第8話 喜和と桜子


長男の喜和と長女の薫子は、子供のころから全く対照的な性格に思われた。

喜和が生まれた昭和二十二年ころは、家も貧しく戦後のどさくさの時期だったので好き嫌いなど言っていられなかったため、何でも食べて、そのせいか体も骨太で大きい。話せば理屈っぽく評論家で、子供の時から本ばかり読んでいたので物知り。総理大臣も学者に対しても、あいつはバカだ、と批評するような子だった。歴史と地理が得意なのははる子に似たようで、少年マガジンの創刊号で「頭の中に地図がある天才少年」と紹介されたこともある。容姿は、色黒で唇も厚く、背が高くて体格も良かった。

一方五つ違いの薫子の生まれた二十七年は、すでに戦後のベビーブームも終わり、競争も無く、家も裕福になっていて、お手伝いさんが三人もいた。それゆえ桜子は好き嫌いも多く、体は華奢で細く、顔立ちははる子よりむしろ古風だった。性格も大人しく物をねだったことすら無かった。

ある日デパートで、喜和はこれが欲しいとしゃがみ込んでしまった。はる子は喜和を立たせようとぐいぐい腕をひっぱった。そのうちに、喜和の肩がなんと脱臼してしまったのだ。

「乱暴なお母さんですね」

医者に咎められた。こんなことが何回もあった。

一方薫子のほうは、デパートで何か欲しいものがあっても、それを言える子ではない。

「ここにあるものは、ぜーんぶ、かおちゃんのものなのよ」 

はる子が言うと、桜子はにっこり嬉しそうに笑い、

「ぜーんぶ、かおちゃんのものなのね」

と納得して何も買わずにそのまま大人しく帰るのだった。

子供のころの薫子は、まさにはる子の着せ替え人形のようであったようだ。はる子が、育ての親の英策やひさにしてもらったように、薫子にもお洒落なものを着せたかったのであろう。幼稚園時代に着せた服は、普通の子のそれのように、ピンクの可愛い子供服ではなく紫のオートクチュールで作ったドレス。中学校の制服も、富士ストアで、フルオーダーで作らせたものだった。成人式の着物も当時としては珍しい黒地で金銀の刺繍をした「ちそう」のものが用意された。はる子の独特の美学、人はと違う個性的なものを、薫子は常に身に着けさせられていた。しかしその暮らしこそが薫子の将来の仕事に結びついたのかも知れない、

薫子が初めて自分の考えを持つようになったのは学習院の女子高等科に入ったころからだった。はる子はひさをを反面教師に、女性も自立すること、絶対職業を持つことを常に口にしていたので、それまでそれを普通と考えていたが、この学校では全く常識がちがうことのを知ったのは、高校の三年になったある日だった。

大学を出てから将来何をするか、という話題になった時のことである。

「まず就職して・・」

 何気なく薫子は口に出した。すると、クラスメートの池田さんと言う女性が、目を大きく見開き、

「えっ 、薫子さんって就職するの!」

 とびっくりして発言した。それから、そのとなりの生徒の肩を叩き、こちらを向かせると、

「薫子さんって、卒業したら就職するんだって!」

と言った。

「えっ、 就職?」

次々に同じ反応の生徒が集まってきて、みんなが驚いて薫子を見にやってきた。

これには、薫子の方も驚いた。すでに世の中は高度成長期に入り、普通の女性は学校を出たら就職するのが当たり前になりつつあった。またはる子は「女でも職業は持つべき!自立しないとおばあちゃんみたいに苦労することになる」と口を酸っぱくして言っていたので、仕事につくのは当然と考えていた。しかし学習院の常識は一般とは違っていたのである。学習院では、旧華族や病院長令嬢、一部上場会社令嬢が多く、医者でも開業医は「町医者」扱いに過ぎなかったし、薫子のような三百人程度の会社の社長令嬢は小商人の子と扱われていた。決してバカにしているのではなく学習院では当たり前のランク付けで、みんなそれぞれに納得していた。

卒業してから、この時の池田さんが旧華族池田家の令嬢だったと知って深く納得した。このころから、学校への反発もあって、女性も自立という強い意識と自我が、より強く強く根付いてきたのだ。

喜和と桜子は、しかも成長とともに周囲の予想に反する人生を歩んで行く。

喜和は法政大学をでると、カメラマンのアシスタントを一年しただけで、山一ビルの七階の六十坪を借り切って写真スタジオをはじめる。利発で口も達者な喜和だけに成功するかに見えたが、現実はそれほど甘くなかった。経験もない二十二、三の若者に経営ができるはずもなく、スタジオは十年間毎年赤字経営。むろん、山一産業が開業資金も赤字もすべて埋めることになる。喜和は、運営をアシスタント任せで、一日中パジャマ姿で家にいたから、浅夫とのいさかいは毎日のこと。そのたび、はる子は喜和をかばった。

