127恥目 そこはやっぱり、親子だもの

「よし、作るかァ」


 仕事から帰ったら直ぐに夕飯の支度。暑がりな俺は冬だっていうのに相変わらずワイシャツ一枚。その袖を捲れば調理開始だ。


 今日のメニューはカレーピラフ。

 アイツらはどうせ疲れて帰ってくるだろうし、少しでも食欲が湧く様にコレにしようと考えていた。

 司の手際の良さに近づこうと、朝に白飯と玄米を混ぜた飯を炊いておいた。けど失敗したな。炒めるんだからいいとしても、冷えて固くなって不味そうだ。


 さて。なんでカレーピラフかって、まだ即席ルウなんか無い時代。俺はカレー粉からカレールウを作るのは苦手だ。前に作った時はサラッサラでシャバシャバのルウになった。スープカレーとは聞こえが良いだけで、実際はカレー味の水にしかならなかった。実際、ルウ以外の調理法にすれば、液体かそうでないかの違いなだけで、味は劣らない筈だしな。


 この台所も、料理にも、すっかり慣れたもんだ。

 仕事が料理関係という事もあるが、手際はかなり良くなったし、野菜を切るのも惚れ惚れするくらい均等に揃えられるようになった。

 ひとり増えた同居人分の食事を作るのもチョチョイのちょい。


 横暴でどうしようもなかったあの頃の俺はこんな事出来なかった筈だ。食い逃げして空腹を凌いでいた俺が、まさか人の為に飯を作るなんて。

 ウワァ、俺ってば成長したなあ。

 心の中で自画自賛。思わず包丁でリズムを刻んじまう。まな板と刃がぶつかる音が拍手にも聞こえる。

 ノリに乗ったまま、植物油をフライパンにしいて、温まったら細切りにしたにんじん、グリンピースと玉葱に、ご飯を入れて、それからカレー粉を投入して炒める。うーんいい香りだねェ。


「お、今日はカレーか?」


 食欲唆る、スパイシーな匂いにつられてやって来たのは、兄さんだ。欠伸をして少し眠たそうに、固まった首をコキコキと鳴らしている。


「ご名答! カレー“ピラフ“だけどなァ」

「文人が作るならいいさ。あまくせの作る料理はダメだ。野菜はデカいし、正直にデカいって言うとペースト状にしてくる。あいつは俺の事老人だと思ってんのかね」

「0か10しか無い男だからな」


 思わず苦笑い。兄さんの言う通りだ。

 まあそれも、要なりの兄さんへの気遣いだ。ペースト状ってのが頂けないが。


「子供扱いと老人扱いでイヤんなるよ。さて、煩く言われる前に風呂でも入るかな」

「あ、まだなんもしてねェや! 悪りぃ、風呂の支度頼んだ」

「はいよ」


 書き物で疲れているはずなのに、軽快に返事をして風呂場に続く廊下へ消えて行った。


 ――が、スタスタと擦るような足音が台所に向かってくる。そして右側の顔を引き攣らせて、ダメだ、廊下が暗すぎると戻って来やがった。

 子供かよ、と一言投げる。仕方ない、兄さんには居間にいてもらおう。無理になれないことをしてもらうより全然いい。

 風呂はそろそろ帰ってくるであろう誰かに支度してもらう。俺は1人しかいないんだからな! 一つのことしか出来ねえぞ!


「おーい帰ったぞ」

「よし帰ってきた」


 噂をすればなんとやら。戸を開ける音と、中也の声。兄さんは「あまくせだ!」と嬉しそうに玄関へ小走りで向かっていく。


 俺もコンロの火を止めて、同じく小走りで出迎える。玄関には、アイスクリームのようにだらりと溶けた男たちが体を投げ出て寝せていた。人の隙間を縫うように転がっているのは大量の本だ。


