第18話 信仰 vs 幻想
至極乱雑な前蹴りが、後ろからスペースをぶち抜いた。あたかも俺ごと敵を吹き飛ばさんとするように、拒絶の右足が突き出された。
人が吹き飛ぶ。殴りかかっていたもう片方の修道女は油断しきっていたらしく、下腹部に靴裏でスタンプを押されて最後列まで戻された。
ほんの些細な何かがズレていればそれだけで、というか彼女の機嫌がもう少しばかり悪ければ、俺の脇腹が巻きこまれていただろう。
実際スーツはざっくりと裂けている。敵の攻撃は避けられても、護衛対象からの奇襲はさすがに想定外だ。下手すればこちらが重傷だった。
だが、フィルアはにたりと口角を上げて回し蹴りの構えを取る。
危険だ。あの健脚の狙いは、俺ではなく。
「主の力のまがい物……そんなにたくさん背負ってて、無力なはずないよねっ!」
「っ、下がれ、還乃――」
「――今さら、今さら昔の呼び名をっ⁉⁉⁈ なんで、どうして、そんなにおそいの⁉」
俺は身体を投げ出して、シスターの足が薙ぐだろう軌道上に立ちふさがる。いや、立ちふさがったつもりだった。
「は⁉ 還乃、お前――」
護衛対象から強烈な力が加わって、世界が直角以上にがらりと傾いた。せめて視界だけ確保できるようにと、受け身も取らずに首を回す。
「アイドルのおねーさん、まさか、オレと一対一? この男に護ってもらった方がいいんじゃないの――っと!」
気軽に、かつ全身全霊で振りぬかれた美脚は、大気を割って雑音を生み出す。
痛いくらいのノイズを伴って、高速で動くローファーが
パシリと、乾いた破裂音がする。
「ちっ、オレの、蹴りを……」
「…………神殿さんを、わたしの、推しを、蹴り飛ばして――無事で帰れるわけない」
無言を貫いて、隠野還乃はそこに在り続けた。あと数センチというところまで肉薄した右足の脛を、
魔の手に捕まったフィルアは抵抗を試みているが、状況は変化しないまま。背に負った感情――彼女らの言う、借り受けた主への信仰だろう――を盛んに乱し、身体に注ぎ込んで膂力へと変換しているというのに、抗えてすらいないのだ。
その優位を支えているのは、人気
濃密な塊から触手じみた腕が伸び、暴れのたうって爆発する。もがいて爆ぜるごとに、肉体の軋みが明確に聞こえてしまう。悲鳴をあげているのはきっと両方の身体で、両者の表情からは莫大な苦痛が読み取れた。
彼女らの間に立ち入ってよいのか。踏み込めない。
双方が放つ不定形の力は周囲のシスターの足並みも鈍くし、軽率な介入を阻止している。逡巡する彼女たちの様子は、燃え盛る炎に怯える獣さながらだ。躊躇に足をとられた俺もその一員に他ならなかった。
――近傍に対する脅威そのものだと当人たちはつゆも知らず、鬩ぎ合いは続行されていく。
「っ、なんだよ、それ、その力……毎日祈ってるこっちがバカみてぇじゃんか……」
眼前の敵が乱雑に愚痴ろうと、
焦点すら敵に合っておらず、何故だか俺の方をじっと凝視していた。
俺が
勘違いだなんて思い違いを許可しない、力強い眼差し。
「こっちを――見ろっ!」
背負っている信仰の一部が弾け、少女の細腕へ注がれる。知覚限界を逸脱した速度で繰り出された張り手は手首を握られて阻まれ、ごきゅりという怪音を生み出してしまう。
相手が信仰から力を引き出すのに呼応して、還乃も身に纏う激情を迷いなく使用していた。それは
「――ひっ⁉ こ、のぉっ‼」
自身の中で一際反響した異音か、はたまた相対する人物の異常さか、フィルアが怯えたのも一瞬のこと。すぐに目つきが切り替わって、再度聞きたくもない音がする。それも複数回、ごきゅりがきゅりと。
そのまま、停滞していた光景が変わり始めた。
「はっ、はぁっ……まだだぞ、ここからが、オレの、ターン……」
獰猛な意志を瞳に灯して、フィルアは無慈悲な拘束から抜け出ていく。
唇を噛みしめた金髪ポニーテールの修道女と、どこか違和のある彼女の手首と足首を一目見れば、何を行ったかなど火を見るよりも明らかだ。
「主よ、オレに加護をっ!」
「……」
あらぬ方向にねじ曲がっていた少女の肉体は、信仰の光が触れるやいなや、健常の姿へと移り変わっている。奇跡の一端を賜った四肢は、即座に異教の
今度こそ、俺が止めねばならない。
一般人でないとはいえ、元担当に不審者の相手をさせているのだ。単なる少女に任せきりでは――
