第六章 再び失われるクルー

「マリさん、腹減りました」

 アンの声が聞こえた。思わず不平をこぼしたようだ。午前中の練習セッションが終わった。

競技者たちが一斉にカフェへ殺到している。カウンターの前に長い行列が出来あがっている。その大きなガラス張りのカフェの手前は、トロリーに乗せられた470がずらっと並んでいる。

 どの船も最新の偽装で輝いている。つばが広く薄いハットの下にサングラス、赤く日に焼けた細面の顔、そしてラッシュガードに身を包んだ欧州系の選手がマストのワイヤーを調整している。その光景は、まるで日本じゃないみたいだ。

 それにしても、セッティングがうまくいかない。

 今日は強い海風以上にうねりが大きい。台風が近づいているのだ。

「マストのテンション、もう一つ張った方が良いかな」

 あたしはアンに声を掛けた。470クラスは細かいところまで規定されているクラスだ。選手の技能が成績に直結するように細かに配慮されている。

 とは言っても、セールの張り、マストの傾き、ブームによる調整など、多く

の調整が出来る。そして、そのセッティングで帆走スピードは変わってくるの

だ。

「ああ、腹減った」

アンが再びつぶやく。全くだ。あたしは顔を上げた。

「そうね、でもあれじゃねぇ」

 顎でカフェを指す。オリンピック前哨戦のワールドだ。だからいろいろなところの準備が出来ていない。選手のダイニングも工事が遅れている一つだ。選手の人数に対してカフェはあまりに狭い。

会場の周りにはアーチ状のフラッグが並んでいる。折からの強風を受け、力を込めた弓のように湾曲している。もしかすると四十ノットくらい出ていたかもしれない。練習セッションもキャンセルになるかもしれなかったが、ちょっとは落ち着いてきたようだ。


 あたしたちの船は輝く海外のライバルたちの中でくすんだ醜いアヒルの子み

たいだ。船体の色も、マストの輝きも、ワイヤーも、全てくすんでいる。装備

のハンディは腕と頭で補わなきゃならない。あたしたちは黙々と調整を続けた。

  何しろこの船はその色の通り、けっこう年季が入っている。船体だけじゃない。セールも伸び気味なのだ。金がない。ちゃんとレースに勝とうと思ったら、毎年船体は買い換えるべきだし、セールだって数ヶ月に一回買い換える。ワイヤーやシートだって古いままで使っているわけにはいかない。それがヨットレースだ。金がかかる。貧乏なチームは設定に時間をかけ、技術を磨くしか勝ち目はないのだ。


 あたしたちは炎天下の下、黙々と働いた。とりあえず、納得できるところまでできたと思う。

「飯食おうか」

 アンに声を掛けた。

「腹減ってもう感じなくなったわよ」

 アンが投げかえした。

 あたしは笑いながらトップカバーを船体にかける。ああ、いい気持ちだ。なんだか久しぶりだ。

 強い日差しを浴びて緑色の覆いをかぶった470は岸辺にへばりついたウミガメの甲羅のように見える。だが、そのうちに秘めた力は激しい。来たるべき時を待って休息中なのだ。


 あたしたちが艤装を解いているとき、後ろから男性の声が聞こえた

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