第9話 アイドルは戦争?

「レッスンしないって、一体どういうことですか? やる気な私に喧嘩を売っているのですか? そっちがその気ならやりますよ!」

「レッスンの重要性は何よりもそちらが理解しているはずだ。だって、あんなに熱心――」


 過去の思い出に重ねて、ついそう口走ってしまった。視界の端っこではアテナが首を傾げている。浮気された際の妻みたいな瞳もしていた。歪んだ家庭環境を感じる。


「――熱心、そうに見えていたから……さっきの振る舞いからもだ」


 軌道修正すると、今度は向こう側から非難の視線が飛んでくる。詰みだった。


「……まったく、人の話は最後まで聞くものです。そう教わったのですし、そう教えていた人もいるはずなのですが」


 気まずさの前に、ため息をつく所作に見とれる。前々から振る舞いの端々が映えると思っていたが、一年ほど会わないだけでここまで別次元になっているとは。

 これをどうにかアテナの成長でも活かせないだろうか。そのためには熱心な観察が必要となる。熱心な観察も仕事の一環だから担当偶像アイドルには許してほしいが、そうもいかずに視線の槍がぐさぐさと突き刺さっていた。


「じろじろ見て……まあいいのですか、慣れているので」


 咳払いで会話の流れを切って、隠野は仕切り直す。


「まったく、こど――マネージャーさん、あなたはとても熱心ですが、よくない点もあるのですね。アイドルのことになると、冷静さがまるで消えてしまうのです。他のことには冷めているから、その分の反動なのですか?」


 痛いところを突いてくる。言い返せない。

 重要な場面で冷静さを欠き、失敗した記憶が蘇ってくる。収録、ライブ、機材トラブルに番組出演……。

 もう同様のミスは犯さないよう、ありとあらゆる現場に携わって学んだことを今度こそ絶対に活かす。

 拳を握って、戒める。


「今もなのです」


 指摘され、凹む。


「あなたが焦ってしまうと、担当アイドルまで動揺してしまうのです。アイドルとマネージャーは繋がっているのですから、あんまり焦るのは良くないのです。慌てるのは、わたしの話をよく聞いてからでも遅くはないですので。これでも人気者になったのです。間違ったことは言わないのですよ」


 言われていることはとても正しい。正しいから刺さるが、今はただ平常に、そう平常に。しっかり今後に生かせるよう覚えておこう。

 反省する俺を見て、指導者はまたひとつ息を吐いた。


「別に、職務放棄をしたいわけではないのです。ただ口で詳細を言わずに、ありのままの姿を見せることが、わたしに提供できる最善というだけなのです」

「どういう、ことです?」


 偶像アイドルから偶像アイドルへと差し向けられる問いに、返される言葉はない。

 代わりに提示されたのは、すらりとした立ち姿。雑誌の表紙を飾っていそうだが、今のところはただ立っているとしか言いようがない。

 在るだけで美しいというのは、理想の極致だ。

 歌わずとも踊らずとも魅せられるのであれば、それに越したことはない。


「わたしにだって勿論、只人と比べれば質の良いレッスンは可能なのです。アテナさんのパフォーマンスの硬さを和らげることなど容易も容易なのですよ。しかし、そんなことよりも有用なことがあるのです」