「おかえり・・・・・・ってなんだこの本」

「はあ、疲れたぁ。 要ぇ、起きて。お家に着いたよ」


 背中にはやつれた娘を背負っている。

 疲れたという言葉とピッタリ同じに乱雑に投げられる、尽斗さんの丸眼鏡。ああ可哀想に。俺は眼鏡を乱暴に扱ったりはしない。このレンズが伊達といえど、大切にする主義だ。


 疲れ果てた奴らが投げたのは眼鏡だけではなかった。マジで何処から持って来たんだ、この大量の本は。質問すると、志蓮が肩を揉みながら答えてくれる。


「菊池社長に会ったら持たされてもうて、肩痛いわぁ」

「全部借りてきたのか。貸すって量じゃねェ気がすっけど」


 一冊ずつ拾い上げていると、鼻息を荒くして興奮しているやつがいる。


「殆ど芥川先生のじゃないか!」


 弟そっちのけで芥川龍之介の本を見て目を輝かせているには兄さんだ。おいおい。少しは心配してやれよ。皆こんなに疲れ切っているのにねぎらいの言葉一つもないなんて可哀想だ。

 玄関に雪崩る本と人。中也と志蓮はずっと肩を抑えて痛いと嘆いている。親指で肩を委してやると、石の如く硬くなってパンパンに膨らんでいる。


「芥川龍之介? なんの関係があるんだよ。あ、芥川賞って、芥川の小説読んだ感想を送りつけてやるモンなのか?」

「それなら一番を取る自信がある」

「バカ。んなわけあるか。純文学のこと聞いたら、これを読めって。で、バスの中で本を読んだ要は酔ってるんだよ」

 

