恋だって、それに大切な記憶だって、ほら、今日の水平線の色みたいなものな

のよ。どんどん変わってゆくわ。でもね、言葉にすれば思いになるのよ」

「何、言ってるの」

「とにかく、アンと話し合いなさい。あなたは年上のスキッパーなの」

「わかったよ」

「それからアンにも悪い癖があるわ。彼女もヘルムスマンの癖が残っている。

クルーも1人でないってこと。いい意味で人に頼らなければならない、それを教えてあげて」

「頼るかぁ」

「そうだ、今度ビデオ撮ってみない?」

 ジュンが言い出した。

「誰が撮るんだい?」

「オーナーに頼む?」

「彼女、まだやれるのかな」

「最後の奉公さ」

「縁起でも無いこと言うわね」

「あんたが連れて行ったりしなければね」

「マリ、あんたのブラックユーモア、小学校からかわらないのね」

「いいや、変わったわ」

「何が?」

「風が見えなくなった」

「いつから?」

「あの事故からよ」

「全く感じないの?」

「うーん」

「まだ復帰してからあまり時間も立ってないわ。感覚が戻っていないかもしれ

ない」

「去っていってしまったものがあるんだよ」

「そういえば、あなたはあの力でレースに勝つことをフェアじゃないって言っ

てたわね」

「ヨットレースは細かなレギュレーションがあるじゃない。レーサーが純粋に

技能で勝敗を競えるようにしている。あたしの目はそのルールを不公平にして

いるよ」

「それも含めてレースする者たちの力なんじゃない?」

「そうかも知れないね。誰もあたしたちがこんな技を持っているなんて知らな

い。きっとものすごく読みが鋭いチームと思っている」

「そうよ。生まれつき足の速い人もいる。力の強い人種だっているわ。あなた

の力はその中の一つなのよ」

「あたしもそう思ってた。でも、あの事故以来、いろいろ考えたわ」

「それは、あなたの中でそう思っているだけよ。何も世界は変わっていないわ」

「変わってしまったよ。ジュン、あなたを失ったって知った私は、変わってし

まったんだよ」

「一時的な怪我のせいじゃなかいの?」

「違うわ。あの事故だって、もしかしたら私の力が引き寄せたのかもしれない」

「どういうこと?」

「前はもっと自分が特別な存在と思っていたわ。自分が良ければ何しても構わ

ない、許されるのよ、て思ってた」

「マリ」

「でもね、本当は自信がないからそう信じてただけ。だから裏返して大好きな

自分を夢見ていたのよ。それを救ってくれたのがジュン、あなたよ」

「...」


「ジュン、あたしはあんたを失くしてはっきり分かったの。そして、あんたは、どっかに行こうとしている」

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