「審美眼の養成、ですか。姿そのものを見せて読み取らせ、その神髄を見抜く力それ自体の養成と。なるほど、確かに有用です」

「正解なのです。さすがに飲み込みが早い……もう少し遅くてもいいのですが、これも才ですか、ウザいのですね」


 ポーズを維持しているからか、表面上は柔和な笑みと共に隠野はアテナを褒めた。褒められた方は分かりやすく胸を張って鼻を鳴らし、彼女はその様子を眺めている。

 その姿は姉妹のようで一見微笑ましいのだが、すぐさま隠れていた敵対心が立ち上って、温和な雰囲気は霧散する。

 教官は相手の力を試しているようで、武略と知恵の女神はその試験に前のめりだった。


「それでは、わたしの挙措を真似てもらうのです。さあ、いいから黙ってやるのです」


 挙措と言っても、彼女は単に立っているだけだった。

 それがこの上なく美しい。自然であるというただ一点が極まりきっており、彼女がこの場にそうあるのが当然だと、常識が改変された気分になってくる。

 これは達人の技だ。常人なら心が折れかねない。

 まあ、レッスン受講者は常人ではないのだが。


「その程度の動き、余裕ですね」


 なんてったって私は神ですから――というキメ台詞は、まるで決まらなかった。信仰だの神だのがわからないだろう隠野は、すべてをスルーしてまたため息。

 原因は至極シンプル。

 アテナがばっちり決めたはずの立ち姿が、まったくハマらなかったからである。


「何故ですか⁉」


 レッスン室の壁一面に広がる鏡面を見て、自分で自分にツッコミを入れるアテネ。

 元の素材が素晴らしく良いので、たとえポーズがちょっとダサかろうとそれはそれで可愛らしいのだが、お手本と比べると足元どころか伸びる影も踏めていない。

 同じステージにすら立てていない。


「ただ立つだけなのに、ただ立つだけなのにぃっ……!」


 対抗心が先行しすぎて、童女の体には力が行き渡っていた。その姿は女神の美しさからは程遠く、寺社仏閣の像に似たパワフルさに溢れてしまっている。

 つまりは、美しさより強さがある。

 緊張がある。その点は先のパフォーマンス疲労と一緒だった。


「もっとリラックスするのです、ほら、息を吸って――吐いて――」

「ぐぬ……そんなの、とっくにやって……」

「ダメなのです。もっと指示には正確に、タイミングには忠実に従うのです。今のわたしはあなたのトレーナー、つまりは神も同然、指導は絶対なのです。はい深呼吸、今吸って……吐いて――また止めて。あと三秒後に再開して――」

「ぐ……はい……」


 アテナはしぶしぶわずかに頷き、先輩が指示するタイミングに合わせて、ひたすらに呼吸を繰り返した。


 深く、浅く、長く、短く、強く、弱く。

 たったそれだけで、硬直していた姿勢が柔らかに変化していく。

 より自然に、より当然に。

 この童女はこう在るべきなのだと、まるで世界が命じているみたいだ。


 なるほど、勉強になる。俺はこっそりスマートフォンを操作して、呼吸のタイミングをボイスメモに記録しておいた。

 少女の呼吸を録音するなんて犯罪者っぽいが、これもアテナのためだ、仕方ない。偶像アイドルが絡めば、罪悪感もなくなる。


 幸いなことにこのメモはアテナに露見してなさそうだ。明白な自身の変化に驚き、鏡とにらめっこしているし。


「むむ……むかつきますが、あなたの指導力は確かなようですね隠野還乃」

「褒めずともいいのです。喋る労力を、自らの改善にのみ向けるのです。そして――ただひたすらにアイドル価値を高める礎となるのです」

「無論、わかっていますとも」

「口だけならなんとでも言えるのです」


 一々煽る。そしてアテナでなくこちらを睨む。

 俺が何かしただろうか。いや、売り出しに失敗したのだが。

 考えうる限り最悪の失態だ。救えない。


 その恨みが、貴重な十代の一部を浪費させられた怨恨が、きっと彼女の中で溢れているのだろう。今もほら、散々威嚇された後にプイとそっぽを向かれた。

 そのまま静止するアテナから一歩下がり、隠野は全身を舐めるように観察する。


「さっきよりは随分とましなのですが……もっと良くなる、素材はまあまあなのです。なにしろ、あれだけいいパンチを放てるのですから」


 彫像と化した少女の周りを、ぐるりぐるりと周回することしばらく。徐々に遅くなっていく歩みが完全に止まると、口を開いた。


「やはり、偶像アイドルは戦い――もう一度、戦闘態勢を取るのです」

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