第5話 事務所と神殿
「――このチャンスを、逃すわけにはいかない。やるしかない。まさに、神が与えてくれた最後の好機、か……」
「はい、その通りです!
この事務所に俺以外の人間が出入りするのは、一体何日ぶりのことだろうか。
電気街の中心部から、少し外れたところにある雑居ビル。そこの二階に位置する狭い事務所には、モノというモノがまるでなかった。芸能事務所としての仕事をほとんど行っていないから、備品も資料も増えないのだ。少し仕事のあった初期からあまり変わらないままだし、暇なために掃除を欠かしていないから汚れてすらいない。
ホワイトボードのスケジュール表は真っ白で、インクの消し残しすらない完璧ぶり。
最近は外回りばかりで気にしていなかったが、こうして改めて見ると悲惨極まりない光景だ。
空間が死んでいる。
だが、うちの
「ここから始まるのですね、私の新しい神話が‼」
軽やかに弾む声が、静寂を切り崩す。
停滞した空間を破るのは、逸脱した
「ふむふむ……中々に狭苦しいですね。ここから神殿に移ることを、当面の目標としましょうか。将来は第二のパルテノン! 喜んでください
「ユネスコな。あと、日本の文化を壊さないでくれ……」
日本を思いきり侵略しに来た格好だ。
この勢いだと、京都にも拠点を構えそうですらある。
「この島国の神話も、ばっちりギリシャに影響されていますから平気ですよ。アジア地域で、シルクロードからの文化伝染を逃れた土地はありません。この国も実質ギリシャです」
「その理論だと、ユーラシア大陸全部ギリシャになるぞ」
「もちろんそうですけど」
発言への躊躇いはもちろんのこと、発想への疑問も一切なし。
どうやら神様とやらは、スケールが違うらしい。
体のサイズは色々と小さいのだが。
「む、なんだか神への不敬を感知しました。あなたは私の
「内心の自由すらないとは、とんだ
「ふっ、まだまだ科学なんぞには負けませんよ」
「どんな規模のモノと張り合おうとしているんだよ」
「神ですので」
そのフレーズは最強だった。強すぎて反論の余地なんてない。
ふざけたやり取りに口も疲れたところなので、俺はコーヒーを淹れに向かう。本来は来客用の備えであったはずが、自分専用となってしまった嗜好品だ。
二杯を注ぎ入れてから、パーテーションで簡単に仕切られた応接スペースへ。
件の女神さまはというと、極めて自然かつ優雅にソファーに腰掛けていた。自分がこの事務所の主であると言わんばかりの、堂々たる振る舞いだ。
俺はテーブルを挟んで反対側のソファーへ体重を預け、対面のアテナにカップを差し出した。
「飲み物淹れてきたぞ」
「ご苦労。下がっていいですよ」
「どんなキャラだよ」
「冗談ですよ、少し可能性を試してみただけです」
早速自分をプロデュースしているようで感心だが、いきなりキャラ方面の模索は心配になる。
イロモノになるというのは、どうしようもなくなった時の最終手段に近い。
女神を名乗っている時点で、色彩で言えば既にパステルピンク並みの痛さであるのは――まあ目を瞑るとしよう。
「これは……」
俺のささやかな心配をよそに、アテナは手渡されたカップをじっと覗き込んでいた。
「どうした?」
「いえこれはですね単にエウロペの神として新大陸原産のモノは口に合うかどうかということでありまして別に苦いコーヒーが苦手だということはなくてですね――」
「ああ、悪い。ミルクと砂糖もってくる」
いつも一人で飲むばかりだったから、他者への配慮がまったく足りていない。これが大事な来客でなくて良かったと思おう。
さくっとシュガースティックとミルクを一つずつ持ってくると、女神が絶望的な表情をしていた。
「……こっそり飲んだか」
「別に飲んでません、ただ味は余裕でしたね、苦みが足りないぐらいです」
「飲んでないのに食レポするな。やらせだと思われるぞ。バラエティに呼ばれなくなる」
「は、早く献上品を捧げてください!」
「はいはい」
お待ちかねの供物(随分と安物だ)を恭しく差し出すと、アテナは即座に捧げものを奪い去った。そのまま、内容物が黒い液体に投じられる。
色だけでなく味もマイルドになったであろうカップに、童女は再チャレンジを行う。
甘い液体を口にしたはずが、童女の表情は依然として苦いまま。
「……神への献上品、足りませんね」
「もう一つ持ってくるか」
「そんなものでは甘いです。いえ、このコーヒーは甘くないのですが……ともかく、あと三本ほどの追加が要りますね」
「……太るぞ。そんなことで
「太りませんよ。女神なので」
「それはすごい、
「そうでしょう。崇めても良いのですよ。大食いロケも行けます」
お世辞で言った言葉を真に受けて、自慢気に胸を張る女神様。神の威厳もへったくれもない。あと俗世に案外染まっている。
「まあ、
自分の中で急速に鎌首をもたけた考えは振り払って、神の小間使いをするとしよう。
「ほら、追加だ」
「ん」
とうとうまともな言葉すら発さずに、古い神様は疑似牛乳と砂糖を俺の手から強奪した。先ほどまでの優雅さは雲散霧消したのか、粗雑な手つきでコーヒーに注がれるのは、大量の糖類と油分。
「ふむ、これならまあ……許しましょう」
「次からはジュースにするか」
「いえ、お構いなく」
