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別所は大宮台地の南端に位置する町にございます。別所沼を擁する閑静な住宅街。お屋敷はその一角にございました。
私はお屋敷に住み込みで仕える使用人の家系に生まれました。その数ヵ月後、あの方がお生まれになったのです。
お屋敷の方々――あの方や旦那様と奥様、当時健在であられた大奥様が外国の高貴な血を引いている、という事実は私が思春期を迎えるまで伏せられていました。それまでは、単に「ロシアの血が入った名家の方々」という認識だったのでございます。
とはいえ、あの方は私よりももっと早い段階でその事実をご存じだったようで、冗談混じり、といった調子で「姫」や「ロマノフ朝の末裔」を名乗っておられたものでございます。
後に「お転婆」とも証言されるアナスタシア様に似られたのか、あの方は活発で、束縛されることを嫌うお人柄でございました。よく悪戯に私を巻き込んでは片棒を接がせようとされたものでございます。
そのような方でしたから、ご自身のルーツについて暴露されたところで、まともに取り合うご学友はございませんでした。
――それは冗談半分にもなるわよ。そもそもわたしが半分くらいしか信じていないんだから。
私があの方の素性を知って間もない頃、そう仰られました。
――アナスタシアという名前は、「鎖の破壊者」とか「復活」って意味があるんだって。そのせいか、むかしから生存説が囁かれてきた。われこそはアナスタシアって名乗り出る人もいたくらい。
その代表的な例がアンナ・アンダーソン氏でございました。没後、DNA鑑定でロマノフ家との関係が否定されるまで、自身がアナスタシア大公女殿下たることを訴え続け、世界を巻き込んでアナスタシア生存説を煽るきっかけを作られた方でございます。
――でも、そんな神話はもはや成り立たない。ロマノフ朝を滅ぼした
私は同意いたしましたが、一方で、お屋敷の方々にそのような嘘をつく理由がおありになるとも思えませんでした。お屋敷の方々は、アンダーソン氏のように自ら王家の血を喧伝することもなく、むしろ慎重に隠しながら、埼玉でひっそりと暮らしておられるのです。
――そう、わたしもそれがわからないの。曾祖母様は一家の処刑を担当した
アナスタシア様は反革命勢力の助力によって祖国から逃れた後、東京で親露家の華族に匿われ、その三男とご成婚、関東大震災の折りに被災され、御夫婦で別所に移られたとお聞きしております。
――なんにせよ、曾祖母様がロシア人だったのは本当なんでしょうね。祖母様もスラヴ系の顔立ちだったし、お父様も言われてみればそう見える。たぶん、わたしも。革命で地位を追われた貴族はいくらでもいたし、その誰かが王家を騙っただけかもしれない。いまとなっては誰にもわからないでしょうけど。
記憶も記録も風化するものにございます。それは、あの方のことを思い出そうとするとき、何よりも痛感させられることでございました。
――
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