第3話 慟哭

帝国領 国境の山脈 麓 国境騎士団駐屯地『村』




「カシム殿、カシム殿!」


 誰かの声が聞こえる。

 赤く染まった視界の向こうから、誰かが呼びかけてくれている。

 母さんなの……か?

 でも、母さんはそこに倒れているよ……?


 貴方は、一体誰なの……?


 僕は……いや、私は……


 君は……。


 心配そうな表情でこちらを見つめているパトリシア。


 無意識にその頬に触れてしまう。

 少々戸惑った様子を見せるパトリシアだが、すぐに何かを察したように私の指に手をそっと添えてくれる。


「す、すまない……」


 その時の私の顔はきっと、真っ赤だったのだろう。

 恥ずかしくてパトリシアの顔を直視できなかった。

 

「いいえ……何か、怖い夢でも見たのですか?」


「……え?」


「泣いていらっしゃるから……」


 本当だった。

 自分の頬を一筋の涙が流れていた。

 夢で見た母親の姿と眼前のパトリシアの姿が重なる。

 歳も違う妙齢の女性に、母親の面影を見るなど失礼だ。

 私は必死に感情を抑えようとした。


「大変失礼な事を考えてしまった。許してほしい」


「いえ、私は神殿騎士であると共に、教会のシスターでもあります。宜しければ……貴方の心の内を聞かせてください」


 私にとって、その時の彼女の微笑みは生涯忘れられないものだろう。

 全てを許すような一片の曇りもない、微笑。

 私の心を癒すように向けられる献身の言葉。


 まさに……聖母……の様だった。


「実は……」


 起き上がり、彼女に向き直ると、私はありのままを語った。


 



 私の記憶する全ての過去を話し終えた。

 過去といっても、あのおぞましい記憶以外は、私の心から消えてしまっている。

 

 喋れる事など、大して多くはない。

 だが、全てを話した私はどこか、ほっとしていた。

 

 彼女に嘘はつきたくない。


 そう、思ったからだ。


 

 私が話し終えると彼女は泣いてしまっていた。


「カシムさん……お辛かったでしょう。 私では、貴方の母にはなれません……ですが、貴方が悲しい時には、私はシスターとして、喜んであなたの涙を受け止めましょう」


 彼女は私の頭を胸に包むように抱きしめてくれた。

 衣服ごしに彼女の暖かいぬくもりと安らぎが伝わってくる。

 私の中の抑え込んでいた悲しみの理性が外れたようだ。


「っ~~!」


 泣いた。

 本当に久しぶりに声を殺して泣いた。

 見張りの交代の時間が来ていることも忘れて泣いた。


 妹や父上にすら、こんな涙を見せたことはない。

 彼女はゆっくりと私の髪の毛を撫でてくれている。

 

 そっと、そっと、壊れ物を扱うかのように…… 


「副隊長~~お待たせしました」


 兵舎の入口からヨハンが窮屈そうに、身を屈めて出てこようとしていた。

 私は恥ずかしさのあまり、彼女から離れようとするが、彼女が私を放してくれない。


「す、すまない。ヨハンが来てしまう!」


 もぞもぞと胸のあたりで顔を動かすせいで、彼女が困ったような顔をしながら、ようやく放してくれた。


「カシムさん……えっち」


 不可抗力だ!と抗議したいところだが、事実は事実。


「申し訳ありません」


「フフフ……冗談ですよ」


 ニコニコと笑顔を見せながら、彼女が微笑んでくれる。

 あんな過去を聞かせてしまったというのに、本当にこの人には敵わない。


 私達が笑いあっているのを、ヨハンは事情が呑み込めず、キョトンと見つめていた。


 

 そんな風に、緊張感が緩んだ時だった。


「うわあぁぁぁ!!!」


 村の奥にいた見張りが叫んでいた。

 その声は、私達の背筋をゾッとさせるのに、十分な迫力があった。


「何だ!?」


 私達は立ち上がると、そちらに動こうとした。

 声を発した騎士が慌てて、こちらへと走ってくるのが見える。


「ば、バケモノ!!!」


 化け物だと……?

 あれだけ探しても何もいなかったこの村に、何かがいたというのか?

 逃げ込んで来た騎士は、彼女の足元まで来ると腰を抜かしてしまっている。

 物見櫓にいたであろう、弓兵達が慌てて、奥の物陰に向かって弓を構えているのが見える。


 ザッザッザッ……



 砂利の地面を、足を引きずるようにゆったりと、ソレは現れた。



 八尺はあるかという高い背に、黒くごつごつとした歪な肌……バラバラの長さの歯は鋭く、口は大きく裂け、目は血走っており、獲物を探すかのようにぎょろぎょろと辺りを見回している。


 一目見て思った。


 これを見てはいけない……と。


 見れば見る程恐怖に呑まれてしまい、殺意が止められなくなりそうになる。


 恐ろしい……殺される?