 1番酷くやつれているのが、この家の家主である要だ。ったくコイツは本当に後先考えない。俺もそうだけど。


 まだ完全に戻り切らない体力を甘く見ていたんだ。

 平成から履いてきたっていう黄ばんだ白のスニーカーを脱ぎ捨てる姿は、やさぐれた中学生のように見える。

 踵を器用に使ってポイと転がすなり、匍匐前進で居間に向かうのだから、だいぶ疲れているんだろう。ちゃぶ台の中に潜り込むと嗚咽を漏らし始めた。


「ぎもぢわるい」

「要ぇ、大丈夫? 吐く?」


 父親である尽斗さんが傷が痛むおぼつかない足で居間までよろよろと向い、寝転がる要の背中を摩った。

 青ざめた顔に紫色の唇。これは吐く。確実に。だけどこの様子じゃ、便所に行くには間に合わない。俺は不味いと急いで風呂場の桶を取りに走った。


「無理、吐いちゃう・・・・・・ウエッ」

「待て待て待て! これに吐け!」


 ギリギリセーフ。嘔吐までとは行かなくとも、少し粘り気のある涎をだらんと垂らす。


「大丈夫?」

「はいお前ストップ。ちょっとあっち行ってろ」

「なんでだよ」


 中也が心配そうに、好きな女に近づこうとするので、俺は眉を上げ、掌を突き出した。

 なんでだよって、コイツは不可解な顔をする。

 毎晩就寝中に放つ屁は、意識がないから仕方ないとしても、好きな男に吐いている姿を見られたい奴が何処にいるんだよ。


「死体から髪の毛抜くの気持ち悪いぃ」

「何言ってんだお前。いいから吐け!」


 また訳のわかんねえ事を。背中をドンドン叩く。すると堰を切ったように、豪快に体の中から出せるものを出す。


「まさか読んできたのは羅生門、か?」

「うん。そ――オエェ」

「話しかけんなよ」


 兄さんの言葉にはしっかり反応。そしてまた瀧のように嘔吐。

 吸えた臭いに包まれた部屋では、カレーのスパイシーな香りはもうしない。



「寝ましたぁ・・・・・・ご心配おかけしました。多分、食べ過ぎちゃったのもあるのかなぁ」


 あまくせ達の寝室から、ニコニコと目を細めて笑いながら出てくる父親。

 耳を澄ますと、部屋が違くとも弟のイビキが聞こえて来る。なんだ、寝た途端に随分と元気じゃないか。

 襖を少し開けて寝顔を確認すると、既に寝相が悪い。中原と富名腰はよくこんなのの隣にいれるもんだ。感心する。布団は掛かっていないし、腹も出てる。しょうの無い奴だ。


「ほら。風邪引く」


 足の方に布団が丸まっているのを引っ張り、寝相を直す。足以外は見た目以上軽いのに、足だけは重たく、ゴツゴツしていて太い。

 その時に寝巻きである緑色の浴衣からチラリと内腿が見えた。見てはいけないとすぐに目を逸らしたが、なんだか少し得した気分だ。

 誰にも言えないなあと思いながら、小声で「おやすみ」と言ってから、襖を閉める。


 するとなんだ、俺抜きでしれっと夕食が始まっている。カチャカチャとわざとらしく陶器のぶつかる音を立てられては、ムッとした。


「なァ、食い過ぎって、何食ったんだ?」

「ハンバーグとご飯2杯、プリンアラドーモとサンドイッチ・・・・・・」


 中原が指を折りながら、料理名を上げていく。


「アララ? 坊ちゃぁん? ア、ラ、モードですけどォ?」

「うるせっ」

「あっバーカ!」


 中原は顔を真っ赤にして、文人のカレーの上に沢庵をポンと置いた。

 アラ"ドーモ"、ねえ。井戸端会議の最初の挨拶みたいだ。ゲラゲラ笑ってからかってやりたいが、コイツも疲れた顔をしてるからやめておく。


 初めて会った時はもっと若く見えたが、疲れると年相応だ。おまけに年を追うごとにすぐ怒るようになった。

 要はこんな男のどこがいいんだかね。良さを探そうとすると嫌悪しかない。ああ大っ嫌いだ。だから目を逸らした隙に俺のピラフに入ったグリーンピースを急いでかき集め、また隙を見て奴の皿の上に乗せてやった。


 気づかずにサラサラと平らげていく。ほら、グリーンピースの苦さに顔を歪ませろ! と強く念じた。


「しかし、要はうまいもん食べると体が拒否すんのか? 貧乏慣れしてるんだなァ。ああ、でも、俺もすき焼き食い逃げした時は腹痛くなったわ」

「・・・・・・よく逃げ切れたな」


 すき焼きを食い逃げなんて前代未聞だ。クズだった時の文人はえらく肝が座っていたのか。違うな、ただの馬鹿だ。

 文人は褒められたと勘違いして、にへらぁと、顔をとろけさすようにして頭を掻いた。褒めてねえ。


「美味い物か。確かに外食なんか滅多にしないからな」

「うーん。昼ごはん食べんと、梅干しの種を飴がわりにしとるもんねぇ。普段食べない量に、胃がびっくりしたんかも。家計が苦しいから我慢してるんちゃいますの?」


 富名腰の言葉に皆、耳を疑った。彼は驚いた顔の俺達に驚いた顔をする。

 あいつは昼飯を食べていないのか。最近はずっと家で顔を合わせるが、昼飯は大体一緒に取らない。

 まさか、昼飯がわりに梅干しの種を舐めているなんて。


 父親の尽斗が聞いたら、聞いて呆れて連れ帰るに違いない。急いで彼をみると、眉頭のあたりをくしゃっとさせて、気遣う様に笑っている。


「だ、太宰さんの借金のせいかな?」

「ば、ばか。俺だけじゃないよ」


 気遣った顔を観ていられず、目を逸らした。


「まあ、兎も角、要にだけ負担が掛かるようにはしないでくださいね」


 尽斗に痛いところをつかれると、胸がざわざわ嵐でも来るように騒がしくなって急にカレーピラフが食べにくくなった。

 アイツは寝ているけど、食べさせた方がいいと思って、満腹のフリをして半分ばかり残した。


 それから原稿があるからと、そそくさ自室に戻った。それから罪滅ぼしの為に机に向かい、また文字を書く。


 俺はアイツが満足に昼飯を食ったフリをして、笑顔の裏でひもじくひとり、梅干しの種を舐めている事が非常にショックだった。


 ――。


 夕飯が終わると尽斗は帰ると言い出した。

 てっきり泊まって行くものだと思っていたが、何度聞いてもやっぱり帰ると言うのだ。


「泊まって行けばいいのに」


 尽斗は玄関に腰掛けて黒皮のブーツを靴紐をキツく縛ると、傷を押さえながら立ち上がった。


「いや、明日は学校があるし、やる事を思い出したんだ。要によろしくねぇ」


 柔らかく笑う尽斗とは正反対に、俺は「学校」という単語に焦った。

 最近は学校に行けていないから、後ろの3人に何を言われるかわからない。


 胡散臭い関西の言葉でチクリと細く鋭い刺されるか。

 苦笑いをしながら悪気のない正論をかざしてくるか。

 はたまた、無言で拳が飛んで来るか。


 というか、尽斗は重傷を負いながら学校に行ってるのか。休学していたくせに、年明けから再登校を始めたなんて聞いちゃいないぞ。やめろよ、俺はこの腕の怪我を理由にサボっ――休学していると言うのに。本当にサボってるってバレるじゃねぇか。


