第4話 軍人嫌い
その後料亭だった家でひさと一緒に住んでいたが、日本はやがて軍国主義一色に染まり、戦争の気運が高まっていった。
昭和十六年(一九四一年)十二月の日本は真珠湾攻撃を開始、ついに戦争に突入する。女学校を出るとはる子は東芝に勤めていた。世の中は「欲しがりません勝つまでは」のスローガンで、地味、倹約を良しとしたが、彼女はひさの着物をほどいて、自分で裁縫して作った白のスーツに白い帽子をかぶって通勤した。「非国民」と陰口をたたかれたリしても、一向に気に留めなかった。やがて報道では、日本優勢が常に伝えられていたが、状況が芳しくないと感じることが多くなってきた。実際、彼女は女学校の教師からこっそり、日本は負けるよ、と聞いていたのだ。
昭和二十年七月十七日、沼津の家にいると、頭上を光の粒が大量に通過するのが見えた。見るとやがて、光の粒からは、黒いものが落とされ、落ちた場所から、花火のような火の粉が無塵に舞い散った。沼津は空襲に見舞われたのだ。
はる子の家も料亭も火に包まれた。まま父の軍蔵ですら、はる子がしっかり者だということを認めていたのであろう、その時、預金通帳や不動産の登記書などの包みを、軍造はひさではなくはる子に持たせたのだから。空を見上げると、低空飛行をしている米軍機のB二十九を操縦している人の顔までもがはっきりと見えた。
「見ないほうがいいわよ」
とひさが声をかけたので、包みを肩にかけたはる子はいったん地下室にのがれ、後からすでに空襲で燃えうていた山に走って逃げた。二度は同じ場所に落とさないだろうと思ったのだ。山に逃げたひさとはる子は何とか助かったが、海に飛び込んで逃げた人は海から顔を出した瞬間に狙い撃ちされたという。
向こうの山のほうを見ると小さな灯がいくつも見えた。何だろうと目を凝らして見たが、どうやらそれは、人が死ぬときに燃えるリンだと解った。
その夜、はる子は命からがら、修善寺の生みの父のいる家まで歩いて訪ねた。だが戦時下にすでに9人の子供を育てていた実家も、何もはる子にしてやることは出来なかった。はる子はそのまま、歯を食いしばって、夜の道をとぼとぼと歩いてふたたび沼津の焼け焦げたあばら家に戻った。八畳ほどの地下室で呆然としていると、
「ねえさん、無事でしたか」
と、近所の道路工夫の若者たちが心配してきてくれた。誰とでも気軽に話しをするはる子は、彼らとも親しくなっていて、日ごろから子分のようにしていたのである。その後彼らは畳3枚と米を持ってきてくれ、焼け跡に一つだけ残っていた黒焦げのやかんでその米を炊いた。
トタンでふたをした屋根の隙間から、星が見えた。畳の上に敷いた布団ひとつでも寒さは感じなかった。はる子はこの時も、涙を見せなかった。
はる子は、焼け出されてからも東芝に勤務していたが、そのころ会社は戦争のための陸軍造幣局へと変わっていた。陸軍大尉が上司になり、何事にも高圧的な態度だった。軍国主義だったこの時代は、軍人と言うだけで絶対服従させられ、一般人に威張る人も多く、彼女は反感を持つようになる。当時は女性の権利も認められておらず、雑用を女性がやらされるのが当然とされていた。仕事が誰よりもできたはる子は、普通の女の子が頼まれるようなお茶出しなどの雑用をことごとく嫌い、反発的な態度を取るようになる。
空襲から間もない八月、配属された軍人さんのお世話係りをするように、陸君大尉から言いつかったはる子は、
「それは私の仕事ではないです!」
と言って、反対側の雑用を頼みにくい席に勝手に移動してしまった。それに気づいた上司は、怒り、
「言うことが聞けんなら、明日から来なくていい!」
と、はる子にクビを言い渡した。
家も焼けてしまってさらに仕事も無くなったはる子はふてくされて、翌日あばら家でぶらぶらしていると、どこからともなく天皇陛下の玉音放送が聞えてきた。まさにその日が、昭和二十年八月十五日、終戦の日だったのだ。
敗戦で日本中が悲しみに打ちひしがれていただろうこの日にはる子は
(ざまあみろ!)
と思ったと言う。軍事主導で人の命や自由が奪われる戦争も軍人も大嫌いだったと語る。
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