第三章 片浜ヨットクラブ

「おはようございます」

私はおそるおそる精密機器メーカー、片浜営業所のドアを開けた。

 事務所は小さな港に面した白いビルの二階にあった。三人も乗れないような小さなエレベータと階段がある。

 アンは階段で上がってきた。一段飛ばしで二階の廊下に出る。すぐに自分の働く精密機器メーカーの大きなロゴが書いた扉を見つけた。

取手に手をのばす。ゆっくり開く。カウンターが見えた。十畳ぐらいの事務所が広がっている。

事務所の片側は大きく窓が占めていた。そこから港に船をおろすためのスロープ、そして、ディンギーのマストが見える。

 思わずその光景に目を奪われた。

ふと我に返った。事務所の中に男性がこちらを向いた。

「いらっしゃい、ご用件をお伺いします」

男性がすっと立ち上がり、なめらかに声を掛けてきた。

「こちらに今日から配属になりました入間アンと申します。所長の瀬戸さん、

いらっしゃいますか?」

「ああ、聞いているよ、ようこそ、僕が瀬戸だよ」

思ったより若い。縦縞の半袖シャツの胸元に会社のロゴが縫い付けてある。

「ちょっとそこに座って待っていてくれないかな?」

カウンター横の応接コーナーを指差した。「はい」

私は長い手足を折りたたんで不器用に小さな応接コーナに座った。緊張する。

「ようこそ、なんだかちっぽけな事務所でもうしわけない、でも良いとこだよ」

屈託なく男性が話す。

「アンさん、ヨットでは有名なんだってね、すごいね。ほら、ここからだと目

の前にヨットが出ていくのが見えるだろう?」


ふと、男性の顎の先を見ると、漁港の横に先程目にしたヨットラックが見えた。

小さくて、ミニチュアモデルみたいだ。

ちょうど小さな漁港の片側と、崖に挟まれるような細長いスペースに縦置きされたディンギーの鼻先が並んでいる。その後ろは鬱蒼と木が茂る山になっている。

 これが聞いていたヨットクラブのようだ。事務所らしきプレハブも見える。


「人事から聞いています。うちは小さな事務所なんで、全員が外回りなんだ、

アンさんが来てくれると助かるよ。それでね?」

男性の説明が続く。私は黙ってうなずいていた

「ここが君の席だよ、文房具がここ、何か足りないものがあれば遠慮なくいっ

てね」

そう言って去っていった。


何もやることがなくなった。仕方がなく、窓際のデスクに腰掛けた。すぐ右側が四角い窓だ。そこからはヨットクラブから港の水面につながるスロープが正面になる。

「ふ〜」

思わずため息が出た。さぁて、どうしたものだろうか。

 手元のスマホのスクリーンをいつもの癖で眺めた。そこには背の高い男性、肩口くらいの女性、そしてまだ幼い面影のおさげ髪の少女の三人が並んでいる。

もう一回、深く生きを吐き出す。今度はどこに踏み出せばよいのかな。最初の足を下ろす先がどうもわからない。ダンボールをいっぱい抱えて階段を降りるようなものだ。足元が見えない。不安だ。

もう一回窓から港を見下ろした。小さなヨットクラブの事務所は二階建てだ。上の階にはテラスとフラッグを掲揚するポールが立っている。

「かーん、かーん」

折からの風に合わせてフラッグを上げるためのロープがステンレスのポール

を叩く音が規則正しく聞こえてくる。


片浜での新しい暮らし、悪くは無いね、そう思った。そして、それが始まりだった。

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