「強がらない方が身のためだぞ。アテナってのは子供の神なんだから、そのコンセプトを貫いた方がいいんじゃないか?」
「ふむ、そう言われればそんな感じもしてきました。ギリシャ以外の土地からもたらされるモノと、相性悪いですしわたし」
「そのコーヒーにたっぷりと入ってる、砂糖のこと忘れてないか?」
「サトウキビの原産地は東南アジア、そこからインドに伝わって精製され始めたので、ばっちりシルクロードとそこで活躍した騎馬民族、スキタイの影響下です。実質ギリシャ、間違いありません」
「都合良いな……」
ため息を吐いてからコーヒーを飲んで、俺も一息つく。
いい加減に本題へと入ろう。
「ほっとするのはここまでにして、これからの話をしよう。神だの
「そんなこと口では言っても、頭は正直さんなので信じているんでしょう? 私を信仰しているのでしょう?」
「うるさい。ともかく、アテナを
「ふふん、そうでしょうそうでしょう」
「そうあからさまに自慢げにされるとむかつくな……いや構わん。ガワが可愛いのであればもう何でもいい。中身は後からいくらでも治せるしな」
「治せるって何ですか、まるで病気みたいに」
「薬で治らない分、病よりも性質が悪いぞ」
「むー!」
おかんむりだった。
しかしながら、怒っている様子も魅力的だ。一生怒ってやはり、意味のある言葉を発さなければ、容姿の魅力のみで十分にやっていけそうではある。
――裏方ばかりを務めていたとはいえ、俺もライブやMCなどを数多く目にしてきた。
どういった手法が魅力的で、どういうパフォーマンスが失敗してきたか、会場の空気に触れながら学んできた。
その成果を生かせる機会が、何の因果か転がり込んできたのだ。
この好機は逃せない。
二度と失敗しない。今度こそ――。
「どうしました?」
「いや、何でもない。少し考えをまとめていただけだ」
「なんでもないと言う割には、随分と怖いお顔でしたけど」
「失敗できない大事な仕事だからな……少しは顔も強張るさ」
「良い心持ちですね、あんまり続くと良くないですけど」
どこかから湧き出してきた苦みをコーヒーの味で誤魔化して、俺はアテナに問う。
「アテナ、お前はどういう
「ふむ、そうですね……。私の信仰を奪っている、あの偽物の絵が好きな人たちに――私のことを
「偽物の絵?」
「そういえば、
言われるままにスマホを操作して、ブラウザの画像タブをチェック。
すると、画面の上はとんでもない惨状になっていた。
「前確認したときよりヒドくなっているんですが⁉」
「あー、そういうことか、分かった。完璧に理解した」
アテナと検索して広がるのは、ゲームキャラの画像ばかり。パズルだったり弾いたり、願いを叶えたりRPG戦略ゲーだったり、萌えキャラといちゃついたり――多くのスマホゲームに登場する、無数の『アテナ』たちがそこにいた。
「ギリシャ語、英語で検索した時よりよっぽど酷いというか、画像欄に至っては九九%汚染なんですけども! こんなの私じゃありません! ガチャで祈らないでください! 私に祈ってお願いだから!」
俺からすると、アテナがこんなにも俗だとは考えていなかったのだが、余計な言葉は理性で飲み込んだ。理性が俺に飲み込ませた。
「はっ、ゲームに信仰を奪われた女神か、中々に面白いな」
「笑い事じゃありません! 生き死にどころか、存在の有無に直結する問題です! このまま人気と知名度が奪われ続ければ、存在が消えるんです! それにこれは、矜持を賭けた大事な復讐でもあります!」
テーブルをバンバン叩くことで、怒りを表す童女。知恵の女神の矜持はどこかに飛んでいったらしい。ぺちぺちプラスチックを叩く様からは、武略など欠片も感じられなかった。
「
「なんですか、またバカにするんですか」
「いや、違う。引きがいいなと思っただけだ。口で説明するより――その目で見た方がずっと早いか」
俺は窓の側へと移動し、ブラインドを引き上げた。軽い摩擦音を合図として木材の幕が上がり、ガラス越しの夜景が室内から確認できる。
大して景色が良いわけでもないが、電気街らしさは存分に味わえるだろう。アニメゲームマンガにフィギュア、多くの広告が街中にあるが――どれも偏りを見せていた。
ビルの幹に看板の枝葉。文明の森の中心に一際目立つ、巨大な板がどっしりと構えている。
「あっ、偽物‼ あんなにも大きく!」
頭一つ抜けた高層ビルの上には、彼女曰く『混ぜ物』のイラストが掲げられていた。
大人気ゲームアプリの看板キャラ――夏限定水着ガチャバージョン――が派手なライトに照らされて、その人気を知らしめている。
「あれを打倒します! あそこに私自身が掲げられるように、そして電気と文明の民たちが真なる神を崇めるように! あんなものを圧倒できるようなライブを目標に!」
ふんすと息巻いて拳を握るアテナ。
理想が高すぎる、無謀と言っても差し支えない目標ではあるが――それぐらいが丁度いいだろうか。
「ま、神だしな」
「はい、ええ、神ですから! やってやれないことは――ないんです!」
窓ガラスに反射する彼女の瞳は、電光に負けじと自信で輝いていた。
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