第三章 片浜ヨットクラブ
八百屋からの帰り、自転車を片付けるとコーヒーカップに残った角砂糖のような、白くて崩れかけたアパートの階段を上った。
「よっこいしょ」
腫れ物に触るようにそっとドアを開ける。
左から靴を脱ぐ。丁寧に揃える。隣にはデッキブーツが同じように行儀よく並んでいる。そのまま野菜をキッチンに乗せる。
夕食の準備だ。一人の料理はあまり面白くない。スマホの音楽を選ぶ。気分を紛らわすものが今の自分には必要だ。
イヤホンの曲が急に聞こえなくなった。
誰の許可もなく音量が下がる。スマホをキッチンから拾い上げ、電話のマークを押し込む。
母親だ。料理の最中に必ず母親から電話がかかってくる。
「今、料理中なんだけど」
「今日は何?」
「もやし炒め」
「ちゃんとお肉を入れてるの?タンパク質は沢山とらないとだめよ。あなた、
体大きいのだから」
食事のコメントには付き合わないことにしている。母親の相手をしているとキリがないからだ。それに食材を揃える金も無い。
「今日面白い人に会ったよ」
それでも母親の電話は正直ホッとする。
「あら、お友達ができたの?」
「マリさん」
「どこの?」
「470のスキッパー(ヨットの操舵手のこと)よ。お母さん、覚えている?
高校生の時に江ノ島で選手権を見に行ったじゃない。お母さん、あの人は、絶
対的に、特別なのよ、って言っていた。憶えていないの?」
「まだヨットレースにこだわっているの?早くこっちに帰って来ればいいじゃ
ない?」
「そうじゃないの、八百屋で話しかけられたの」
「彼女、あの事故以来、引退したって聞いているわ」
「私もそう思っていたわ。でもね、ここのセーリングクラブで働いているよう
なのよ」
「あの、ペアだった人は?」
「わからない。彼女はいなかったわ。そんなの聞けないよ。」
「あなた、まだ諦めてないの?」
「当たり前じゃない。でも、彼女、遊びに来てって言われたわ」
「失礼のないようにするのよ。あなたは空気読めない人だから」
「母さんに言われたくないわ」
「でも、惜しいわね。彼女は本当に特別だったわ。いまでもあのレースは鳥肌
が立つわ」
「母さんが人を褒めるなんて珍しいわね」
「最近のノルウェイチームにも、似たタイプがいるらしいわ」
「誰から聞いたの?」
「雑誌の受け売りよ」
「ヨット雑誌なんてお母さん、読むことあるの?」
「一応、これでも部活の顧問だからね」
母親が高校生の男の子たちを監督している姿を思い浮かべるとちょっと子供達が可愛そうになった。彼女はヨットのことになると理不尽に厳しい。その真剣さと妥協の無さが家庭では大きな問題になることもある。
「ちょっと、手が離せないの。バイバイ」
「ちょっとまって。マリさんと会ったらお土産くらい持って行くのよ。社会人
は礼儀が肝心なんだから」
「それから、あなたの腕は最初は見せないほうが良いわ。相手に警戒されるか
ら、小出しにすることよ。あなた、すこしそそっかしいから」
「わかったよ、私はもう二十歳よ。でもね、そんなに気をまわして、何になる
の?ダメな時はダメなのよ。じゃあね、母さん」
まだかなにか言いたげな母親の声を無視してスマホのボタンを押し込んだ。
再び音楽が戻ってくる。いつの間にか曲は変わっていた。今度はバラードだ。
一人で作る料理は簡単だ。なにしろ足らなくても多過ぎても、自分だけだから
だ。人におもねらないってことは素晴らしい。
「そうね、タンパク質」
冷蔵庫の残り物に卵を足して炒めあげた。
あの、マリに会いに行く。胃が迫り上がるような感覚がする。
特急列車が出発する。線路が切り替わった。そんな音がしたような気がした。
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