第三章 片浜ヨットクラブ

今日は夕食のおかずを買いに地元の店に向かった。

 地方の八百屋は小さい。横倒しになったおもちゃ箱のようだ。野菜が店舗の前の路面までこぼれ出している。ほとんどが近所で取れた野菜だ。そうじゃない品物はバナナくらいか。


「さて、今日の食事はどうしようかな」

冷蔵庫の残り物を考えながら、チンゲンサイともやしを手に取った。合わせて二百円。独り身でもあるし、余計な出費は切り詰めたい。


その時、後ろからよく通る声がした。


「チンゲンサイ、ないの?」


 何しろ小さな八百屋だ。両手で数えられるくらいの野菜しかない。自分が手に取ったチンゲンサイが最後だったようだ。

反射的に振り返った。

「これでよければ、私はいいですから」

「あら、あなたもいるのでしょ?」

「いいんです、今日はもやしがあるし」

「そう?」

 自分の三十センチくらい下から声がする。

「じゃあ、遠慮なくもらおうかしら」


私は野菜の束を、よく日に焼けた顔の女性に手渡した。目が強い。そして、おでこを斜めに横切る大きな傷がある。


それが彼女を忘れられない存在にしている。


「あなた、ヨットが好きなの?」


突然そんなことを言い出した。茶色がかった深い瞳が真っすぐにわたしのライトブルーの目を覗き込んでいる。

「港の横のビルにあなたいるでしょう?あそこの窓から、いつも船、見ていな

い?」

返答に困っていると、すこし視線が弱くなった。目の周りにシワが現れる。

「あら、ごめんなさい、見ず知らずの者にいきなり話し掛けられても困るわよね。田舎のおばちゃんみたいだよね」


私は心のなかで小さくつぶやいた


「知っています。あなたは『コメット』のマリさんです。彗星のようにトップ

をつきぬける、日本選手権を二回取った、伝説のスキッパーです」


わたしは少し声のトーンを下げて心の声に蓋をした。


「あ、はい、そうなんですよ」

「海って気持ちいいですよね」

あわてて付け加える。

「これからが一番いいシーズンよ」

その女性は少し誇らしげだ。

「ヨットの先生なんですか?」

「そう、子供達に教えているわ。でも本当はただの居候の管理人よ」

「よかったら今度寄ってみたら?気持ちいいし、いつでも歓迎するわ」

さらに続ける。

「チンゲンサイ譲ってくれたし。今日は中華にビールが飲めるわ」

「あ、ありがとうございます。嬉しいです」

「じゃぁ」


女性は八百屋の横に立てかけてあった古い自転車に乗るとハーバーの方にペ

ダルを漕いで行った。ギコギコ音がする。彼女の古びたヨットパーカーのフー

ドが手を振るようにはためいていた。


後ろから髪の毛に空気の流れが回り込んできた。軽くて癖のある髪の毛が静電気で煽られたようにふわふわ漂い、それから落ち着いた。左手で髪の毛を抑えながら、八百屋の店主にお金を払う。


今日も頑張った。そう思った。

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