「だから、そういうのが不要なの! ――だって、わたしは、アイドルだから‼」
身体を起こしてフィルアへと吶喊したこの身体に、一喝が飛んでくる。と同時に、細い足が目の前に差し向けられ、振りぬかれた。
「わたしはやれる。ひとりで。あなたがそうしてくれた。そういうアイドルに磨き上げてくれた。そうなるように呪いをかけた。――最低の人」
右足の甲に一蹴され、吹き飛ばされる中、彼女は言う。
「ムカつくけど、本当に苛立つけれど、あなたが今助けるのはわたしなんかじゃなくて――現在の担当。それがわたしの知るあなたであり、わたしのす――っ」
「いい加減、オレの方を――」
「っ……大事なところで――邪魔。二度と立ち上がれないようにしてあげる」
超常によって強化された肉体と肉体がぶつかり合い、繰り広げられる聖職者と
還乃によって俺が蹴り飛ばされた先には、今の担当がいるから。
「はっ、はぁ……。――うわぁっ⁉ ははっ、どうしましたか
「危ねぇっ! ったく……」
生じた間隙に投げ込まれた鉄の槍を、アテナを押し倒すようにして何とかしのぐ。体面もなく地に伏す俺たちに降りかかるのは、高圧的な肉声だ。
「随分と不遜な名乗りをしておきながら、ひどく無様ですわね! やはり主の力に敵いはしないのだと、十分にご理解いただけたかしら」
「理知の神にでもある私にその言葉……笑わせますね」
「どうせなら勝って笑いなさいな」
「言われなくとも、そのつもりですよっ! 笑い声をトラウマにしてあげます!」
半身を起こすアテナの小さな手に槍が宿る。童女の小柄な体躯をうっすらと覆う、ごく少量の『斂想』が結晶化して刃を成す。
「その程度、まさに児戯ですわね」
対照的に、膨大な力を注ぎ込んで武具を生成するのはシルフィだ。アテナが扱う情動に比べれば、少女が借り受けた信仰は薄弱で頼りないが――量が断然違う。大気が黄昏に色づいたかと錯覚してもおかしくない。
広く薄く展開する信仰は、少女が属す宗教を象徴するかの如く。
「それだけ好き勝手に浪費して……あなたこそ主たる神とやらに、謝罪した方が良いんじゃないですか?」
「主の威光と寄せられる信仰は、我ら人の子になど到底使い果たせないほどに絶大なのですわ。乏しく貧しい似非信仰に頼る貴女には、分からないでしょうけど」
双方の手から離れ、槍の穂先がふたつ重なって音を立てる。互いの信念を削り取らんとばかりに生じる戦争の音色が、ライブハウス内を支配する。
落下を示す残響はなく、新たな得物の生成が始まっていて――アテナはいち早く準備終えていた。寡少ではあるが濃密な力を集め形成する童女に比べ、巨大な信仰心を圧縮しなければならない少女は、どうしても生成が遅い。
こちらの方が速い。うちの担当の方が優れている。
だが、力の差を埋めるのはいつだって頭数だ。戦いでも
「二人、援護をお願いできて?」
「「はいっ!」」
要請に応じてシスターが派兵される。余剰人員は勢い任せに攻めるでもなく、万が一に備えて待機しているのだから質が悪い。
突くべき油断や慢心が存在しないのであれば、
「担当
一組の片割れは両袖に仕込んだ鎌の暗器を閃かせるも、何とか俺が腕を抑えて阻止。
しかしもう片方がアテナへと迷いなく特攻し、速度の優位を相殺しようとする。
「このっ、邪魔ですよ!」
見惚れるような円を描く女神の回し蹴りを受けて、悪い冗談のように人影が飛んでいった。そのあしらうひと手間、一秒にも満たない時間が、シルフィの行動を間に合わせる。
それから演じられるのは、シンプルなデジャヴだ。
同質の音が鳴り、同種の生成をし、同じ反撃を行ってはまた聞き覚えのあるサウンドが奏でられるのだ。
「まったく、キリがないですね……」
「いえ、終わりはありますわ。ワタクシと、ワタクシの主にはなくとも――貴女には。前回だって、そうでしたでしょう?」
指摘の通り、アテナが有する信心はじわじわと削り取られていた。神々の存在を担保する人からの供物は、全て使い切ってしまえば終わりだ。
補充が出来るとすれば、新たに生まれた
「ええ、ええ、了解ですわ。――あってはいけないことですから、すぐに失くしてしまいましょう? 存在しない神の信仰者なんて、そんなものは」
