第二章 自分だけが輝くシステム

担当者の樋口を呼び出した。

「久しぶりだな、どうだい、執印(しゅういん)監督?」

 樋口がこちらに歩いてくる。

「ちょっとお茶でも飲まないか?」

「いいよ、どういう風の吹き回しだい?」

 人事部の樋口は高校のヨット部で同級だった。この会社におれが雇われてきたときに驚き、同時に喜んだものだった。

 本社ビルは巨大で入り組んでいる。その二階に社員食堂とカフェコーナーがある。まだ午前中だ。人影は少ない。


 おれは樋口に先程済ましてきた百々海(とどみ)との会話を伝えた。

「日本のスポーツ組織は前近代的だからな、ありそうな話だ」

 樋口が反対側の窓を見ながらささやく。口の前には手をおいているからちょっと聞きづらい。

「佐伯秀子って創業者の孫だろ?」

「ああ、だが470のクルーとしては優秀なのは間違いない」

「それで勝てるのか?」

「スキッパーはどうやらハルをスカウトしてくる腹づもりのようだ」

「ハルっていうと、たしか去年の470ワールドでランキングトップだったん

じゃないか?」

「カネの力だよな」

「お前、それでいいのか?」

「一つだけ頼みが有る」

 おれは背筋を伸ばした。

「知っているだろう、聞けることとそうでないことがある」

「今回のセレクション対象外になった選手の身の振り方なのだが?」

 おれはちょっと言いよどんだ。そのまま続ける。

「アンを片浜の営業所に配属替えにしてくれないか?」

「どういうことだ?」

「彼女の才能を潰したくない。かといってここのヨット部に置いておけないだ

ろう?片浜には俺の知り合いがオーナーをやっているヨットクラブがある。た

しか営業所はハーバー近くにあったはずだな」

「それくらいは出来ると思うが、どこに行くかは彼女の自由だろう?彼女くら

いの実力があれば、どっかにポジションは有るだろう」

「そうかもしれん。しかし、それにしても金はいる。セールは新品がいるし、

船体だって新調する必要がある。遠征費もかかる。そのためにはスポンサーだ

って見つけなきゃならん。彼女の種目は今回オリンピック日本代表の対象外だ。

 今どきこんな種目のスポンサーになるなんて奇特な人たちは稀だよ」

樋口は持ってきたファイルを開いた。日に焼けて茶色になった紙片が詰まっている。まるで古本屋の百円コーナーに積み上げられた文庫本だ。

「すげえな、父親はノルウェイのナショナルチーム監督か。母親もレーサーか。まさにサラブレッドだな」


 ホッチキスされた紙の束をめくる。


「五年前に両親は離婚、母子家庭か。この環境でディンギー乗りとは、生活は

大変だろうな、高校卒業後、弊社に入社、ヨット部に所属」

「見るところはそこじゃない」

「どういうことだ?」

「彼女はここ二、三年で急激に伸びてきたんだ。日本人ではじめてレーザーラ

ディアルワールドで優勝もしている。もちろん、外国人に引けを取らない体格

や体力は大きい。身長だって百八十近い」

 樋口は戦績をめくった。

「それだけじゃない。彼女の勝ち方は特徴があるんだ」

 おれの言葉に知らず知らず熱がこもる。


「彼女は潮の流れや、合わせて風の流れを読む力が抜きん出ている。彼女がワ

ールドで勝てたのもその力が大きい」

 おれは続けた。

「面白いことに、彼女、高校時代は470のクルーをやっていたんだ。その時

インハイで良い成績を残しているんだ」

「凄い経歴だな」

「じゃないと弊社のヨット部に入れない、それはお前も知っているだろう?」

 おれの声のトーンがちょっと上がる。


「だけどレーザー乗りはオリンピックに出れない」

「だから、彼女が片浜でスキッパーを見つければまだまだチャンスはあるかも

しれない」

「470で出そうというのか?うちはもう二チームできているんだぞ」

「別にうちから出なくていいんだよ」

 おれは水が半分残ったコップを考えるように持ち上げた。

「ヘルム(ヨットの舵取りのこと)は誰が切るんだ?」


「だから頼んでいる」


「田舎のクラブに優秀なレーサーいるなんて聞いたことがないぞ。おれだって

まだ、少しは470レースシーンの知っているつもり?まてよ、そうか、コメ

ットか…彼女たちは片浜だったな」

「……」

 おれはカップの横にあるスプーンをペンのように回してみせた。

「賭けになるぞ。あの事故はお前だって知っているはずだ。でもあくまでも選

択は彼女がする。そこだけは分かっておいてくれよ」

「当たり前だ」

「うまく行ってもお前、自分の首をしめることになるぞ。いいのか?」

「知っている」

「おまけに選択するのは彼女だぞ」

 樋口は繰り返した

「彼女は470に鞍替えしてでもオリンピックを目指す理由がある」

「?」

「彼女がオリンピックに出ればノルウェーチームの監督である父親と出会うこ

とになる。そして、それが彼女と母親がもう一度父親とやり直す条件だと思っ

ている」

「そんな単純なものじゃないだろう」

「おれも、そう思う。でも彼女はそう信じている。何か理由があるのだろう」

「そうか」

 すっかり冷えたコーヒーを一気に飲むと二人で外を見つめた。巨大なガラスの外には多くの社員たちの姿が見える。みな下をむいて急ぎ足で歩いている。

 南中しかかった初冬の太陽は人々から表情を消し去る。


「何を期待して、生きていくのか…か」


 自分のことの様におれは口の中でつぶやいてみた。

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