第6話 山一の躍進

浅夫は逓信省で技術を学んでいたので、それを生かして、秋葉原のラジオデパートという、ラジオ部品を売っているビルのなかに一坪程の小さな店を出した。真空管だけ売る店で、主にはる子が店番をした。浅夫はひさが懸念した通り、酒好きだったので、夕方になると「焼酎タイム」と言ってちょいちょい抜け出したが、一方はる子は一日一万円の売り上げが出来るまでと、目標を決め、毎日仕事を続けた。

ラジオデパートのビルのオーナーといっても、このころのことだからまともな人間ではなく、ヤクザまがいの男で、自ら集金に来ることもあった。顔を知らなかったはる子は、

「請求書が無いから払わないわよ」

と言い突っぱねた。断られた男は

「それじゃあ、これを持ってくよ」

と棚の上の真空管を持って行こうとした。

「商品にちょっとでも手を出したら警察を呼ぶから!」

とはる子は電話機に手をかけて睨みつけた。

その男は剣幕に圧倒されてすごすごと帰っていったのだ。その後、はる子がいる時には男は現れなくなった。しかも浅夫には笑いながら

「お前のカミさん、おっかないな」

とたびたび話していたそうだ。

一方、母のひさは、しばらく沼津で暮らしていたが、軍蔵の息子の勇に料亭の土地も売られてしまい、静岡の読売新聞社所有の、ほったて小屋の二階をあてがわれて、肩身の狭い思いで生活をしていた。昔の法律だと、英策の没後、妻ではなく娘のはる子が戸主である。したがって軍蔵の息子にはなんの権利も無い。浅夫とはる子は家庭裁判所で、ひさの為に権利を取り戻そうと主張したが、逆に、役人に

「女は黙ってろ」 

と一蹴されたと言う。そして最後にははる子の身なりを見て、

「あんたたち、それなら、自分で引き取ったらいいじゃないか」

 と言われたのだ。

当時は女性の権利や立場が認められない時代で、はる子は悔しかったが、東京にひさを引き取ることに決めた。浅夫は、とてもひさを大切にした。

結婚した翌年、長男喜和誕生。

この頃は仕事も軌道に乗っていなかったし、戦後のどさくさだったので、食べ物もオシメもろくにないころだったが、浅夫の仕事はラジオデパートを基盤に、どんどん大きくなり、店舗も従業員も増えていった。

五年後の二十七年、長女の薫子が誕生したころは、物が豊富な時代へと変わっていた。浅夫は気が良い男で商才もあり、明るく社交的で人気があった。音楽も好きで、習ったわけでもないのに、ピアノを弾きながら歌ったり、社交ダンスも踊れた。三味線やサクソフォンも自己流であったが演奏できた。

お得意様との接待旅行では、チャーターしたバスが二台あったが、浅夫の乗ったバスの方に、お得意様の奥様が皆乗り込んでしまった。それほど、陽気で楽しくサービス精神に溢れた浅夫は人気があった。

彼は仕事も勤勉だったが酒も強く、毎日十時前に帰ったことはなかった。時々、羽目を外し過ぎて、バーの女性に送ってもらったり、終電がないからと、ホステスさんを泊めたりしたこともあった。はる子は嫉妬するでもなく、慇懃に丁寧にもてなしたので、却ってホステスさんは、奥さんは怖い、と慌てて帰ったという。

思えばひさとはる子は、全く違う性格と生き方をしている。ひさは常に愛に生き、男に頼って生きた女性。はる子は、自立し、屈強で何事にも負けないハンサムウーマン。

そのひさが永眠したのは昭和三十三年 十一月四日。 六十二歳だった。その日ひさはテレビ番組の「私は貝になりたい」を観ていた。フランキー堺が主演で、善良な男が徴兵され、上官の命令で捕虜を殴り、戦後、裁判にかけられ、その罪で死刑になるというストーリーは、当時とても話題になった。

「もし生まれ変わったら、静かな海にすむ貝になりたい」

と主人公が語るそのドラマに、ひさはショックを受け、倒れたのだ。心優しいひさは、その戦争の矛盾、虚脱感に堪えられなかったのかもしれない。ひさはそのまま眠るように亡くなった。