シルフィは豊かな胸元に隠していた十字のロザリオを取り出し、口元に寄せてなにやら呟いている。その金のアクセサリーにも無形の光が纏わりついており、超常的なナニカであることは理解できた。
そして、数名の気配――多くの信仰を宿した人間たちが遠くから迫っている。主力にしてリーダー的な立場であろうシルフィとフィルアと比べれば相当に力の総量では劣るが、状況的には援軍と言うだけで最悪だ。この建物をぐるりと回って、裏から侵入する動き。
彼彼女らの狙いは、この場から避難した
「
「聞くな、行け! あとは任せろ。偶像は、
「はいっ!」
くるりと背を向けて、自らが誘導した
正しく望ましい光景だ。
「そう簡単に、行かせると思いまして?」
無防備な背に、刃が飛ぶ。
「そう簡単に、邪魔させると思うか?」
カァン‼ と鋭利な爆音が反響。振るった左手がひどく傷んで、かあっと熱を持つ。
俺の真横を通り抜けようとした長槍は地に落ち、真ん中から無残に砕けていた。
破砕されバラバラに散った欠片は光となって解け、跡形もなく消えた。入れ替わるかのように、赤毛の少女の手には武器がある。
「悪いな、もう少しだけ俺に付き合ってもらう」
「お断りしますわ! シスター・フィルア‼」
右足を思い切り踏み込み、トップスピードでこちらに迫りながら、シルフィは相棒へ呼びかける。加速と共に振るわれた鉄槍へと右手を伸ばすも手ごたえなし。五指から柄と穂先は逃れたものの、持ち手に右足をぶつけて勢いを削ぎ――舞台は至近距離の肉弾戦へ。
痛覚を超えて、気味の悪い高揚と赤熱の感覚がやってくる。戦闘で鋭敏になったこの五感は、多量の情報を脳に注ぐ。聴覚も、その内の一つ。
「了解っ、オレもそっちへ――」
「あの人の意識を奪うのは、わたしだけの権利なのだけど?」
「この、邪魔っ、なんだよっ! わけのわかんないこと、言うな!」
徒手空拳にしてはやけに鈍く、重い物音がしている。仲間の援護に向かうフィルアに合わせて、いつのまにか還乃も俺のそばにいた。
「昔からだが――ほんとに何でもできるのな」
「何でもできるように、したの。あなたがそうさせたでしょう? 覚えてないなんて、ほんと悪い人」
些細な軽口の間にも、長物が自在に振るわれる。一度カタチを解き、実体を消してからすぐに再形成。打物を奪取しようとする俺の手から、逃れるための一工夫だ。だが肝心要の胴ががら空きになって、そこに俺の拳が吸い込まれ――ない。
修道服姿の部下が盾になっているから、シルフィは無傷だ。
「信じる神のためっ、みなさん、奮起いたしましょうっ‼」
「信じる、そう、オレは信じる……神を、主を、オレは信じられるんだ……信じなくちゃなんない……」
上が叫ぶと、下が応じる。
彼女らの力の源が決壊して、とめどなく溢れて奔流を成す。
身代わりのみならず、互いが互いをカバーしあう攻勢に俺たちは無力だった。
数の暴力は如何ともしがたく、乱雑にして最適解であろう総攻撃を受けて奥歯が鳴る。
「アテナの、ところへは……っ!」
「神殿さんを、やらせは――っ‼」
強い思いこそが超常を支えているならば、やれることが、まだある。自分で自身への信仰を引き出せば、空っぽになるかもしれないが、まだこの場は支え――。
「こんなもんで終わらねぇぞ――がっ⁉」
これはまずいと、直感が告げる。自分の感情を力に変えようと念じただけで、身体の中心に激痛が走った。激しく過度に燃えている心は失ってはならないと、本能が警鐘を鳴らしている。
それでも歯を食いしばると――唐突に、一陣の風が吹いた。
「窮地は好機です――大攻勢は大崩れを招きもします。つまりここは――
歪んだ装飾に彩られた鎌から放たれる、極光にも似た閃光。二人を除くシスターの集団が軽い一振りで薙がれて散る。
無と思われる場所に、大柄の美丈夫が唐突に出現する。その手に握られている禍々しい大鎌が、彼が放つ光輝により神聖ささえ帯びている。
その姿は今日だけで二度も見た、コスプレイヤーそのままだ。
彼は笑顔を崩さずに、敵ではなく俺たちを見てこう言った。
「アテナイが神、アテナ様の英雄ペルセウス――推参いたしました‼ 今ここに、英傑としての力を御覧に入れましょう‼‼」
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