「へえ、お義父さんは学校に行ってるのか。へえ、スゴイなぁ。まだ怪我が治りきっていないのに、要まで担いで。スゴイなぁ」


 ほら来た。

 中原は感心したフリをして、俺に嫌味を言っているのだ。背中に受ける視線はきっと咎める様な物に違いない。穴が開きそうな程、今それを感じている。

 そのお熱い視線で蜂の巣にされそうだ。


 いやあしかし、どうしたもんか。

 庇ってくれる奴も眠っているし、急に腹が痛いなんてわざとらしい。ならばコイツを上手くつかって・・・・・・。


「し、下まで送って行くよ」

「え? 寒いから大丈夫ですよ」

「いいから!」


 バツが悪いので、強引に尽斗を家から出して、家の下の階段まで見送ってやる事にした。

 少しでも長く尽斗を引き留めれば、中原に小声を言われなくて済むかもしれないと思ったからだ。悪知恵ばっかりが働く。


 階段下まで行ってしまえば、もうそこからは、立ち話でもしない限り引き止められない。

 だから何でもない話をして、手先が冷たくなるまで彼の足を止めさせた。すると、尽斗は遂に「あの」と申し訳なさそうに言うのである。帰りの手段が無くなるからと言われたら、もう腹を括るしかない。


「・・・・・・あの、太宰さん。今から一晩、付き合ってもらえませんか?」

「付き合う?」


 まさかの誘いに聞き返す。

 尽斗は浮かない顔でこくりと頷くだけだ。その顔は娘にそっくりだと思った。

 何か訳ありに感じたので二つ返事で了承し、家に戻ってマントを取りながら、わざと中原に出かけてくると声を掛ける。


 そうしたら「学校行けよ、クソ野郎」と尻を強く叩かれて終わる。

 体が冷えているから骨まで痛みが響いた気がする。大部屋に反響する音の様に、何時迄もジンと痛んで、さすり続けた。


 長々と小言を言われても、国の兄貴に連絡すると言われるよりウンとましだ。なんとでも言えよ、おっかなくなんかないね。心中であっかんべえと舌を出して笑ってやった。



 それから駆け足で尽斗の元に戻り、近くの飲み屋の暖簾をくぐった。

 せっかく男2人なのだから、娼婦の所に行こうと誘ったが尽斗は強く首を横に振り、これでも父親ですから! と鼻を赤くして大声を出すのだった。

 これまた娘に似て声がうるさい。


 尽斗は店内の1番奥の席に隠れるように座った。何か後ろめたい話でもしたいのだろうか。何を話されるんだ。女の事じゃなさそうだし、金の事? いいや。金に関しては、俺が1番信用出来ない筈だ。なら、なんだ。


 そしてハッと、何の前触れもなく「血溜まりの教室事件」を思い出した。愛だのなんだの言ってなかったか。コイツまさか、本気で俺の事を――?


 以前のような、くにゃくにゃした女っぽさこそないが、今晩付き合ってなどと言われた事を思い出せばそういうことかと腑に落ちる。


「太宰さん、太宰さんてば」

「おっ、あっ、うん?」


 ビールでいいですか? と聞いてくるので、うんと返す。

 テーブルにあるおしぼりをぎゅっと掴んだ。変な汗が出る。無論、俺にそんな趣味はない。尽斗の顔を壁に貼られているお品書きを素振りをしてさりげなく見ると、顔が赤いような気がする。まさか、嘘だろ。


 もしかしてさっきの娼婦の誘いに断ったのは。

 今晩付き合ってくださいっていうのは。

 つまり――ああ、やっぱり全部繋がった。


 来なきゃよかった。これじゃあ中原に怒鳴られていたほうがマシだ。この相手が、薫ならちょっとは一晩だけの相手として考えたかもしれない。しかし現実は尽斗が真向かいに座っている。


「どうぞ好きなの頼んでください。僕が払いますから」

「か、金はあるのか?」


 要が絡まなければ、人見知りで大人しい尽斗。しかし、奢ると言われても、金がなければ意味がない。同じ学生の尽斗、大した額はない筈だ。酒は控えめにして万が一に備えねば。酒に気分を良くされて泥酔なんかすれば、俺は“処女”を失ってしまうかもしれない。だから、金がない方が都合がいい。


