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イイスス・ハリストスの復活を
だから、なのでございましょう。姫様はその日、私を伴って桜草を見に行かれることにしたのでございました。
――何の予定もない日に見に行ったんじゃただのお散歩よ。そんなのもったいないじゃない。いつも言ってるでしょ。わたしは家出がしたいの。だから、復活大祭の日がいい。
姫様はおもちゃをねだる子供のように仰いました。それは、この半年ほどの間に見せるようになった、姫様の新しい一面にございました。それまでの姫様は、たとえばクラシックバレエやロシア語のレッスンをサボタージュすることはあっても、その代わりに何かしたいことがあると積極的に主張されることはございませんでした。
――いいわよ、別に。お父様たちについていきたいんだったらどうぞご自由に。わたしは一人でも行くから。
それだけはなんとしても避けなければなりませんでした。私は降参し、復活大祭に姫様とちょっとしたピクニックに出かけることを了承したのでございます。
――じゃあ、決まり。お弁当用意してね。
姫様はお顔を綻ばせになりました。
復活大祭は、列島を高気圧が覆い、絶好の行楽日和となりました。姫様と私は旦那様や奥様が礼拝の準備される中、裏口からこっそりとお屋敷を抜け出し、国際興業バスを利用して荒川を目指したのでございます。
思えば、そのとき姫様はすでに家出や桜草の見物以外の意図をお持ちだったのかもしれません。
それとも、たまたま桜草の群生地が川の近くにあったから、不意に姉君のことを連想されたのでしょうか。物心つく前に亡くなられた実の姉君を。川で溺れたとだけ聞かされている、あの方のことを。
――ロシア語の練習。
姫様は桜草をひとしきり鑑賞されてから仰いました。
――
そうして、幾らか会話を交わした後、御自身の姉君について尋ねられたのです。
「
その日の姫様は七分袖のブラウスにシフォンスカートを召されていました。カエデ材の杖を左手でお持ちになったまま立ち止まり、視線は桜草に向けられてございます。
「
風が吹き抜け、桜草を揺らしました。姫様は栗色の髪を耳にかけ直しながらも、虹彩が目立つ淡い瞳で私を見つめてございました。
あの方も、姫様と同じ年の頃は同じ色の瞳をされていたのでしょう。年を経るごとに暗くなっていく、髪と瞳の色。共に成長する中で、私はふとした瞬間にその変化に気づき、生命の神秘を感じたものです。
――白人の特徴なんだって。ほら、キトン・ブルーって言って、子猫も生まれたときは目が青いでしょ。でも、だんだんと暗い色になる。わたしたちもそれと同じ。うちはもうほとんど日本人の家系だし、わたしが大人になる頃にはあなたと変わらないくらい真っ黒になってるかも。
まだ幼かった頃、あの方はわたしにご教授くださったものです。
――わたしの子供、あるいは孫の世代になれば、きっと見た目はほとんど純日本人と変わらないでしょうね。曾祖母様がこの国に持ち込まれた色は、いずれ消えてなくなる。
その色がどのようなものだったか、もはや知る術はございません。カラー写真が普及したのは、姫様の曾祖母様がすっかりお年を召され白髪となった後のことでございました。老年に撮られた写真はすでに退色し、重く垂れ下がった瞼の下にある色を窺い知ることはできない――そう聞いてございます。
尤も、いまやスマートフォンにその名前を入力すれば、在りし日の
しかし、それはまだ皇帝陛下御一家が革命軍によって殺害される前、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ大公女殿下が歴史の表舞台から姿を消す前のことにございます。
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