7
私の肩で休まれた後、姫様はピクニックシートの上で仰向けになられ、すやすやと寝息を立てられはじめました。
優しい風が芝草を揺らしながら吹き抜けていきます。頭上では、桜の枝でヒヨドリが鳴いてございます。広場を駆け回る子供たちの声。絶え間ない車の走行音。電車が鉄橋を揺らす音。
私も少し眠気を覚え、欠伸を漏らしました。姫様をお守りするのが私の役目でございます。姫様をお屋敷にお送りするまでは、意識を手放すわけにはいかないのでございます。ございます、ございますと、自分に言い聞かせるも、瞼がだんだん重くなって参りました。
――
どこか遠くから、あるいは自分の中の深い部分から、あの方の声が何重にもこだまして聞こえてきます。
あの方を思い出す上で最も確かな、よすがのようなもの。
それがあの声でございました。髪や目の色さえ変わっていくあの方、喜怒哀楽を越えてあらゆる表情を見せてくださったあの方が私の心に打ち込んだ楔が――
不意に、懐かしい歌が耳朶をくすぐりました。記憶にしてはやけにはっきりとした、幼いソプラノの歌声。
はっと気づくと、姫様が隣で仰向けになられながら歌われているのでした。幼いソプラノが、異国の女に心乱される男の心情を歌い上げているのでした。
「そんな不思議そうな顔しなくてもいいでしょ」歌い終えると、姫様は逆に驚かれたように仰いました。「あなた、よくこの歌を口ずさんでるじゃない。それとも、どこか間違えてた?」
自覚がないわけではありませんでした。しかし、姫様がこうして真似られるほど耳にされる機会があったでしょうか。
「ずいぶんと情熱的で、破滅的な歌よね」姫様はおもしろがるように微笑まれました。「
姫様は仰向けになられたまま、続けられます。
「
どうでございましょう、と私は心の中でお答えしました。
姫様は確かにあの方の面影をお持ちですが、姫様はあくまで姫様なのですから、と。
あの方がお亡くなりになられた後、王家の血を引く子供は姫様お一人となりました。
当時一歳の姫様は、いまよりもずっと明るい瞳をしておられました。
自分はずっとむかしにも同じ色の瞳と出会っているのでしょう。記憶にないだけで、あの方もこのような瞳で私を見つめてくださったことがあったのでしょう。
お屋敷の中でお目にかかる度、そのような考えが頭をよぎるようになりました。
お屋敷の使用人になる、という決意を両親と旦那様方に伝えたとき、すぐに賛意は得られませんでした。冷静になって考え直すよう諭され、あの方の死に責任を負う必要はないと何度も言い聞かせられたものでございます。
このときばかりは両親も私の「好き」にはさせてくれず、私はそのまま受験勉強を継続することとなり、志望していた大学も受験いたしました。進路選択の自由が認められたのは、合格通知を見せた後のことにございます。
――後は好きにしなさい。
それが両親の狙いだったのでしょう、勉強に打ち込むうちに少し落ち着きを取り戻していた私は予定通り大学に進学することにいたしました。それと同時に、両親から後継者としての指導を受けることにしたのです。
お屋敷で成長される姫様の姿に、わたしはあの方の面影を探そうとしました。徐々に言葉を覚えられる姫様、廊下で歩く練習をされる姫様、飼い猫とお戯れになる姫様、バレエ教室に通いはじめられた姫様に。
同級生が就職活動で慌ただしくなってきた頃、私は改めて旦那様にお雇いいただくよう願いましたが、それはやはり逃避だったのかもしれません。モラトリアムの引き延ばしだったのかも。姫様の中にあの方を見出だすまでの時間稼ぎだったのかも。
しかし、その頃にはもうわかっていたのです。時間の歩みはいつも一定であり、姫様が成長すればするほど、同じ年頃のあの方の記憶も遠ざかっていくのだと。そして、かろうじて残っている記憶でさえ姫様とあの方の違いを浮き彫りにするだけだと。
私は姫様を見下ろすことしかできません。あの方のときのように、同じ目線の高さで歩むことはできないのでした。
「思ったより疲れちゃったわ」姫様は仰いました。「そろそろ帰りましょう」
姫様は私を見上げてございます。これから失われるであろう色の瞳。ゆっくりと宵闇に沈んでいくであろう瞳。いずれ、私のそれと変わらないまでに暗くなるかもしれない瞳。
その瞳に向かって、私は申します。
「ええ、そういたしましょう」
あの方はもういない。その事実を私はこれからもゆっくりと噛み締めていくのでございましょう。
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