「ありますよぉ。ほら」


 すると彼は周りをキョロキョロと見回して、帯の中に右手をそっと入れた。


「げっ」


 俺以外の誰にも見えない様に金をチラリと見せられる。まあ、びっくり。学生には持てないような大金を持っている。借金とは無縁の所にいるというか。憎いねぇ。


「働いてるのか?」

「えへへ、“僕“は“私“でもあるんですよ。きっと褒められた事じゃないけど、“僕“には出来ない事を“私”がやってるんです。一応、人助けだと思ってます」


 褒められたことではない、人助け。ううん。ますます繋がる。


「・・・・・・わかった、お前こそ男娼か何かだろ。体付きはいいし、それにお前ソッチだろ?」


 尽斗は見当が付かないのか、キョトンとした。何故伝わらない。親子揃って鈍ちんか。察せ。その後は何と言っていいかわからずに黙った。


「ああ――生憎、そういう経験が1回きりなのと、体は傷だらけなので、おかっながられて終わりですよぉ。あ、おっかないって方言でしたっけぇ」

「いや伝わるよ。しかし、傷だらけってあの時のか? あの時は派手に暴れたもんなぁ」

「いえ、その前の物もです。自傷行為ですかね。痛みが不安を上回ると楽だったんですよ」


 軽く言うが、ふと尽斗の昔話を思い出すと冗談でも言うべきではなかった。「悪い」と素直に頭を下げた。


「い、いえ! 太宰さんでいう、お薬を飲むのと同じことです。そう考えると何てことないでしょ?」

「何てことなくはないが・・・・・・まあそうか、それなら納得出来る」


 納得するだなんて言ったら、あまくせや中原、それから宇賀神が居たら引っ叩かれる。

 思わず、こそこそと跡をつけてきていないか心配になって、店内の客を確認した。


「とりあえず、乾杯しましょ」


 2つのグラスに黄金の酒。久々に交わす乾杯の音の後、グラスの中のビールをそのまま一気に飲み干した。

 それから、プハアと吐いて、開放感に包まれる。


「ここに女が居たら、なおいいんだけどな」

「ダメですよ。初代さんが居るじゃないですか」

「真面目だねぇ。お前は欲の発散とかどうしてるんだ」

「欲の発散?」


 キョトンとするな。惚けやがって。欲の発散と言ったらアレしか無かろうに。

 右手の人差し指と親指で丸を作り、その中に左人差し指を挿した。


「あっ、ああ、そりゃあ相手なんか居ませんから」

「お前猫背だから、アンマしてるだろ」

「アンマってなんです?」


 はあ、コイツったら本当にもう。仕方ないので立ち上がって、耳打ちで自慰の事だと教えてやった。

 尽斗はちょっと笑いながら、恥ずかしそうにして沢山頷いた。ウブな奴だ。


「そりゃあ、ね。僕も男ですから、欲がない訳じゃないですよぉ。だからその、自分で・・・・・・それで満たされてるので、あんまり女の人とどうこうとかは・・・・・・」

「経験が少ないからおっかないだけだろ?」

「それもそうかもしれないですけどぉ・・・・・・やっぱり好きな人とだけしたいですからぁ・・・・・・」

「あー・・・・・・」


 なんなんだコイツ。振る会話毎に地雷ばっかりじゃねえか。男同士でしか出来ない話にまで、しっかり仕込んでいる。

 惚れた女に騙されて人生を狂わされ、自殺した男。しかも今だって想っているような事を言うんだから、尚更面白くない。


 ソイツがどれだけいい女だか知らないが、2、3人の男と通じた女は穢ないもんだよ。それをコイツが知らないのは、そのユリとかいう女に何処までも真っ直ぐで、それこそ呪いのようにまだ愛しているからだろう。