昭和三十四年四月十日、皇太子明仁親王殿下(今上陛下)と正田美智子さんのご成婚とオリンピックの好景気で、爆発的に家電が売れる時代にが訪れた。おりしも戦後の高度成長期で勢いに乗り、浅夫の経営する山一産業株式会社は、はる子の協力もあって、四谷に新宿道りを挟んで60坪のミズキビルと山一ビルを所有し、下落合に二百十坪の自宅、店舗も練馬などに十店を数え、社員三百五十人を抱える会社に成長していた。「電気デパート山一」をキャッチコピーに、テレビコマーシャルやテレビショッピングなども手掛け、全国一のビクターの代理店として繁栄。浅夫とはる子は、一気に階段を上り詰めていく。

 ミズキビルの二階と三階には芸能プロダクションの太田プロが入居していて、当時、お笑いタレントだったビートたけし、山田邦子や片岡鶴太郎、たけし軍団とよばれるそのまんま東などがいて、ビルの前に山田邦子のピンクのロールスロイスが止まっていたり、近くの横断歩道でそのまんま東が人を脅かしたりと、賑やかな話題に事欠かなかったが、たけしが軍団を引き連れて出版社を襲った事件はフライデー事件と呼ばれ、特に大騒ぎとなった。右翼の街宣車が毎日何度も訪れ、スピーカーで「たけし、出てこい」などと怒鳴りたて、ビル内にテナントとして入っていた会社は電話の会話も聞こえ無いくらいで迷惑していたので、浅夫もどうしたものかと頭を抱えていた。

ある日、いつものように街宣車が来てそのあまりの煩さに窓から下を覗くと、だれか中年の女性が、街宣車に向かって怒鳴っている。右翼とやりあっているのだ。

「威勢の良いおばさんがいるもんだな」

と思って下におりてみると、それは何とはる子であった。

こうして二人は協力し合い、会社の繁栄とともに家は裕福になっていったが、はる子と浅夫は対照的な暮らし向きをしていた。

はる子は子供の頃に、モダンな料亭育ちであったことから、衣食住にもこだわりがあり、何もかもが高級好みだった。

美容院は二日に一回、服は当時流行ったグループサウンズのジュリーこと沢田研二が注文している新宿の「富士ストア」というブテイックですべてオートクチュール。宝石は、当時一番店審美堂で購入。ハンドバックも靴も全てブランドの一流品。そのころ下落合に家があったが、はる子の部屋のクロゼットは、まるでハリウッドスターのように大きく悠に二十畳はあり、その中にずらりと並ぶバッグ、服は見ものだった。

伊勢丹に週三回は通っていたので、きちっと布がかかって整理されたハンガーが数十ずつ、シャネル、バレンチノ、ソニアと分けられて並んでいて、靴もフェラガモだけで六〇〇足もあった。バックもグッチ、フェンデイなど、数十ものクロコやオーストリッチが綺麗に箱に入って並んでいた。下着もハンロしか着ない。

口も料亭の娘だけに肥えていて、自分で作る料理も家庭料理ではなく、レストランでたべるような高級素材のもので、得意料理は洋食寿司。酢飯にいくら、キュウリ、チーズなどをトッピングして、マヨネーズで飾ったパーテイ料理だった。また、商人の娘だけにけちけちしたことが大嫌いで、水野家の栗ご飯などは、釜の蓋を開けると栗でご飯が見えないくらいなのを良しとしていた。

 一方浅夫の方は、もともと瀬戸の貧しい瀬戸物屋の息子だったので贅沢の仕方が判らず、電車で通勤し、西武新宿から下落合までの二駅の間に、ワンカップ大関を一瓶買って飲むのを楽しみとしていた。子供の頃高くて買えなかったアイスクリームやバナナを買っては、土産にするのがせいぜいの贅沢だった。

実家の瀬戸では、浅夫は当時町一番の出世頭であったので、唯一実家に帰るときだけは沢山の土産を持って帰った。お寺に鐘を寄贈すると親戚に言ってしまったことがあり、それをはる子に咎められると、台湾に旅行した折、台湾の鐘を買って帰り、税関で詰問されたということもあった。その話は旅行社内でも笑い話になっていると聞く。

また、浅夫の会社は、当時ビクターの日本一の代理店だったためビクターの犬の置物「ビクター君」 は、浅夫の実家の瀬戸物屋を使ってもらい製作していた。煮干しの頭を残して殴られたという貧しい少年時代から出世した今を、実家の家族や近所の人に自慢したかったに違いない。

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