薫子は、子供のころは頼りなく見えたにも拘らず、堅実に会社に勤め、デザインの学校や独立資金も給料をためた預金で賄うようになる。女性も自立しなくてはならない、というはる子の教えを実践するようになっていくのである。

会社の跡は絶対継がないと子供の時から宣言していた長男の喜和が、浅夫の急死により、会社を継ぐことになったことから転落は始まる。会社を継ぐと、喜和はすでに縮小していた会社の社員を、高額な退職金を払って解雇してしまう。名義だけ、はる子を社長に据えて、ビルの借金、退職金、相続税を、銀行からの借り入れで賄おうと考えたのである。本来の仕事を辞めてしまっては、家賃収入しか入って来ず、とても返済は出来ないと誰しも考えたが、喜和は子供のころから誰の言うことも聞かない子で、理論だけは一人前だったので、はる子でさえ彼を説得することができなかったのだ。

その後、経験もないレストラン経営やむやみに裁判を繰り返し、借金は膨らむばかり。やがて十年後の二〇〇一年に、下落合の二百十坪の家が差し押さえられ、国税局に競売される。はる子、七十七歳の時である。

「この年になって家も無くなるなんて、死んだ方がまし」

と、この時ばかりははる子は弱音をはいた。

このころから、はる子は売り食いをし始めた。贅沢に暮らしていたころ買った毛皮だの着物だのを、売りながら生活していたのだ。だが、こんな事態でもはる子は決して負けてはいないのだ。

薫子は、喜和の人のいうことを聞かない性格や、裁判や借金好きなのを十分知っていたのでこの事態をある程度予測していた。だから、自分の住む場所や仕事場などはいずれ確保しようと考え、小さくてもいいから自分でビルを所有しようとお金を会社で積み立てていた。

しかしその積立の額ではとてもビルは買えない。借り入れをしたくても、海外在住の夫は保証人と認められなかった。しかし中小企業共済会から担保もなしに数千万の借り入れをするためには、どうしても信用できる保証人がいる。頼れるのは、はる子しかいない。恐る恐る頼んでみた。

「保証人になってくれない?絶対迷惑はかけないから・・・」

はる子は答えた。

「いいわよっ 一億くらい?」

 とはる子は即座に立ち上がり印鑑を取りに行った。

七十七歳になってこんなことになるなんて、と・泣き言を言っていたはる子だったが、話も終わりきらないうちに、豪快に二つ返事のOKであった。

薫子は、まじまじとはる子の顔を見つめた。はる子、健在、である。


その後、自宅が無くなったはる子と喜和は四谷のミズキビルのほうに住むようになるが、桜子の懸念通り、銀行と国税局の支払いがとまだ滞っており、はる子が八十三歳の時の2006年にはなんと七億以上に借金は膨らみ、ミズキビルも人手に渡ることになる。

ビルを出る日、喜和は薫子に「おふくろはお前が見ろ」と言って転居先も告げずに去った。

はる子は八十三歳で家もビルも預金もすべて失ったのだ。贅沢を好んだはる子だったが

「沼津で空襲にあった時のことを思い出せば、何もなくなっても大丈夫よ」

と強がっていたが、喜和が出て行ったことだけは相当堪えたようだった。喜和は独身だったので生まれてからはずっと一緒の生活で、たとえ借金からは解放されても喜和と離れることが辛かった。また自分のことより今後の喜和の身の上を案じると心配で夜も眠れない。引っ越すとしばらく体調を崩し、精神的にも不安にとらわれるようになる。


初めのうちだけは「四畳半一間でいい」としおらしかったが、しばらく経つと、薫子が用意した六本木の二十坪ほどのマンションを、狭い!古い!といろいろ不平を言うようになる。はる子は与えられた運命をそのまま受け入れるような性格ではない。常により良い生活を目指すという勝気な性格が、むくむくと復活してきたのである。


ある日のこと薫子が行くと、はるこの機嫌がよく

「今日は喜和が来て、八竹のお寿司を持って来てくれたの」

と嬉しそうに語った。実は薫子は以前に昔馴染んだ四谷の八竹を土産に持って行ったことがあったのだが、その時はる子は

「八竹も味が落ちたものだわ。」と貶していたのだった。

どんなにしても、はる子の喜和に対する愛情はには勝てないと思い知る薫子だった。



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