「あ、でも1人でするのに何が1番イイか試したりはします。利き手じゃない法でやると、なんかイイんですよ。こう、他人に触られてる感じで・・・・・・」


 女とスるには興味がないが、アンマの事は深くまで追求している。それを話す尽斗は杏色に頬を染めて、酒のペースを上げながら楽しそうに話した。


「そういう話がしたいんだよ。わかって来たな」

「太宰さんはどうやるんですか? っていうか、あの家じゃ1人でするどころか、夫婦の営みもできやしないんじゃないですか?」

「バカ言え。それをする時は――」


 飲み屋の1番奥の席で、コソコソ、コソコソ。

 秘密の作戦会議みたいに、あまり過激なのは耳打ちでひっそり話して、その後に大声で笑う。酒も入れば、尚更気も大きくなる。


「いやあ、笑った笑った。お前ヘンタイだな」

「健全な男の子ですってばぁ。要の前じゃあ、こんな話できませんねぇ」

「アイツもヘンタイかもしれないぞ」

「いやぁ、どうかなぁ。うーん・・・・・・」


 要の名前が出た途端、また浮かない顔をする。


「なんだよ」


 まあ飲めと、一升瓶を傾けて日本酒を注ぐ。尽斗はすみません、と頭を軽く下げた。


「・・・・・・要って本当にあの人が好きなんですか?」

「あの人? ああ、チビね」

「そう、チビ」

「あーあ、言ってやろう。中原に言ってやろう!」

「太宰さんが最初に言ったから、便乗しただけじゃないですかぁ! ずるぅい!」

「うらさい、うらさい。まあ座れよ」


 酔っ払って、ムキになって食ってかかってくる。さすがに尽斗を殴る事は無いと思うが、本当に言ってしまったら、全部その怒りが俺に来るに決まってる。


「好きなんじゃないか。まあ俺は女だって知らないフリをしてるし、恋仲かは知らないけど。寝てる時はくっついて寝てるよ」

「はあ、やっぱりかあ。いやね、あの歳なら好きな人くらい居るだろうとは思ってましたよ。そうするとやっぱり、さっきの話じゃないですけど、あるじゃないですか。男女のチョメチョメが」

「・・・・・・」


 ちょっと想像してみた。

 要とチビが裸で営んでいる姿を。どっちが上なんだろうとか、どういうやり方なんだろうとか、少しの時間で最初から最後まで想像した。含み笑いから、「ははは」と思わず、手を叩いて大爆笑。


「ないない! あの2人が? ない、ないね。ない」

「ないのかなぁ。ないならいいんですけどねぇ・・・・・・やっぱり、僕が勝手に死んでしまった事を考えると、もっと誠実でまともな男と付き合って欲しいんですよ。束縛が激しいんじゃなくて、気がついたらいつも側にいて、守ってくれるようなね。押し付けない幸せを与えてくれる、っていうんですかね? ほら、中原中也ってすぐ怒るでしょう。嫉妬深いみたいだし、めんどくさそうだし。それに要は僕に似てるから、騙されていないか心配で。きっと要は経験もないだろうしさ」


 父親の心配事は決まって男があるらしい。下唇を大きく突き出して悩みの種をつらつら漏らす。


「いやわからないよ。昭和じゃ中原が相手だが、平成では他のいい男がいるかも知れない」

「それ、要から聞いたんですか?」


 また勢い良く立ち上がり、座っていた椅子が耳を塞ぎたくなるような音を立てて倒れた。

 あんなに賑やかだった店内が静まり返るので、小声で座るように目だけで合図する。

 尽斗はこめかみのあたりを手根部でぎゅうっと押して、恐らく、本日の本題を切り出した。


「要が、何も話してくれないんですよ」

「何を?」


 泣きそうな顔をするので、出来るだけ優しい声で尋ねた。


「僕が死んでからの話です。僕が死んでから、要がどう生きたのか教えてほしいと言ってるんですけどね。幸せだったから大丈夫、と目を逸らして流すんですよ・・・・・・」

「信じてやりゃあいいじゃないか」

「いや――太宰さんは、なんで自殺しようとするんですか?」


 話が急に飛ぶ。俺の自殺動機なんて聞いてどうするんだ。


「そりゃあ、絶望したからだろ? 金が返せないとか、人が怖いだとか」

「そうなんです。自殺って絶望してるからするんですよ・・・・・・なら、要の言った事は嘘じゃないですか。平成の人がこの時代に来る理由として、自殺しようとしているのが条件なんです。要は平成生まれの子。要がずっと幸せだったなら、急に自分を殺そうと思いますか?」


