望むまま請われるまま

夜辺

お仕舞いの話


お嬢様の髪は美しかった。

毎日お世話してもこれっぽっちも飽きない輝きは、特別な宝物にほんの少しだけ触らせていただくのを許されたかのような心地をもたらして、私はそうっとそうっと毛束を持ち上げて鼈甲の櫛を滑らせる。

異国の血を引く美しき御方が持つ黄金の絹糸は、朝の陽を浴びても赤く染まる夕陽を纏っても美しかったけれど、今日のように静かな夜は殊更きらきらと、手の届かぬように瞬いている気がして、私は光を含むそれを手の内に収めていることが毎晩のまぼろしではないかと、寝床の中で見ている夢なのではないかと、時折疑わしく思えてしまうのだった。

所詮は色が違うだけで同じヒトの毛髪だと断じるには触れた感触すらしっとりと水気を含んで、少し力を込めただけで傷がつきそうなほど一本一本が柔らかで、私の乾いた硬い髪とはまったく違っている。


「お前は本当に、私の髪を丁寧に扱ってくれるわねえ」


お嬢様が鈴のように笑い声を響かせて、私はハッとして夢中になっていた黄金から目を上げる。

彼女は先程まで伏せていた翡翠の瞳をぱっちりと開いて鏡越しにこちらの様子を眺めていて、その瞳にまた見惚れてしまいそうになるのを観察されていた羞恥が押し殺す。


「申し訳ありません。いつも時間をおかけして。……あんまりお美しい髪なので、いくら手入れしても足りぬように思えるのです。お嬢様が時間が掛かりすぎて嫌だと仰るのであれば、これからはもっと手短に出来るよう努力します」


「嫌だなんて言わないわ。私はね、お前に触れられると自分がいっとう上等なものに思えるのよ。この身体がすっかり可愛らしいお人形に変わったような、そんな気になれるの」


緩く目を細める姿は彼女自身が言うようにまるで可愛らしい人形が動いているかのようで、それを私がただ勘違いしているように仰るのはお嬢様がご自身の美しさ、ひいては特別さを自覚していないだけだ、と内心で呟く。

異国に行けば金の髪も緑の瞳もさして特別ではないのかもしれない。

けれど、どんな金色も、緑色も、彼女の目の前に並べられてしまえばすっかりくすんで光を失うに違いないのに。


「お前に触れられるのが好きよ。お前に触れられる、自分が好き」


着物の袖から覗いたささくれ一つない滑らかな指が、髪を持ち上げたままの私の手をなぞる。

愛しげなその動きと微笑む唇に、私は頬が熱くなるのを自覚する。

私の心臓はいつでもしっかりお嬢様に握られてしまっているから、彼女にとってはゆるりと指先を動かす程度の動作でも、私には殺されてしまいそうなほど強く響く。

だからその小さな指先によって、今日一日言うか言うまいか悩んでいたことさえ簡単に口から零れ落ちてしまった。


「お嬢様、お家を捨ててくださいませんか」


ずっと悩んでいたはずの、それこそ死ぬほどの一大決心でなければならないのに、音にすればなんと軽々しく安っぽい言葉だろう。

一介の使用人のあまりにも不遜な言葉にお嬢様は緩めていた唇を引き締めたけれど、指先はもう一度優しく私の表面を撫でてくれた。


「……家を捨てて、どうすると言うの」


「少なくとも、望まぬ婚姻は避けられます。どうか、私と一緒に来てください」


続けた言葉はむしろ、重々しくなりすぎたように思えた。

冗談とは取り繕えぬ重さを持ったことに私は安堵さえ覚えて生きた心地を取り戻す。

お嬢様にも冗談だろうと切り捨てることが出来ないと、引っ込められた指先に確信を得られたからだった。

私もお嬢様の髪から手を引いて、睫毛が白い肌に影を落としているのを黙ってじっと見つめる。


「お前となら、何処までも行けてしまえそうね」


肯定のような言葉に思わず息を詰めたけれど、お嬢様がゆっくり優しく微笑みながら振り返ったのを見て、嗚呼と悟る。


「ダメよ。いけないわ」


言い募ろうと唇を震わせる私を、優しい微笑みのまま首を振って彼女は拒絶した。

お嬢様が駄目だと仰るのならば、私に出来ることは何にもなくなってしまった。

惨めたらしく懇願する事は出来ても、何故と問うて彼女を説得することは出来ない。

家を捨てて逃げたとて、碌な目に合わないことは私もお嬢様も承知しているからだ。

金の髪も翡翠の瞳も、この家の外ではあんまりにも輝きすぎて、すぐに見つかって連れ戻されてしまうだろう。

連れ戻されたお嬢様は婚約を嫌がって使用人の女と逃げたという醜聞を背負って、おまけに適齢期から少し過ぎてようやく見つかった婚約者を逃しでもすれば、家での立場も失うはずだ。

もちろん私だってただでは済まない。お嬢様がその変わった毛色ゆえに家で鼻つまみ者にされているとはいえど、高貴な御方を誑かすのだ。この家の今までを思えば、命が繋がれば幸運といったところだと思う。

たとえ運良く逃げ果せたところで女が二人、しかも片方は異国の色を持つ女となれば、良くて行き着く先は身体を売って生活する程度であろう。

わかっていた。全てわかっていて、逃げてくれと言った。

私はこの人の幸せを願ったわけではない。

破滅してくれと願ったのだ。

愛しくもない男に嫁ぐくらいならば、貴方を愛する私と一緒に地獄に来てくださいと請うたのだ。

もちろんこの御方がそんな私の自殺行為に付き合う謂れは一切なく、断られてしまった。

歳の離れた男に嫁ぐことを憂い続けている今の彼女であれば私の地獄にさえ来てくださらないかと、誑かされてくれないかと、元より成功する見込みはどこにもない分の悪い賭けだった。

赤子のように無垢で柔らかい手が、毎日の仕事で硬くなった私の手を壊れもののように、優しく優しく包み込む。

まるでお嬢様に触れる私のような手つきだと、そう思った。


「お前にはね、幸せになってほしいの」


「お嬢様のいない幸せなど、私には考えられません」


「考えられなくたっていいわ。私は嫁ぎ先で、お前が幸せになったと信じたいだけだもの」


本当に幸せを願っているわけではない、と言わんばかりの冷めた声音に手の震えが止まった。

まじまじと見つめる私に、お嬢様は翡翠の瞳をゆっくりと細めて囁いてみせた。


「ね、私達って案外よく似た主従だったと思わない?」


共に地獄に堕ちてほしいという懇願さえ彼女は全てわかっていて否定したのだと、巡りの悪い私の頭はようやく理解して、本当に馬鹿な誘いを持ちかけていたと悟る。

そうだ。私に出来ることといえば、この人に握られた心臓を痛め、美しさに誑かされ、狂っていくことだけだった。

それは、最初から最後までそうなのだ。私にあるのは、これだけ。

幸せになります。お嬢様が望んでくださるならば。

ぼんやりとした喪失感に蝕まれながら心にもない空言を呟けば、嬉しそうにお嬢様は微笑んだ。

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望むまま請われるまま 夜辺 @umiumuume

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