第4話 神のアンチとマネージャー契約

「ヘンテコだが威勢が良くて助かるぜ。臆病者をいじめる趣味はねぇからな。ただ、余裕ぶって舐めるなよ。このオレは、あそこの下手くそシスターとは違うぞ!」


 そう吼えたときには、金髪の少女が俺たちに肉薄していた。両の拳を前方に構えつつ、彼女は屈んで童女の懐に潜り込む。


「素手で挑まれるとは、私も随分と舐められたものです」


 銀の槍が風を切り、切っ先が黒い修道服目掛けて振るわれる。容赦なしだ。


「遅いな!」 


 一振り二振りと続いているらしい童女の攻撃――俺には見えないが、風音だけは聞こえる――をフィルアが避けると、眩しいポニーテールが派手に乱れた。回避行動を取るたびに、舗装路に刻まれる傷は深い。


「シルフィ!」

「わかっていますわ!」 


 相方の掛け声に応じて、もう一人の修道女が動く。鉄槍の先端は神を自称する子供に定められ、武器を投じる細腕はあまりの早さに消えた。

 空を穿つ轟音に、耳をつんざく金属音が重なる。真っ白な服にほつれは一つとしてなく、投射された武具は路面に突き刺さっていた。

 弾いたのか、あの厨二病の子が⁉


「これでしたら、スパルタの民の方が上手いですね」

「おいおい、余裕ぶってる暇がどこにあるってんだよ!」


 フィルアが間髪入れずに小さな体躯へと接近し、彼女の腕もまた消えて見える。拳が長物の柄で受け止められた様子を認めるまで、過程を一切追えなかった。


「面倒ですね……」


 幼い声で絞り出される愚痴も、甲高い衝突音にかき消される。一振りの槍が再び路上に立つも、すぐに光となって消失。解けた輝きは持ち主の手に戻り、同一の槍を再構成する。

 それから続いたのは、過酷な繰り返し。


 純白の童女は殴りかかってくる修道女を追い詰めるも、投槍に対処を迫られる。飛び道具を凌いだころには前衛が体勢を立て直していて、打撃を捌かねばならない。

 きりがなく、緊迫した攻防から目が離せない。危険だと理性はひたすらに警鐘を鳴らしているが、舞踏のような美しさが俺の足を止めていた。


 この光景、この状況――夢に近しいが、戦闘の余波と熱のある言葉たちが現実だと教えてくれる。


「おいこいつ、びくともしないぞ! シルフィ、やり方変えて真っ向勝負で――」

「その必要はありませんわ。向こうは時代遅れの遺物、底はもう見えていますよ」


 聖職者たちのやり取りは、やがて信憑性を帯びていく。俺の目にも次第に、小さな女の子の動作が追えるようになってきたのだ。

 このままだと、どうなるのか。

 彼女が殺され、俺も死ぬのだろうか。殴られて? 金属に穿たれて?

 想像だけが進んで、足はどこにも動かない。この身体は、美麗な武力に呑まれていた。


 劣勢に陥っても諦めていない、女神とやらに心を奪われていた。

 魅力あるものは見なければならない。この業界でやっていく上で勉強になるからだ。アイドルが絡めば、危険なんて無くなる。

 俺は彼女の動きに夢中で、弾け飛んできた槍の破片だって目を閉じる理由には――


「――ぁ、がぁっ!」


 腹が、熱い。それから、痛い。違和感のある腹部を見れば赤くて、でも目は閉じない。閉じれなくて、前を向く。


神官マネージャーさん⁉ っ、我が神威よ、ここに――」


 童女により月へ掲げられた槍の穂が、太陽の輝きに染まる。膨張する光輝は刃の輪郭を曖昧にし、終には一瞬にして爆散。

 白だ。視界はその一色に満ち、他に何もない。爆発に伴って衝撃波が辺りを席巻したのもあって、聴覚もまともに機能してはいなかった。若干痺れの残る触覚と、無駄に頑張る痛覚だけが生きている。


 混乱して程なく、腹部に何か喰らったことだけは分かった。あの連中に殴られたのか、あのポニーテールに殴られて自分が無事なのか。わからない。痛みが思考を阻害する。


「――ぶですか? 大丈夫ですか⁉」


 なんて、透明な呼びかけがあった。あのちびっこの声だ。


「ってて……おい、俺は今どうなってる……」

「私に運ばれてます! 絶賛転進中です! あっ、撤退ではないですよ!」


 揺れがひどい。一体どんな運び方を……。継続している上下振動で今も痛みがひどい。

 ――地獄に時間がしばらく続いてから、唐突に終わりを告げる。長い間移動していたとは思えないが、さほど短い時間でもないはず。


「この辺りなら……うん、問題なし。撒けましたか」


 どさりと落とされ、自分の扱いを知る。土嚢を担ぐのと同じ感覚で運搬されたのか。


「さて、急がないとですね」

「急ぐ……って……?」

「手当です。不思議とあなたの意識に重大な問題はなさそうですが、傷を負っていますから。それにしても、一体どうしてでしょう……ともかく、すぐに直さなくてはですね」

「さ、先に、警察……それから、病院に――」

「やめましょう。一般人ではどうにもなりません。一時的な時間稼ぎで終わってしまいます。この状況を根本から解決するには、私とあなたとでまず偶像アイドル神官マネージャーの関係にならなくては」