 彼は後悔の苦さを酒で流し込むように、一升瓶の注ぎ口にそのまま口をつけた。

 そもそも、お前が死んだのがきっかけだったのでは――なんて言えば、泣いてしまうだろうか。酒と一緒に言葉を飲み込むと云う気はなくなる。酒はいいブレーキだ。


「なんにしたって、俺にもアイツの過去はわからないよ。お前の話をしたっきりだ。司って奴がいるんだけど、そいつも要に過去の事を聞いたら、はぐらかされたって。よっぽど知られたくないんじゃないか」


 誰も知らない、要の過去。

 そういえばアイツ、いつだったか泣きながら俺のとこに来て眠ったよな。その時、父さんのこと傷つけちゃうとか言ってなかったか。

 もしかすると、アイツが昔のことを思い出した時、尽斗がその事実を知ってしまったら傷ついてしまうような事があって言えないのかも知れない。

 人を傷つけないように生きるアイツなら、何を聞かれても下手くそな嘘をついて黙るのも納得がいく。


「なあ、聞かないでやるのも優しさだよ?」


 そうは言っても、父親が素直に頷く訳はない。


「優しくなくていいです。ちゃんと知りたい――んでもね、ホントに幸せって、本当に嘘だと思うんですよ。だってね、ユリさん、要の名前すら一度も呼ばなかったんです。呼ばなかったというか、もうそれ以前に会いにすら来てくれなかった。そんな人が、要の事大切にしてくれるのかなって。確かにユリさんのことは好きだけど・・・・・・す、き、だけど」


 下を向いてモゴモゴと、何か言っている。

 ああ言えばこう言う。こういうやつは、自分が納得の行く答えが出るまで話続けるんだ。ならば、聞いてやって満足するのであればそうしてやる。俺はただ、尽斗の金で酒を飲んで頷いていればいいのだから。


 長くなるだろうから、適当なツマミと酒を追加で注文した。

 今日は普段飲まない分も飲もう。飲んでる相手が文人なら、此処には女も居ただろうから、よかったのに。さっき注文した鳥の丸焼きがやっと来ると、指で毟り取りながらムシャムシャ食べる。それを酒で流し込めば呑みとしては完璧だ。

 もちろん、ずっと酒に夢中になっているだけでは可哀想なので相槌は打ってやった。


 すると、本音をやっと言う決心をしたようで、「でも、言えないような過去を背をわせたのならぁ、どうか地獄に落ちて欲しいと思っています」と、言う。

 本格的に酔いが回って来たのか、呂律が回らず、聞き取りずらい。しかし懸命に、そして真剣にそう言うのだ。


 自身の死んだ理由は、その女に拒絶されたからであるのに、今度は地獄に落ちて欲しいと言い出して。


 クソ女、クソババア、腐れビッチ、毒親、無責任教師――好きな女の悪口を言いまくった。

 秘めていたものを見せびらかすように、嫌な部分言っては「ねえ太宰さん?」と、同意を求めてくる。

 顔を真っ赤にしながら酒が無くなる前に酒を頼み、切らせないように必死だ。


「お前、その女に愛されたくて死んだんだろ? そんな風に言っていいのか」

「やだな、要の方が大事に決まってるじゃないですかぁ。あの時は冷静な判断ができなかったって、言ったらいいんですかねぇ。とにかく拒絶されるのがおっかなくて、それだけでいっぱいいっぱいだったんですよぉ。あ、酒ないですぅ!」