 

 殺されるのなら……先に殺してしまえばいい。


 そんな、どす黒い感情ばかりが、心の奥底から溢れ出してくる。


「なんとおぞましい異形……!」


 対峙するパトリシアは、腰に下げた剣を抜こうとしている……が、その手はブルブルと震えていて、上手く抜けないでいるようだ。

 

「パトリシア殿……下がっていてください」


 魔物と対峙する。


 手にした騎士剣を構える手が震えているのが分かる。

 

 武者震いという奴だろうか。

 見たこともない魔物を相手にするのだ……当然といえば当然か。


「……ふぅ……」


 すーっと息を吐き、心を平静に保っていく。

 

 周囲の音が遠ざかり、感覚が研ぎ澄まされていく。

 体の震えは止まり……やがて自然と使い慣れた型を執る


 自らを雄牛だと思い込むように腰を落とした。

 両手で構えた剣は腕を交差させ、自らの角のように魔物へと切っ先を向ける。

 今にも突撃しかねないような、攻撃態勢……Ochsオクスだ。


「カシム殿……」


 背後から聞こえるパトリシアの声に弾かれるように、私は大地を蹴った。


 魔物との距離はおおよそ、十五尺ほど。

 

 その僅かな距離を刹那の如く、一点の迷いもなく進む!

 

 獲物がどれほどの強度だろうと……必ず倒してみせる!

 

 魔物に接敵する刹那、刃を水平に倒し、スイングした斬撃へと変える。


 自らが斬られる瞬間だというのに、魔物は微動だにしない……


 反応できなかったのか?

 そう、考えたが動かないのなら好都合、このまま切り裂けば良いだけだ!


 

 魔物の身体を右側面より切り裂いた。


 見た目以上に、その感触は柔らかい……魔物というよりは。



 



 奴隷解放戦争で斬った人の感触に酷似している。





 そんな気がした。






「ぎゃああぁぁ!!!」


 人の声に似た奇声を上げ、魔物の胴体は分断された。

 残った下半身から大量の鮮血が噴き出している。

 ドサリと魔物は崩れ落ちた。


「……」


 剣についた血を振り払う。

 月光を浴びた白銀の刃に写るその血はだ。


 赤色……?

 この世界の魔物は全て、紫の血だったはずだ。

 赤い血の魔物など聞いたことがない。

 

「お見事です。カシム殿」


 パチパチとパトリシアが賞賛してくれている。


「……」


 言い様のない不安感を覚えながら、後ろを振り返った時。


「!?」


 パトリシアの背後にが立っていた。

 ニタァと気持ちの悪い不敵な笑みを浮かべている。

 

「パトリシア殿! 逃げるんだ!」


 大声で叫ぶ。


「パトリシア殿!」


 傍にいたヨハンが慌てて、割って入るのと、魔物の異常に鋭く尖った爪が振り下ろされるのはほぼ同時だった。

 

 ガキィン!


 と、音を立てて、白銀の刃に漆黒の爪が食い込む。

 

「ヨハン殿! 弓隊、魔物を撃ち抜きなさい!」


 物見櫓から狙いをつけている弓兵にパトリシアが命令を飛ばす。

 弓兵が引き絞った矢を放そうとした時。


 私は見てしまった。


 今まで、誰もいなかった弓兵の背後に……が音もなく現れるのを。


「なっ!?」


 私が驚く間もなく、大きく開けた口で、魔物は弓兵の首から上を丸呑みにした。

 弓兵は声を上げることもできず、バタバタと手や足を動かして抵抗している。

 だが、魔物が口を動かし始め、弓兵は激しく痙攣し始めた。

 やがて骨を噛み切ったのだろう……弓兵の首より上はなくなり、残された身体だけが、櫓の中で倒れた。


「どうしたのです!? 何故、撃たない!?」


 パトリシアの位置からは櫓が死角になっている為、見えないのだろう。

 だが……


 パトリシアの白い肌に血の雨が降り注いだ。

 先ほどの弓兵の血である。


「いやああぁぁぁ!!!」


 パトリシアは血まみれになり、恐怖で腰を抜かしてしまっている。

 一体、どうなっている!?

 今まで姿すら現さなかった魔物達が、突然次々に現れている。

 まるで、この瞬間を待っていたかのような配置。


 嫌な予感が脳裏を過る。

 

「ぐぐぐぐ……」


 近衛騎士団髄一の膂力を誇るヨハンが、押し負けている。


「ヨハン! 」


 すぐさま、援護に入る。

 二人の間に割り込むように、滑り込むと、渾身の力を込めて爪を弾く。


 ガキィン!と小気味よい音を立てて、爪を弾いた。


「……!」


 魔物はターゲットを私に変えたようだ。

 ぎょろぎょろとした瞳がこちらをじっと見つめている。

 

「お前の相手はこっちだ!」


 魔物を手で挑発する。


「ヨハン、パトリシアを頼んだぞ!」


 二人を背にする形で魔物と対峙する。


「確実に仕留めるぞ……」


 心を落ち着け、剣を正眼に置く……逸る気持ちが抑えられ、動悸が収まると共に自然と背筋と肘が張っていく……踏み出した左足の動きを起点に、一足飛びで魔物へと飛び掛かる……Vom Dachフォム・ダッハ