 彼女は制止して、自身の胸元をごそごそ探る。


「一体、何を……」

「私が神だと示すのに必要な行為です。そして、傷を治すのにも繋がる作業になります」


 神を名乗る者が取り出したのは――白チョークのようなモノと何らかの植物。 


 よく見ると、オリーブの枝……?

 アテナに関連する植物であり、手間が掛かっているなという感想しかない。何故俺がオリーブとアテナの関係性を知っているかというと、これぐらい教養だからだ。

 深く探られてしまうと、痛みを伴う部分である。負った傷と病の後遺症で死ぬ。


 もう眼前では魔法陣の作成が始まっているし、軽くはない傷を負っているのだ。精神の苦痛はなるべく抑えたい。

 黒歴史を想起している間にも、円と三角形をいくつも幾重にも組み合わせた紋様が手際よくフリーハンドで描かれていく。


 路上アーティストと化した彼女の表情は、真剣そのものを超えている。描くことが当然であると考えているが故に、恐ろしく自然な雰囲気を纏っていた。

 かっこつけでもパフォーマンスでもなく、それが日常であるかのようで。

 陣の作成を馬鹿げたものと考えている俺の方が、間違っているとさえ思えてしまう。


「よしよし、力を失った姿でも芸術の腕は衰えていませんね。さすが私」


 コンパスも定規もなしで薄汚れたコンクリート上に描かれた、白線の集合体。

 その魔法陣の中心へと、童女は片腕で俺を引きずり込んだ。


「な――っ!」


 埒外の膂力に、肺の中に残った空気を全て吐き出してしまう。彼女の腕力だけでなく、周囲の重力までもが数倍になったかのよう。

 両膝を地面につく姿勢となった俺の元へと近づき、彼女は人を見下ろしながら――夜の闇へと唱え始めた。



「オリュンポス十二神の一柱にして、都市ポリスアテナイが守護神、知恵と戦略のアテナの元へ。膝をつき、こうべを垂れて喜びたまえ。今ここに、汝は我が神官となる!」



 力強く唱えたのち、彼女は高らかに歌う。

 ――その歌声は、俺の心と全身をしたたかに打ち据えた。幼さの残る透明な声であるのに声量は号令のようで、四肢の先まで痺れが走る。


 心地よい麻痺と一緒に、痛みが消えていく。流れ出す血は止まって、おかしなことに真っ赤だった衣服まで修復されている。

 なんだ、これは。

 夢か。俺の望んだ夢なのか。聞こえてくる歌も、嘘みたいな音だった。


 歌詞の意味は分からない。俺はこの言語を知らない。だが、どうしても胸の奥が熱を帯びるのだ。湧き出してくる高揚感と外部よりもたらされた熱量が、心中に眠っていた気持ちを呼び覚ます。

 俺は、この歌声を二度と忘れないだろう。一度耳にすれば、一生記憶に刻まれる音であるのだから。そして、この歌をもっと向上させたいと欲するが故に――彼女の最初の歌い出しを、生涯覚えていようと決意する。


 このパフォーマンスは、洗練とはかけ離れていた。ボイトレの影響なんて一切感じさせない、野生の唱歌。発声は荒いし、リズムに乱れはあるし、何より我流が過ぎるが――全てが可能性で出来ている。

 この子をステージで歌わせる。

 脳内が一つの夢に溺れると同時に、変容するのは現実。

 光が、先とは比べ物にならない光の奔流が、この場に現れて渦を巻く。神の意を受けた極光は、この身体を中心に湧出している。

 反射でかざした手も瞑った瞳も何もかも、光の波に押しつぶされた。


 そして、世界が変わる。

 雑多な文明の世界から、眩い純白の景色へと。それからまた、一面が光で漂白された光景を経て、味気ない現代へと。

 視力が戻ってきた頃には、世界がひどく色褪せて見えた。大半の光を失った視界で、唯一淡い煌めきを纏うのは童女――いや、俺が担当する神の偶像アイドルだ。


 なんだ、これは。

 尊い。ただひたすらに――アテナが尊い。

 これまでよりもずっと、アテナの魅力を感じ取ることができる。瞳も肌も髪も、正気を失ってしまいそうなくらいに美しい。眼球に追加のレンズでも差し込まれたように細部がはっきり確認できるが、女神に外面の欠点は一切ない。