「飲み過ぎだよ」


 だらんと項垂れて、まともに座っていられない。けれど一升瓶を頭上で振り回して酒を追加で注文する。酒がないとやってられないとはこのことだ。もう、ヤケ。

 目は無理矢理力を入れてなんとか開けているようで、時々意味不明な事を言っては小さく噯気を出した。


「はああ、死ななきゃよかったぁ。一緒に生きたかったなぁ。話せない過去を作らせてしまって、僕って本当ダメなやつだなぁ」


 死んでから後悔したって遅いのに。一時的な感情かもしれなかったのに、我慢が出来なかった。取り返しのつかない事をしたと嘆いても仕方がないのに――と、嘆く。


 自殺をした後っていうのは、この男のように酷く後悔するものなのだろうか。死後の事なんて誰にもわからない。

ただ、自殺を考えるその時は、目の前の問題から逃げたくて、苦しみから解放されたいからだ。

 死にたい理由なんて、その時はあんまり深く考えるもんじゃない。死にたい時は死にたい。それだけだ。


 それから尽斗はついに酒に手をつけられなくなるほど酔い潰れた。たくさんの種類の酒を頼んで栓を開けたくせに、どれも中途半端に残っている。

 それを口実に、瓶に残る酒が勿体無いので遠慮なく片付けた。飲み終わる頃には店も閉まるというので、帰ろうと尽斗に声をかけたが店員の声なんて聞こえちゃいない。


 なんってこった。俺がコイツを背負って帰るのか? 仕方ないので肩を貸してやる。

 ずっしりとのしかかる体重に蹌踉めく。

 同じくらいの身長に見えた尽斗は、実際は俺よりも大きかった。いつもクルンと丸まった背中だから、気づかなかったが体もしっかりしているし、顔立ちも整っている。


 それから一つ衝撃を受けた。

 コイツには、足元に伸びる影がない。

 俺も酷く酔っているのだと思いたかったが、尽斗は本当に死んでいる人間なのだと思うと妙に納得した。そしてとても恐ろしくなった。死人が生きていて、そいつに触れているのだから。


 飲み代は尽斗の着物から勝手に出した。釣りを受け取って着物に戻そうとしたが、少額だったので、迷惑料として受け取ることにする。酒一杯分にもならない金額。寧ろ少ないくらいだ。


 闇の深まった夜道は薄気味悪い。

 さらに、引っ掻くような痛みを伴った寒風が体を縮こまらせた。半分寝ていた尽斗も風の冷たさに目をパッチリと覚ました。自分で歩くというが、絡まるようにおぼつかない足元が頼りない。無言でまた肩を貸してやった。


「バカだなぁ、僕は」


 尽斗は情けないとしょげる。しょげるわりに思い切り体重を預けてくるから、重たいし、素直に思ったこと言うなら、図々しい。


 俯くと、ふんわりと丸まった髪の毛が揺れる。足は自宅へと向かっていた。本音は戻りたくないが、生憎コイツを担ぎながら娼婦のところに行くのも気が引ける。


 すると尽斗は寒さを吹き払うように、複雑な感情を詰め合わせたような、溜め息に近い声を出した。


「太宰さんはすげぇや。喋ってもない、存在も知らないのに、平成の要の事、言葉で育てちゃうんだもん。あのねぇ、要がああなったのは、太宰さんのおかげなんですよ。わかってます?」

「わかりません」

「そ、う、な、ん、で、すぅ!」


 声がデカイ上に顔が近いので、グイと押し戻してやった。


 そんなことは等の前に本人から聞いている。だからあまくせだって、なんでもないような文を有難がる。

 だからこそプレッシャーもあるさ。……別に関係ないと思いながらも、まだ書いていない、当人ですら知らない俺自身が書いた本を懐に入れて、金より大事にしているのを見ると誇らしかった。


「だからね、あなたが居たから、要と会えた。だからこれからも沢山書いて、未来の僕らを救ってくださいね」


 柔らかく、そしてどこか悲しげに笑う尽斗は、いつかの要にそっくりだった。

 2月の冷たい夜風が、酒で温まったはずの体を冷やす――冷やしてくれたらいいのに、体がカッと一気に火照った。人に頼られるのはこんなにむず痒くて、気恥ずかしいものなのか。


「・・・・・・全く、お前らは本当に似てるよ」

「んえぇ? だってほらぁ、そこはやっぱり、親子だもの」


 今度は得意げに鼻腔を広げて云う。

 全く、勝手に2人分の人生を任されちゃあ気負いして、こっちが死んでしまいそうだよ。


「書いてもいいが、高く付くぞ」

「えー? またまたぁ、じゃあもう一軒行きましょうかぁ」

「いいねえ。今度こそ娼婦のいるところに・・・・・・」

「それは、イヤです」

「つまんねぇやつ」


 家に帰るのは良して、飲んでそのまま学校へ行こうということになった。

 肩を組み、ゲラゲラ笑いながら猥談なんて如何にも友達っぽくていいと思った。


 今晩のことは、少しでも「尽斗」の助けになれただろうか。

 ふと、脳裏に家の花瓶に挿さっている紫色の花が頭に浮かんだ。

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