 冷や汗が滲んだ手で柄を絞るように、剣を切り下げていく。


「!!」


 剣が当たる刹那……魔物の爪が剣を受け止めた。

 

 なんという力……あれほどギリギリで受け止めたというのに、この力の入りよう。


 これは不味いな……

 ギリギリと押し合うが、どうあがいても不利だ。

 

「くっ……」


 剣の腹へと攻撃を当て、滑らす事によって、受け流す事に成功した。

 すぐさま、魔物と距離を取るも……真正面からではまた防がれるだけだ。


「カシム殿。パトリシア様は我々が!」


 兵舎にいたであろう、騎士達が騒ぎを聞きつけてきた。

 

「よし、頼む。ヨハン、いくぞ!」


 大剣を正眼に構えたヨハンに並ぶように立つ。

 先にヨハンが仕掛けると、私はタイミングをずらして援護に回った。

 

 大振りの大剣が空を裂き、魔物へと振り下ろされる。

 

 恐らく奴は剣を受け止めるだろう……だが、そのがら空きになった胴体に私が一撃を入れてやる!


 




 そう……なるはずだった。


 バキィン!


「っ……!?」


 まるで時間が減速したかのような一瞬だった。


 魔物の放った爪は硬度を増し、先ほどは互角だった大剣を貫いた。

 振り下ろした大剣ごしに、魔物の爪がヨハンの額に突き刺さる。


「が……は……」


 一撃で絶命したヨハンの腕は力を失い、だらんと垂れ下がっている。


「……」


 魔物は再度、あの笑みを浮かべた。


「ヨ……ヨハン!!!」


「ヨハン殿!?」


 背後からパトリシアの驚愕に満ちた声が響く。

 

 脳裏を過ぎ去っていくヨハンの顔。

 様々な訓練と任務の間に培った思い出。

 騎士団皆で笑いあっている姿。

 

 そんな光景が走馬灯の様に過ぎ去っていく中、魔物は爪を抜こうと、ヨハンの遺体を振り払うように投げた。


 大柄なヨハンの遺体が、夜空を舞う。

 

 ドガッという音と共に、ヨハンの遺体は近くの家屋の壁に叩きつけられた。


 

 その姿を見た瞬間に心の中にどす黒い感情がふつふつと湧き上がってくる。


 貴様……一体何をしている?


 だらんと一見隙だらけのようにみえる姿で魔物へと近づいていく。


 今、何をしたのか、誰を殺したのか分かっているのか?


 また一歩、近づく。


 魔物はニタァと笑ったまま、爪を振り上げている。


 瞳から自然と涙が零れていた。


 体中が震えるほどの激情がこみ上げてくる。


「この――化け物が!!!!」


 振り下ろされた爪を騎士剣で斬り飛ばした。

 

 爪を切り裂いた時の衝撃によって、魔物は後ろにのけ反り、魔物から初めて笑みが消えた。

 

「よくも、ヨハンを……貴様だけは……許さん!」


 魔物を仕留めるべく、渾身の力を以て剣を魔物の胴体に突き立てた!


「グガァァァ!!」


 初めて、この魔物の声を聞いた。

 この世のものとは思えない絶叫……聞いているこちらまでおかしくなりそうなほどの音だ。

 

「うわああああ!」

「きゃああああ!」


 背後の神殿騎士達も、この声に苦しめられている。


「うくっ……いちいち煩いんだよ!!」


 苦しむ魔物の胴体を、突き立てた剣で切り裂いた。

 硬い感触を渾身の力で切り裂き、紫の鮮血が宙を舞う。

 

「グガアッ!」


 最期の雄たけびを上げる魔物の胴を分断した時。


『ククク……よく我を倒したものだ』


 誰かの声が頭に直接聞こえた。


『褒美に貴様に地獄を見せてやろう』


 地獄だと……?

 貴様は――!?


 そう思った時。


「ギャアアアアアアアアアア!!!」


 背後の神殿騎士達が背筋が凍るほど恐ろしい絶叫を上げていた。


 パトリシアを囲むようにしていた騎士達が、それぞれ魔物によって、

殺害されていた。

 ある者は、体を切り裂かれ、ある者は頭を食べられ、あるものは力任せに身体を引き裂かれていた。

 私が脳裏に響いた声に気を取られていた間にである。


「あ……あ……あ……」

 

 鮮血と臓物を浴び、パトリシアの瞳の焦点はあっていない。

 完全に失神してしまっているようだった。


 魔物に囲まれたままのパトリシアの姿が、亡き母の最期と重なる。


 やめろ……やめてくれ……


 その人だけは!!


 魔物達がパトリシアに各々、爪を振り上げる。




「やめろおおおぉぉ!!!!」


 

 眼前が血飛沫で真っ赤に染まった。

 失神したパトリシアは声も上げることができないままに、全身を切り裂かれ、絶命した。

 

 私は全身から力が抜けるように膝をついてしまった。


 

 

 また……失ってしまった

 


 


 

 


 


 



  





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