 どうやら、視力は以前より高まっているらしい。数分前よりも遠くの文字が見て取れた。視力だけでなく五感全てが鋭く、体も遥かに軽い。

 ただ、それでも。

 それでも、この世界は――。


「どうですか? これであなたも――神官マネージャーさんも、私が正真正銘の神格であると分かったでしょう。やっぱり、視界が違いますよね。ということは世界も異なります。どんな風に見えますか、新しい世は」

「どうって……はっきり見えるようになったというか、解像度が上がったというか……」

「美しい、とは言えないのですね?」


 必死に隠していたところを一突きされて、反論が出来ない。


「つまらないと思いませんか、この世は。文明が明るくするのは物ばかりで、それ以外は真っ暗なままなんて」


 圧倒的な輝きを纏いながら、つらつらと語るアテナ。心なしか、その言葉を『冗談』の一言で切って捨てる気になれない。

 彼女の発言には確かな現実味と重みがあると、今の俺は感じていた。昔の俺――数十秒前の自分なら考えもしなかったことが、今は当然のように頭の中に居座っている。


 現実逃避として周囲を見回してみる。残念なことに、瞳に映るのはこれまでと同様の輝きに欠けた世界だ。

 しかし、明度が低くなった街並みの中に、ぼんやりした光源がちらほらと確認できた。アテナが薄くまとう灯りには及ばないが、味気ない世界を彩っている。

 この灯火にも似た柔らかな存在を、俺は一度見たことがあった。ずっと憧れ、目標としてきたライブで――たった一度だけ。


「――この光は、この正体は……感情か? それも強い、祈りや救いに似た……」

「正解です。この灯りは、誰かが強く込めた思念――こちらの神の言い方は『斂想れんそう』……でしたか。一心に捧げた信仰心や、応援のために注いだ感情がよくこのように輝きますね。親しみやすいように言えば、『推し』への気持ちです。これでぴんときますか⁉」


 こちらがわかるように、ときどき現代日本の言葉で説明してくれる。健気でかわいい。喋ってくれるだけで拝みたくなる。が、今はまじめな話の最中だ。


「この光輝が、何より価値あるモノです。いえ、だったと言うべきですか」


 過去形を強調してから、童女に似合わぬ瞳でどこか遠くを見た。


「でも今の世界では、あんまり重視されません。いつからか、大半の人間には見えなくなったみたいです。あまりに感情を放出しすぎると廃人まっしぐらになるので、情を漏らさないように進化したのでしょうか。人の形だけあっても、中身が空っぽでは意味がありませんし」


 街中にて思いが灯っているのは、どこであれ熱狂が集中する場所だった。イベントがいつも開催されているスペース、人気ゲームやアニメの聖地、そして――。


神官マネージャーとなったあなたには、あの輝きがしっかり見えると思います。紛いなりにも芸能のお仕事をしている人には、なおさらよく分かるでしょう。それに、私が偶像アイドルになりたいと言った理由も」

「信仰心を――信者ファンが捧げる強い思いを、集めたい……のか?」


 あれをもう一度目にしたいというのは、分かる。分かってしまう。


「その通り。現代で神として信仰を集めるのは、不可能に近しいことです。色々な問題を容易に引き起こすことでしょう。ですが偶像アイドルならば、話は別です。宗教や信仰が薄れ、古くの神話ですら歪んでしまうこの島国ですが――神の代替は有効です。皮肉なことに、ここ日本でこそ――我ら歴史ある神の生き残る術がありました」


 信仰、宗教、そして神。

 まともな人間ならば意味が分からない、はずだ。

 では、その逆は何を意味するのか。


「ということで、ギリシャの神々の中で一早く神の弱体化に気付いた私は、こうしてちょうど良い神官マネージャー候補を探して、偶像アイドル活動を始めようと考えたわけです」


 神官マネージャーという単語が意味を、神官マネージャーと書いてマネージャーと読むことを、俺はすんなりと理解できてしまう。理屈ではなく本能レベルで、見聞きできるすべてを受け入れていた。


 生まれた時からスマホが身近にあり、幼少期から操作している子供は、その文明の利器に驚くことも不思議に思うことも稀だろう。

 俺はそれと同様に、ぼんやりした謎の光も縁遠いはずの単語も、すぐそばの童女が神であることも――全てを飲み下している。まるで生まれから今この時まで育んできた、価値観をまるごと書き換えられた気分だ。


 でも、こんな状態であっても、俺は問わなければならない。

 分かっていても、答えを知っていても、結末が予想できても、一縷の望みに残る気力を賭けて。


「俺は、一体どうなった……? 人間じゃ、なくなったのか?」

「いえいえ、人間は人間ですよ。まあ、この現代世界に生きる大多数と比べれば異なりますが、基本が変わったわけではありません。憎きゲーム風に呼ぶとすれば、『ジョブチェンジ』といったところです」


 立ち上がれずにいた俺に手を差し伸べて、アテナは言う。


「あなたは、この私の――女神アテナの神官マネージャーになりました。これから、よろしくお願いしますね! 神官マネージャーさん!」


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